第二百十六章 名前を呼ばない人
水曜日の朝、透が会社へ向かう途中、小さな公園の前で足を止めた。
ベンチに一人の老人が座っている。
隣には買い物袋が置かれていた。
老人は通り過ぎる人を眺めていた。
透と目が合う。
「おはようございます」
老人が言った。
「おはようございます」
透も頭を下げた。
それだけで終わると思った。
「最近、よくここを通るね」
老人が言った。
透は少し驚いた。
「そうですか?」
「うん」
「気づきませんでした」
「毎朝いるからね」
老人は笑った。
「名前、なんていうの?」
透は少し迷ってから答えた。
「朝倉です」
「朝倉さんか」
「はい」
「私は、名前を言わないことにしてるんだ」
「どうしてですか?」
老人は公園の向こうを見た。
「昔、名前を覚えられるのが嫌だった時期があってね」
「今も?」
「今は、どっちでもいい」
そう言って笑った。
透はそれ以上聞かなかった。
老人は買い物袋を持ち上げた。
「今日は重い」
「持ちましょうか?」
「いや、大丈夫」
老人はゆっくり立ち上がった。
少しよろけたが、すぐに姿勢を戻した。
「じゃあ、また」
「はい」
透は会社へ向かった。
昼休み、同僚にその話をした。
「名前を言わない人?」
「うん」
「変わってるな」
「そうかな」
「普通は名前くらい言うだろ」
透は弁当を食べながら考えた。
「言いたくないなら、言わなくてもいいんじゃない?」
「でも、名前がないと困らない?」
「必要なときは困るかもしれない」
「だろ?」
「でも、必要じゃないときもある」
同僚は少し黙った。
「まあ、そうか」
午後、会社に電話が入った。
「昨日の荷物について確認したいんですが」
受付の人が対応している。
「どなたの荷物か分かりますか?」
「名前は分かりません」
「では、特徴を教えてください」
しばらく話したあと、受付の人は倉庫を確認した。
該当する荷物は見つかった。
けれど、名前は書かれていない。
「どうします?」
担当者が透に聞いた。
「電話してきた人に確認すればいいんじゃないですか?」
「でも、本当に本人か分からない」
「じゃあ、もう少し確認してからで」
結局、その日は荷物を渡さなかった。
夕方、受付の人が言った。
「名前だけじゃ、本人かどうか分からないこともありますね」
「そうですね」
「逆に、名前がなくても分かることもある」
透は頷いた。
帰りに公園を通ると、朝の老人がまだいた。
「今日は遅いね」
「仕事がありました」
「そうか」
老人は隣のベンチを指した。
「座る?」
透は少しだけ座った。
二人でしばらく黙っていた。
「朝倉さん」
「はい」
「名前って、不思議だね」
「どうして?」
「名前を知ったからって、その人のことを知ったことにはならない」
透は老人を見る。
「そうですね」
「逆に、名前を知らなくても、何度か会えば顔を覚える」
「はい」
老人は笑った。
「だから、私は名前を言わなくてもいいと思ってる」
「分かりました」
「嫌じゃない?」
「何がですか?」
「名前を知らないこと」
透は少し考えた。
「今は、別に」
老人は満足そうに頷いた。
「じゃあ、それでいい」
しばらくして、老人が立ち上がった。
「また明日」
「はい」
老人は名前を言わないまま歩いていった。
透も立ち上がった。
家に帰ると、机の上に昨日の木の鳥がある。
名前はない。
どこで作られたのかも分からない。
それでも、透はそれを見ていた。
名前がないことと、何も知らないことは同じではない。
そして、名前を知ることと、その人を知ることも同じではない。
透はそんなことを考えながら、木の鳥を少しだけ横へ動かした。
窓から入る夕方の光が、その表面に当たった。
鳥には、名前がなかった。




