第二百十四章 戻せなかったもの
月曜日の朝、会社の入口に小さな机が置かれていた。
机の上には、いくつかの物が並んでいる。
手袋。
工具。
水筒。
帽子。
そして、一本の鍵。
「忘れ物?」
透が聞くと、受付の女性が頷いた。
「先週から少しずつ増えたんです」
「持ち主は分からないんですか?」
「分かるものもあります」
女性は手袋を指した。
「これは昨日、本人が取りに来ました」
次に帽子。
「これは名前が書いてあったので連絡できました」
最後に鍵。
「これは、誰のか分からなくて」
透は鍵を見た。
古い鍵だった。
持ち手の部分に小さな傷がある。
「会社の鍵ですか?」
「たぶん違います」
「じゃあ、どうしてここに?」
「拾った人が、ここに届けたそうです」
「なるほど」
受付の女性は鍵を小さな袋に入れた。
「しばらく保管します」
「どのくらい?」
「一応、一か月」
「その後は?」
「分かりません」
透は少し考えた。
「処分するんですか?」
「たぶん」
女性は苦笑した。
「規則があるわけじゃないので、まだ決めてません」
午前の仕事が始まった。
昼前、以前一緒に働いていた社員が会社に来た。
「ちょっと荷物を取りに来ました」
机の引き出しから古いノートを取り出している。
「もう戻らないんですか?」
同僚が聞いた。
「今のところは」
「また戻ってくればいいじゃないですか」
男性は笑った。
「戻れる場所が残ってればね」
「残ってるでしょ」
「分からないよ」
ノートを鞄に入れた。
「じゃあ、また」
そのまま帰っていった。
午後、別の社員がその人の机を見ていた。
「これ、どうする?」
「何が?」
「置いていったもの」
机の奥から古いマグカップが出てきた。
名前は書かれていない。
「捨てる?」
「まだ使えるけど」
「本人に連絡する?」
「連絡先、分かる?」
二人で顔を見合わせた。
結局、マグカップは棚の上に置かれた。
誰かが必要になれば使う。
必要にならなければ、そのまま。
仕事が終わったあと、透は受付の鍵をもう一度見た。
朝と同じ場所にある。
持ち主は来なかった。
駅へ向かう途中、彼女から連絡が来た。
「今日、昔の友達から連絡があった」
「この前の人?」
「違う人」
「何て?」
「また会おうって」
「会うの?」
「まだ決めてない」
「そうなんだ」
少しして、
「前なら、会ったほうがいいって言ってた?」
と届いた。
透は画面を見た。
「たぶん」
「今は?」
「会いたいなら会えばいいと思う」
「会いたくなかったら?」
「会わなくていい」
「それだけ?」
「それだけ」
彼女はしばらく返信しなかった。
やがて、
「分かった」
とだけ返ってきた。
透はスマートフォンをしまった。
自分が決めることと、相手が決めること。
最近、その境目を少しずつ意識するようになっていた。
それでも、境目はいつもはっきりしているわけではない。
誰かが困っていれば手を貸すこともある。
頼まれれば考える。
けれど、相手の代わりに決める必要はない。
駅に着くと、改札前で一人の男性が困っていた。
「すみません。この電車、南口に行きますか?」
透は案内板を見た。
「南口なら、次の駅じゃなくて、この駅で降りればいいと思います」
「ありがとうございます」
男性は礼を言って電車に乗った。
透も乗った。
扉が閉まる。
本当に正しかったか、少しだけ気になった。
けれど、案内板を見て、その時分かる範囲で答えただけだった。
電車は動き出した。
間違っていたら、次の駅で確認すればいい。
透は窓の外を見た。
戻せないものもある。
戻れるものもある。
戻らないほうがいいものもある。
その違いを、最初から全部知る必要はないのかもしれない。
電車は次の駅へ向かっていた。




