第二百十二章 渡されなかった手紙
金曜日の朝、透は郵便受けを開けた。
広告の中に、一枚だけ手書きの紙が入っていた。
宛名はない。
住所もない。
ただ、
「管理人さんへ」
とだけ書かれている。
透の部屋の郵便受けに入っていたが、自分宛てではない。
隣の部屋のものかもしれない。
下の階かもしれない。
あるいは、建物の誰かに向けたものかもしれない。
透はしばらく紙を見た。
「どうしよう」
独り言が出た。
そのとき、廊下の向こうから管理人が来た。
「それ、どうしました?」
「郵便受けに入っていました」
透は紙を渡した。
管理人は表を見る。
「私宛てですね」
「すみません」
「いえ、ありがとうございます」
管理人は紙を開かなかった。
そのままポケットに入れた。
透は少し意外だった。
「読まないんですか?」
「私宛てなら、あとで読みます」
「ここで?」
「いや、自分の部屋で」
そう言って、管理人は去っていった。
透も仕事へ向かった。
昼休み、同僚がスマートフォンを見ながら言った。
「昨日、友達から長いメッセージが来た」
「何て?」
「まだ読んでない」
「読まないの?」
「今読むと、仕事中に気になりそうだから」
「じゃあ、帰ってから?」
「そうする」
スマートフォンをポケットにしまった。
「すぐ読む必要って、ないんだよな」
「うん」
透は弁当を食べながら頷いた。
午後、会社の受付に一人の女性が来た。
「以前ここで働いていた人に、これを渡してほしいんですが」
封筒を差し出している。
受付の人が尋ねた。
「今もこちらにいますか?」
「分かりません」
「お名前は?」
女性が答えた。
受付の人は名簿を確認した。
「以前はいました。ただ、今どこにいるかまでは分かりません」
「そうですか」
「連絡先はお持ちですか?」
「昔の番号なら」
「それでしたら、ご本人に直接連絡されたほうがいいと思います」
女性は封筒を見た。
「渡してもらえませんか?」
受付の人は少し困った顔をした。
「預かることはできます。でも、本人に渡る保証はありません」
「……そうですよね」
女性は封筒を持ったまま、しばらく立っていた。
「じゃあ、やめておきます」
「分かりました」
女性は封筒を鞄にしまった。
帰っていった。
透はその様子を遠くから見ていた。
夕方、受付の人が言った。
「昔の人に渡したいものって、難しいですね」
「はい」
「預かっても、渡せなかったら困りますから」
「そうですね」
それ以上、話は続かなかった。
夜、彼女と会った。
駅近くの小さな店で食事をした。
彼女は鞄から封筒を出した。
「これ、まだ読んでない」
「前に言ってた手紙?」
「うん」
「読まないの?」
「今日はいいかなって」
透は封筒を見た。
「いつ読むの?」
「分からない」
「そっか」
それだけだった。
彼女は少し笑った。
「聞かないんだね」
「聞いたほうがいい?」
「別に」
「じゃあ、いいかなって」
「そういうところ、また変わったね」
透は箸を置いた。
「前は聞いてた?」
「聞いてた」
「今も気になるけど」
「うん」
「でも、読むかどうかは俺が決めることじゃないから」
彼女は少し黙った。
それから封筒を鞄に戻した。
「じゃあ、今日はこれでいい」
「うん」
店を出ると、外は少し寒かった。
駅まで歩く。
「透」
「ん?」
「もし私が、ずっと読まなかったら?」
「それもいいんじゃない」
「手紙なのに?」
「手紙を書いた人は、読んでほしいかもしれないけど」
透は少し考えた。
「読む人がいつ読むかまでは、決められないと思う」
彼女は何も言わなかった。
しばらくして、
「そうだね」
と言った。
駅の入口で、彼女は別の方向へ歩いていった。
透も反対側へ向かった。
手紙は、まだ開かれていない。
けれど、それだけで何かが失われたわけではない。
読まないことも、今は一つの選択だった。




