第二百十章 順番のない場所
水曜日の夕方、透は仕事帰りに小さな診療所の前を通った。
入口に紙が貼られている。
「本日は予約の方を優先します」
その下に、もう一枚。
「急な相談も受け付けます。ただし、待ち時間が長くなる場合があります」
入口の横には、数人が座っていた。
予約をしているのか、していないのか。
透には分からなかった。
中から受付の人が出てきた。
「予約の方は、名前を呼びますので、そのままでお願いします」
一人の男性が手を上げた。
「予約してないんですが」
「症状を教えていただけますか」
男性は少し迷ってから話した。
受付の人は頷いた。
「少しお待ちください」
男性は椅子に座った。
その隣にいた女性が、
「予約してる人からですよね」
と聞いた。
「基本的にはそうです」
「じゃあ、私は後ですか?」
「状況によります」
女性は少し考えた。
「分かりました」
それ以上は言わなかった。
透はその場を離れた。
駅へ向かう途中、コンビニに寄った。
レジには三人並んでいる。
後ろから来た男性が、
「こっちのほうが早いかな」
と言って、隣の列に移った。
ところが、その列には返品の客がいた。
「少々お待ちください」
店員がそう言って、奥へ行く。
男性は時計を見た。
数分後、元の列のほうが先に進んでいた。
男性は苦笑した。
「失敗したな」
透は少し笑った。
どちらが早いか。
その時点では分からない。
列を選ぶこと自体はできる。
けれど、結果までは選べない。
翌朝、会社でも似たようなことがあった。
作業の順番について、班長が説明していた。
「まず、こちらを終わらせてから、次にあちらへ行きます」
「そのあと、どうします?」
「その時の進み具合を見て決めます」
「最初から決めないんですか?」
「決めても変わるかもしれないので」
誰かが、
「じゃあ、今はここまで分かればいいですね」
と言った。
「そうです」
透は作業を始めた。
午前中に予定していた仕事は、思ったより早く終わった。
昼前には次の作業へ移ることになった。
最初の予定とは少し違っていた。
けれど、誰かが嘘をついたわけではない。
ただ、最初に分かっていたことと、その後に分かったことが違った。
昼休み、同僚が言った。
「予定って、予定のまま終わること少ないよな」
「そうだね」
「でも、予定がないと困る」
透は弁当を開きながら頷いた。
「うん」
午後、作業場に新しい人が来た。
昨日まで別の場所にいたらしい。
「今日からここです」
「明日も?」
誰かが聞いた。
「それはまだ分かりません」
「じゃあ、明日は?」
「たぶん、ここだと思います」
みんな少し笑った。
その人も笑った。
「すみません。まだ聞いてないんです」
「いいよ。分かったら教えて」
班長が言った。
その日の帰り、透は彼女と駅で会った。
彼女は手に小さな紙袋を持っていた。
「それ何?」
「昨日交換した本」
「持ってきたの?」
「電車で読もうと思って」
「面白かった?」
「まだ途中」
「じゃあ、まだ分からないか」
「うん」
彼女は少し笑った。
電車が来る。
二人は並んで乗った。
席は空いていなかった。
「次で座れるかな」
透が言う。
「どうだろう」
「たぶん?」
「たぶん」
二人は立ったまま笑った。
次の駅では、何人か降りた。
けれど、空いた席には別の人が先に座った。
透はそのまま立っていた。
彼女も隣に立っている。
「座れなかったね」
「うん」
「まあ、いいか」
「うん」
電車はゆっくり走り出した。
窓の外の景色が流れていく。
予定どおりになることもある。
ならないこともある。
その違いを、毎回誰かの嘘にする必要はない。
透はそんなことを考えながら、彼女の手にある本を見た。
まだ途中だった。
そして、途中のままでも構わないような気がした。




