第二十一章 行くかどうか
透は、しばらく端末を見つめていた。
『その住所には行かない方がいい。』
その言葉だけなら、従う理由はいくらでもある。
だが、
『そこに住んでいる人間は、あなたが探している人間ではない。』
そして、
『その人間は、あなたが探しているものを知っている。』
この三つを並べると、少し違って見えた。
行くなと言われている。
しかし、同時に、そこに何かがあることも教えられている。
透は椅子に座ったまま、紙に三つの言葉を書いた。
行くな。
探している人間ではない。
知っている。
そして、その下に、
誰が言っている?
と書いた。
それから、しばらく考えた。
もし、このメッセージを送った人間が、本当に透を守ろうとしているなら、住所を教えた意味が分からない。
逆に、透を誘導したいのなら、行くなと言う必要もない。
つまり、このメッセージだけでは、送り手の目的を判断できない。
透は紙を折った。
そして、住所へ向かうことにした。
ただし、一つだけ決めた。
その人間に、南区のことを最初から話さない。
何を知っているのか。
それだけを先に聞く。
駅から電車に乗り、途中で一度乗り換えた。
目的地は、中心街からかなり離れていた。
住宅地に入ると、古い家が増えてきた。
商店は少ない。
道路も狭い。
昼間なのに、人の姿はほとんどなかった。
透は紙に書いた住所と建物を確認した。
小さな二階建ての家だった。
表札には、別の名前が書かれている。
透はインターホンを押した。
しばらくして、女性が出てきた。
六十代くらいだった。
「どちら様ですか?」
「突然すみません。少しお聞きしたいことがあって」
女性は透を見た。
「何について?」
透は一瞬迷った。
そして、
「以前、物流関係の仕事をされていた方についてです」
女性の表情が少し変わった。
「誰から聞いたの?」
「記録です」
「名前は?」
透は答えなかった。
女性も何も言わない。
しばらくして、
「中へどうぞ」
と言った。
居間には古い家具が並んでいた。
壁には時計。
その横には、何年も前の写真が一枚飾られている。
透は写真を見た。
数人の男女が写っていた。
その中に、見覚えのある顔があった。
昨日の男だった。
そして、その隣に女の弟がいた。
透は何も言わなかった。
女性はお茶を置いた。
「あなた、あの二人を知ってるの?」
「少し」
「そう」
女性は向かいに座った。
「私は昔、あの会社で事務をしていたの」
「この写真は、その時のものですか?」
「そう」
透は写真を見た。
「この中に、南区へ行った人はいますか?」
女性の手が止まった。
「どうして南区を知ってるの?」
透は答えなかった。
女性は少し笑った。
「なるほど」
「何がですか?」
「まだ、誰から何を聞いたのか言いたくないのね」
透は黙った。
女性はお茶を一口飲んだ。
「それでいいと思う」
「……どうしてですか?」
「情報を簡単に渡さない人の方が、少しだけ長く生きられるから」
透はその言葉を聞いて、背筋を伸ばした。
「あなたは、何を知っているんですか?」
女性はしばらく黙っていた。
「南区へ行った人間について?」
「はい」
「何人か知っている」
「その中に、あなたの知っている人が?」
「弟さんも知ってる」
透は驚いた。
「彼が南区へ行く前に、ここへ来たことがある」
「何をしに?」
「相談に」
「何について?」
女性は窓の外を見た。
「自分が働いている会社について」
「何か問題があったんですか?」
「問題というより、変化ね」
「変化?」
「最初は荷物を運ぶだけだった」
女性はゆっくり話した。
「そのうち、荷物だけではなく、人の情報を扱うようになった」
透は黙って聞いていた。
「名前、住所、所属、連絡先。どこで働いているか。どこへ行ったか」
「物流会社が、ですか?」
「そう」
「どうして?」
「誰かが必要としたから」
また、その言葉だった。
必要。
誰かが必要とするから、仕組みができる。
女性は続けた。
「でも、一番おかしかったのは、その情報が消えることだった」
「消える?」
「ある日まで存在していた人間の記録が、翌日にはなくなっている」
透の心臓が少し速くなった。
「その人たちは?」
「生きている人もいた」
「生きているのに、記録だけが?」
「そう」
「なぜ?」
「知らない」
女性は首を横に振った。
「だから、弟さんは私に聞きに来た」
「何を?」
「『記録から消えた人間は、どこへ行くのか』って」
透は息を止めた。
その質問は、南区第七居住棟で見つけた記録と繋がっているように思えた。
しかし、まだ繋げない。
女性が言った。
「私は答えられなかった」
「でも、何か知っているんですよね?」
「知っているのは、行き先じゃない」
「では?」
女性は透を見た。
「消える前に、本人が何かを選んでいることがある」
「本人が?」
「そう」
透は黙った。
まただった。
本人の選択。
弟もそうだった。
南区へ行かなかった人間も、何かを選んだのかもしれない。
記録から消えた人間も。
「その選択って、何ですか?」
女性は答えなかった。
代わりに、古い引き出しを開けた。
中から、一枚の紙を取り出す。
透の前に置いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
『記録されないことを、本人が望んだ場合は確認を必要としない。』
透は紙を見つめた。
南区で見た、
『受領者本人による確認を必要としない。』
という文章と、よく似ていた。
だが、同じではない。
女性は言った。
「この紙を見せるために、あなたを呼んだわけじゃない」
「では、なぜ?」
「あなたがここへ来ることを、昨日の夜に聞いていたから」
透は顔を上げた。
「誰から?」
女性は答えなかった。
ただ、静かに言った。
「あなたに一つだけ聞きたいことがある」
「何ですか?」
「あなた自身は、自分が何を探していると思っている?」
透は答えられなかった。
南区なのか。
弟なのか。
記録なのか。
嘘なのか。
それとも、嘘の中で人が何を選んでいるのか。
女性は、透の沈黙を見ていた。
「まだ分からない?」
「はい」
「それなら、そのままでいい」
「どうして?」
女性は紙を引き出しに戻した。
「分かったと思った時が、一番危ないから」
透は何も言わなかった。
帰るために立ち上がる。
玄関まで行ったところで、女性が呼び止めた。
「透さん」
透は振り返った。
「その名前、誰にも渡していないでしょう?」
透の表情が固まった。
女性はそれ以上何も言わなかった。
ただ、
「それでいいと思う」
とだけ言った。
透は家を出た。
外は静かだった。
住所へ来る前と、何も変わっていない。
だが、一つだけ変わった。
透は初めて、自分が探しているものについて、少しだけ分かった気がした。
答えではない。
むしろ、
誰かが自分のために残した嘘を、別の誰かが真実だと思っている。
その可能性だった。
透は歩きながら、端末を取り出した。
女へ連絡しようとして、やめた。
白石にも連絡しない。
今はまだ、この情報を自分だけで持っていたかった。
そして、その判断をした直後だった。
背後から、一台の車がゆっくり通り過ぎた。
透は振り返った。
見覚えのある車だった。
北側物流の車両だった。
だが、今日は荷物を積んでいない。
車は透の前を通り過ぎ、少し先で止まった。
ドアが開く。
誰かが降りてきた。
透はその人物を見た。
昨日、食堂で会った男だった。




