第二十章 行かなかった人
食堂を出たあと、女はしばらく何も言わなかった。
透も聞かなかった。
駅へ向かう道は、昼間より人が増えていた。
仕事へ戻る人。
買い物をする人。
子どもを迎えに行く人。
それぞれが、自分の目的地へ向かっている。
やがて女が口を開いた。
「さっきの話、どう思った?」
「どの話ですか?」
「弟が南区へ行ったこと」
透は少し考えた。
「本人が行きたいと思ったなら、行ったこと自体は否定できないと思います」
「探さない方がいい?」
「それは分かりません」
女は黙った。
透は続けた。
「探したいなら、探していいと思います」
「でも?」
「弟さんが自分で選んだ可能性も、同時に残しておいた方がいいと思います」
女は少し笑った。
「難しいね」
「はい」
「私は、弟が自分で選んだなんて考えたくない」
透は何も言わなかった。
「自分から行ったと思ったら、私が探す理由がなくなる気がするから」
「……そうかもしれません」
「だから、私は弟が騙されたと思いたいのかもしれない」
透は女を見た。
彼女は前を向いたままだった。
「騙されたなら、助けられる」
「はい」
「でも、自分で選んだなら……」
そこで言葉が止まった。
透は続きを待った。
しばらくして、女が言った。
「私が受け入れなきゃいけなくなる」
透は、その言葉を聞いて何も言えなかった。
それは、嘘を信じたいということとは少し違う。
真実を知りたいのではなく、
自分が耐えられる形の情報を選んでいる。
透はそれを否定する気にはなれなかった。
自分だってそうだった。
白石が嘘をついている可能性を考えながら、それでも朝食を一緒に食べた。
全部を知りたいわけではない。
知らないことがある状態でも、そこにいることを選んだ。
「透」
「はい」
「あなたは、白石をどう思ってる?」
透は少し考えた。
「分かりません」
女が笑う。
「また?」
「でも……」
透は歩きながら言った。
「白石さんと一緒にいると、安心するんです」
女は何も言わなかった。
「だから、全部を疑いたくない」
「それは信頼?」
「分かりません」
「じゃあ、何?」
透は答えなかった。
安心。
それだけだった。
それ以上の名前をつける必要はない気がした。
二人は駅前で別れた。
女は北へ。
透は反対方向へ歩いた。
その途中、透は昨日の男の言葉を思い出した。
――南区に行かなかった人間も見た方がいい。
その日の夕方、透は一人で古い物流会社の記録を調べ始めた。
南区へ行った人間ではなく、
南区へ行くはずだったのに行かなかった人間。
記録を一つずつ確認していく。
十人。
二十人。
三十人。
ほとんどの人間は、別の部署へ移っていた。
数人は退職。
一人は病気。
そして、一人だけ。
記録が途中で途切れていた。
名前は、昨日の名前とは違う。
だが、所属欄に奇妙な記号があった。
N―07
透は画面を拡大した。
同じ記号だった。
南―07とは違う。
だが、似ている。
透はすぐに結論を出さなかった。
その人間の記録をさらに追った。
最初の勤務先。
異動先。
退職日。
最後に確認された場所。
そして、一つの住所に辿り着いた。
北側ではない。
南区でもない。
街の中心から離れた、小さな住宅地だった。
透は住所を紙に書いた。
そこまで書いたところで、手が止まった。
誰かに話すべきか。
白石に?
女に?
それとも、自分で行くか。
少し考えたあと、透は紙を折った。
今はまだ、誰にも言わない。
その夜、女から電話が来た。
「今、どこ?」
「部屋です」
「私は今、弟の元同僚から連絡をもらった」
「何か分かりましたか?」
「うん」
声が少し震えていた。
「弟が南区へ行った理由が、少し分かった」
透は黙った。
「聞きたい?」
「はい」
「でも、その前に一つだけ聞いて」
「何ですか?」
「もし、弟が自分の意思で行ったと分かったら……」
女は言葉を止めた。
「あなたなら、どうする?」
透はすぐには答えなかった。
そして、
「分かりません」
と答えた。
「でも……」
「でも?」
「その時も、あなたがどうするかは、あなたが決めることだと思います」
電話の向こうが静かになった。
しばらくして、
「そうだね」
と女が言った。
「じゃあ、明日話す」
通話が終わった。
透は暗い部屋の中で、一人になった。
机の上には二枚の紙がある。
一枚には、昨日見つけた名前。
もう一枚には、南区へ行かなかった人間の住所。
どちらも、まだ誰にも渡していない。
透は窓の外を見る。
街の明かりが、遠くまで続いていた。
一つ一つの窓の向こうに、誰かがいる。
その人たちもきっと、
全部を知っているわけではない。
何かを隠しているかもしれない。
何かを信じているかもしれない。
そして、その信じているものが間違っているかもしれない。
それでも、今日を生きている。
透は机の上の二枚の紙を重ねた。
まだ線は引かない。
まだ、誰も繋げない。
ただ、そこに置いておく。
それだけでいい。
翌朝。
透の端末に、知らない番号から一通のメッセージが届いた。
『その住所には行かない方がいい。』
透は画面を見た。
数秒後、二通目が届いた。
『そこに住んでいる人間は、あなたが探している人間ではない。』
透はしばらく考えた。
そして、三通目が届いた。
『ただし、その人間は、あなたが探しているものを知っている。』
透は端末を伏せた。
行くな。
探している人間ではない。
だが、知っている。
昨日までなら、誰かに相談していたかもしれない。
今は違った。
透は立ち上がった。
行くかどうかを決めるのは、自分だった。




