第十九章 辞めた二人
待ち合わせ場所は、駅から少し離れた古い食堂だった。
昼前だったが、店の中には数人しかいなかった。
透は窓際の席に座り、女を待っていた。
約束の時間から五分ほど遅れて、女が入ってきた。
その後ろに、もう一人いる。
三十代くらいの男だった。
男は店内を一度見回してから、透の向かいに座った。
「この人が?」
「うん」
女が答えた。
男は透を見る。
「弟から話は聞いていた」
透は少し驚いた。
「僕のことを?」
「名前までは知らなかった。でも、海を渡ってきた人間がいるとは言っていた」
透は黙った。
女も少し驚いているようだった。
「そんな話、私は聞いてない」
「お前にも言ってなかったんだろ」
男は淡々と言った。
「弟は、あまり人に全部話さない」
透は思わず笑いそうになった。
自分と似ている。
いや、今では周りにいる人間のほとんどがそうなのかもしれない。
全部を話す人間など、ほとんどいない。
「弟さんと、いつまで一緒に働いていたんですか?」
透が聞いた。
「最後の日まで」
「どうして辞めたんですか?」
男はすぐには答えなかった。
店員が注文を取りに来る。
三人とも飲み物だけを頼んだ。
店員が離れてから、男が言った。
「辞めた理由は、一つじゃない」
「仕事が嫌だった?」
「それもある」
「給料?」
「それもある」
「危険だった?」
男は少し考えた。
「危険というより、分からなかった」
「何が?」
「自分たちが何を運んでいるのか」
女が口を挟んだ。
「それ、弟も言ってた?」
「言ってた」
男は頷いた。
「最初は普通の物流会社だった」
「最初は?」
「少なくとも、俺にはそう見えた」
透はその言葉を聞いて、ノートを開いた。
男はそれを見た。
「書くのか?」
「覚えておきたいので」
「全部書くと、あとで自分が混乱するぞ」
透はペンを止めた。
「どうして?」
「人間は、記録したものを真実だと思いやすいから」
透は男を見た。
昨日から何度も似たような言葉を聞いている。
だが、男の言い方は少し違った。
「じゃあ、記録しない方がいい?」
「いや」
男は首を横に振った。
「記録は必要だ。ただ、記録と事実を同じにしない方がいい」
透はその言葉を書いた。
男は続けた。
「俺たちが運んでいた箱には、いつも番号がついていた」
「南―07?」
男が顔を上げた。
「その番号を知ってるのか?」
透は答えなかった。
女が透を見る。
男も透を見る。
数秒の沈黙。
透はノートを閉じた。
「見たことがあります」
「どこで?」
「それは、まだ話せません」
男は少し驚いた。
だが、追及しなかった。
「そうか」
それだけだった。
しばらくして、男は話を続けた。
「番号は、途中で何度も変わった」
「何のために?」
「俺たちには分からない」
「誰が決めていたんですか?」
「上の会社」
「その会社は?」
「さらに上の会社がある」
透は黙った。
「じゃあ、その上は?」
男は笑った。
「それを追いかけると、仕事が終わらなくなる」
「だから辞めた?」
「それもある」
「他には?」
男は窓の外を見た。
「ある日、俺たちが運んだ荷物について、受け取った人間から問い合わせが来た」
「普通じゃないですか?」
「普通ならな」
男は少し間を置いた。
「でも、その人間は、受け取った記録がなかった」
透の表情が変わった。
「記録がない?」
「受け取った本人はいる。俺たちも渡した。サインもした」
「でも記録には残っていない?」
「そう」
女が聞いた。
「弟は、その時どうしたの?」
「怒ってた」
「何に?」
「俺たちに何も説明されないことに」
男は水を飲んだ。
「その日の夜、弟が言った」
「何て?」
男は少し考えてから答えた。
「『これ、俺たちが運んでるんじゃなくて、俺たちが運んでいること自体が必要なんじゃないか』って」
透は黙った。
その言葉が、妙に引っかかった。
荷物そのものではない。
誰が運んだか。
誰が受け取ったか。
誰が記録したか。
誰が記録しなかったか。
それ自体が仕組みの一部になっている。
男は続けた。
「俺は意味が分からなかった」
「弟さんは?」
「弟も分かってなかったと思う」
「じゃあ、どうしてそんなことを?」
「分からないから、そう言ったんだろ」
透は少し考えた。
分からないからこそ、人は意味を作ろうとする。
その意味が正しいとは限らない。
それでも、一度誰かが意味を与えると、別の人間がそれを信じ始める。
やがて、それが事実のようになる。
男は最後に言った。
「だから俺たちは辞めた」
「二人とも?」
「そう」
「弟さんは、その後どうしたんですか?」
男はしばらく黙っていた。
「南区へ行った」
女が俯いた。
透は男を見た。
「自分から?」
「たぶん」
「なぜ?」
「それは知らない」
「聞かなかったんですか?」
「聞いた」
「何て?」
男は苦笑した。
「『確かめたいことがある』って」
透は何も言わなかった。
女も何も言わなかった。
店の外を、配送車が一台通り過ぎた。
男はそれを見てから、静かに言った。
「だから、俺はあいつを探してない」
女が顔を上げた。
「どうして?」
「探したら、あいつが自分で選んだことまで否定する気がするから」
女は何も答えなかった。
透も、何も言えなかった。
しばらくして男が席を立った。
「俺が知っているのはここまでだ」
「ありがとうございました」
透が頭を下げる。
男は店を出る前に振り返った。
「一つだけ」
「はい」
「南区を調べるなら、南区だけを見るな」
透は顔を上げた。
「南区に行かなかった人間も見た方がいい」
そう言って、男は店を出ていった。
女はしばらく黙っていた。
やがて透を見る。
「どう思う?」
透は答える前に、ノートを開いた。
そこには今日聞いた言葉が並んでいた。
記録と事実は同じではない。
分からないからこそ、意味を作る。
自分で選んだことを、他人が否定することもある。
そして最後に、
南区に行かなかった人間を見る。
透はペンを置いた。
「分かりません」
女は笑った。
「またそれ?」
「でも……」
「何?」
透は窓の外を見た。
「今まで、僕たちは南区に何があるのかを調べていました」
「うん」
「でも、本当に見るべきなのは、南区を必要とした人たちなのかもしれない」
女は少し考えた。
「じゃあ、次は?」
透は答えなかった。
まだ決めていない。
ただ、店を出る時、透は一度だけ後ろを振り返った。
テーブルの上に、女の端末が置かれている。
弟から届いた、あのメッセージ。
女はまだ、それを透に見せていない。
透も、昨日見つけた名前を女には話していない。
それでも二人は、また一緒に歩き始めた。
互いに知らないものを抱えたまま。
それが、今の二人にとっては、それほど不自然なことではなかった。




