第百九十七章 古い自転車
火曜日の朝、透は駅へ向かう途中で、自転車が倒れているのを見つけた。
歩道の端だった。
前輪が少し曲がっている。
鍵はかかったままだった。
透は立ち止まった。
起こそうかと思ったが、誰かのものかもしれない。
そのまま通り過ぎようとしたところで、後ろから声がした。
「それ、昨日からそこにあるよ」
近所の八百屋の店主だった。
「昨日から?」
「うん」
「持ち主は?」
「知らない」
店主は店の前を掃除しながら言った。
「最近、置いていかれる自転車が増えたんだよ」
「盗まれたもの?」
「分からない」
店主はほうきを止めた。
「持ち主が取りに来ることもあるし、そのまま何日も残ってることもある」
「処分は?」
「勝手にはできないからね」
透は自転車を見た。
古い車体だった。
後ろの荷台には、小さな買い物袋が引っかかっている。
中には何も入っていない。
「警察には?」
「一応、連絡したよ」
「そうなんだ」
「来るって言ってたけど、いつ来るかは知らない」
店主はまた掃除を始めた。
透は駅へ向かった。
その日の夕方、帰り道に同じ場所を通った。
自転車はまだあった。
けれど、朝とは少し違っていた。
前輪がまっすぐになっている。
誰かが直したらしい。
透は近くの店主に聞いた。
「この自転車、誰か直したんですか?」
「知らないよ」
「朝は曲がってました」
「そう?」
店主は自転車を見た。
「誰か乗っていったんじゃない?」
「鍵は?」
「かかってるね」
二人で見た。
確かに鍵はかかっていた。
「じゃあ、誰かが直したのか」
「たぶんね」
店主は笑った。
「こういうこと、誰がやったか分からないほうが多いんだよ」
透は何も言わなかった。
その夜、商店街の掲示板に新しい紙が貼られていた。
「自転車の一時保管について」
放置された自転車について、持ち主が確認できない場合は一定期間保管した後、処理するという内容だった。
下には連絡先が書かれている。
透は紙を読んだ。
昨日までそこにあった自転車が、今日はもう処理の対象になっている。
誰かが使っていたもの。
誰かが置いていったもの。
誰かが直したもの。
そして、誰も理由を知らない。
翌朝。
透が駅へ向かうと、自転車はなくなっていた。
その場所には何も残っていない。
八百屋の店主が店先に立っていた。
「なくなりましたね」
「うん」
「持ち主が来たんですか?」
「分からない」
店主は少し考えた。
「でも、なくなったなら、それでいいんじゃない?」
「そうですね」
透は駅へ向かった。
その日の昼休み、同僚が言った。
「昨日の自転車、見た?」
「見たよ」
「俺、あれ知ってる」
透は顔を上げた。
「持ち主?」
「いや」
同僚は笑った。
「昔、あの辺で働いてた人がよく乗ってた」
「その人は?」
「知らない。もういないらしい」
「引っ越した?」
「そこまでは知らない」
それだけ言って、同僚は弁当を食べ始めた。
透もそれ以上は聞かなかった。
午後になっても、その話は頭の片隅に残っていた。
けれど、確かめようとは思わなかった。
自転車が誰のものだったのか。
誰が直したのか。
誰が持っていったのか。
知る方法はあるかもしれない。
でも、今の透には必要なことではなかった。
仕事が終わり、駅へ向かう。
途中で、別の自転車が倒れていた。
透は少しだけ足を止めた。
そして、今度は起こした。
持ち主が誰なのかは分からない。
それでも、歩道の真ん中に倒れているよりはいい。
自転車を端へ寄せる。
それだけして、透はその場を離れた。




