第百九十四章 余ったもの
土曜日の午後、透は近所の商店街へ出かけた。
特に買うものは決めていなかった。
食料品が少し足りなくなっていたので、必要なものだけ買うつもりだった。
商店街の入口には、小さな掲示板がある。
そこに、
「本日の余剰品を無料配布します」
という紙が貼られていた。
その下に、時間と場所が書かれている。
透は足を止めた。
無料配布という言葉に、少しだけ人が集まっていた。
野菜。
缶詰。
水。
保存食。
どれも大量ではない。
係の人が、
「一人につき二点までです」
と説明していた。
列の後ろに並ぶ。
前には、若い女性がいた。
その女性は係の人に、
「家族の分も取っていいですか?」
と聞いた。
「一人二点までです」
「でも、子どもが三人いて」
「すみません。決まりなので」
女性は少し黙った。
「分かりました」
そう言って、二つだけ受け取った。
その後ろには、年配の男性がいた。
「俺は一人だから、二つでいいんだね」
「はい」
男性は水を二本取った。
列が進んでいく。
透の番になった。
係の人が言った。
「二点までです」
透は野菜と缶詰を取った。
そのとき、後ろから声がした。
「水、残ってますか?」
係の人が振り返る。
「あと少しです」
「じゃあ、子どもの分を……」
さっきの女性だった。
係の人は少し迷った。
「規則では二点までです」
「分かってます」
女性はそう言った。
「でも、子どもがいるので」
周りから何人かが女性を見た。
誰も何も言わない。
係の人も何も言わなかった。
しばらくして、別の人が水を一つ返した。
「これ、私はいらないので」
係の人が受け取る。
女性はその水を受け取った。
「ありがとうございます」
「いいですよ」
それだけだった。
透はその場を離れた。
商店街を歩いていると、後ろから誰かが走ってきた。
「すみません!」
振り返る。
さっきの係の人だった。
「これ、落としましたよ」
透のポケットから、買い物のレシートが落ちていた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
係の人は戻っていった。
透はレシートをポケットにしまった。
家に帰る途中、さっきの光景を思い出した。
決まりは二点まで。
でも、必要な人がいた。
誰かが余分に持っていた。
そして、それを返した。
決まりが変わったわけではない。
誰かが破ったわけでもない。
ただ、その場にいた人たちが、それぞれ少しずつ動いただけだった。
家に帰ると、冷蔵庫の中にはまだ食べ物が残っていた。
水もある。
透は買ってきた野菜を冷蔵庫に入れた。
夕方、彼女から連絡が来た。
「今日、商店街行った?」
「行ったよ」
「配布してたでしょう」
「知ってたの?」
「近所の人が言ってた」
「そうなんだ」
「何かもらった?」
「野菜と缶詰」
「水は?」
「取らなかった」
「珍しい」
「家にあるから」
「そっか」
少しして、彼女から、
「私は水を一つもらった」
と届いた。
「必要だった?」
「今すぐじゃないけど」
「じゃあ、どうして?」
「残ってたから」
透は少し笑った。
「それだけ?」
「それだけ」
しばらくして、彼女からもう一つメッセージが来た。
「でも、あとで近所の人にあげた」
「どうして?」
「その人の家、水が足りないって聞いたから」
透は画面を見た。
「そうなんだ」
「うん」
それ以上は聞かなかった。
夜になって、透は一人で夕食を作った。
野菜を切りながら、昼間のことを思い出す。
人は、同じものを見ても、同じようには動かない。
必要だから取る人。
念のために取る人。
決まりだから取る人。
余ったから渡す人。
誰かのために取ろうとする人。
それぞれの理由がある。
その理由を全部知る必要はない。
透は鍋に野菜を入れた。
火をつける。
しばらくすると、部屋に湯気が広がった。
窓の外では、誰かが自転車を走らせている。
今日も街は静かだった。
何かが不足している。
何かが余っている。
その間を、人が行き来している。
透は料理を皿に盛った。
一人分だけ。
それで十分だった。




