第百九十二章 置いていかれたもの
翌朝、会社に着くと、入口の脇に置かれていた箱がなくなっていた。
透は一度だけ足を止めた。
昨日まであったものが、今日はない。
それだけだった。
誰かが片づけたのか。
持ち主が取りに来たのか。
処分されたのか。
透には分からない。
「箱、なくなったね」
後ろから声がした。
昨日も話していた同僚だった。
「そうですね」
「誰か取りに来たのかな」
「分からないです」
「まあ、いいか」
同僚はそのまま中へ入っていった。
透も続いた。
午前中は忙しかった。
作業の一つで部品が足りなくなり、担当者が倉庫へ探しに行った。
しばらくして戻ってくる。
「なかった」
「別の棚じゃないですか?」
「全部見た」
「発注は?」
「確認してみる」
作業は一度止まった。
誰かが、
「昨日まではあったんだけどな」
と言った。
別の人が、
「使ったんじゃない?」
と答えた。
「誰が?」
「知らない」
それ以上は追及されなかった。
午後になって、別の箱から同じ部品が見つかった。
「これでいい」
担当者が言った。
止まっていた作業が再開された。
透は少しだけ、その箱を見た。
最初に探していたものとは型番が違った。
けれど、使えるらしい。
仕事が終わる頃には、朝のことも忘れていた。
帰りの電車で、透は窓の外を見ていた。
駅をいくつか通り過ぎたところで、スマートフォンが鳴った。
彼女からだった。
「今、家にいる?」
「まだ電車」
「じゃあ、帰ってからでいい」
「何?」
少し間があった。
「昨日話してた人から連絡が来た」
透は画面を見た。
「駅の人?」
「うん」
「何て?」
「また今度、話したいって」
透は少し考えた。
「会うの?」
「まだ決めてない」
「どうして?」
「ちょっと気になるから」
「そっか」
そこで会話は終わった。
透はスマートフォンをしまった。
家に着く頃には、外は暗くなっていた。
夕食を済ませ、しばらくしてから、彼女に電話をかけた。
「どうすることにした?」
「何が?」
「会うかどうか」
「まだ」
「そうなんだ」
「透ならどうする?」
突然聞かれて、透は黙った。
「分からない」
「また?」
「うん」
彼女は笑った。
「最近、本当にそればっかり」
「でも、本当に分からないから」
「じゃあ、分からないままでいいんじゃない?」
「そうだね」
少し沈黙があった。
「ただ」
透が言った。
「会いたいなら、会えばいいと思う」
「危ないかもしれないよ」
「そうかもしれない」
「何を言われるかも分からない」
「うん」
「それでも?」
透は少し考えた。
「それを決めるのは、俺じゃないから」
電話の向こうが静かになった。
しばらくして、
「そういうところ、本当に変わったね」
と言われた。
透は答えなかった。
自分では、変わったのかどうかよく分からない。
ただ、以前なら誰かの代わりに判断しようとしていたかもしれない。
危ないからやめたほうがいい。
聞いたほうがいい。
調べたほうがいい。
そう言えば、相手のためになると思っていた。
今は、そうする必要があるのか、一度考えるようになった。
それだけだった。
電話を切ったあと、透は窓を開けた。
夜の風が入ってくる。
遠くで車の音がした。
今日も、特別なことはなかった。
誰かの箱がなくなった。
部品が見つからなかった。
別の部品で仕事が続いた。
彼女には、会おうとしている人がいる。
それだけだった。
透は窓を閉めた。
机の上には、昨日買った水が一本置いてある。
まだ開けていない。
明日飲むかもしれない。
そのまま残るかもしれない。
透は水を片づけて、部屋の明かりを消した。




