第百九十一章 戻らない人
新しい作業場所に移ってから、三日が過ぎた。
最初の日に感じた違和感は、もうほとんどなくなっていた。
朝になれば電車に乗る。
決められた場所へ行く。
仕事をする。
昼になれば食事をする。
夕方になれば帰る。
場所が変わっても、生活そのものが大きく変わるわけではなかった。
ただ、一人だけ、戻ってこなかった。
最初の日に一緒だった男だ。
名前は知らない。
どこの会社から来ていたのかも、透は聞いていない。
昼休みに、
「今日はいないね」
と誰かが言った。
「別のところじゃない?」
「そうなのかな」
「昨日の時点では、そう聞いたけど」
「誰から?」
「さあ」
それで話は終わった。
午後になっても、男は来なかった。
次の日も来なかった。
その次の日も来なかった。
透は別に気にしていなかった。
けれど、四日目の朝、作業場に入ったとき、机の端に小さな箱が置かれているのを見つけた。
名前が書いてある。
知らない名前だった。
透は少しだけ立ち止まった。
その名前を見て、最初の日の男を思い出した。
同じ人なのか。
違う人なのか。
分からない。
近くにいた社員に聞いた。
「これ、誰のですか?」
「ああ、それ?」
社員は箱を見た。
「昨日、取りに来るって言ってた人のじゃないかな」
「昨日?」
「うん」
「まだ取りに来てないんですか?」
「そうみたい」
「今日来るんですか?」
「知らない」
社員は箱を元の場所に戻した。
「そのうち来るんじゃない?」
透もそれ以上聞かなかった。
昼休みになる。
いつものように弁当を食べる。
向かいの席で、同僚がスマートフォンを見ながら言った。
「最近、辞める人多いね」
「そう?」
「先月も二人いなくなったし」
「知らなかった」
「知らないよね。辞めるときって、急だから」
「そうなんだ」
「次にどこへ行ったかも分からないし」
その人はスマートフォンをしまった。
「まあ、俺たちには関係ないけど」
透は弁当を食べながら、少しだけ考えた。
関係ない。
そう言われれば、確かにそうだった。
知らない人が来て、いなくなる。
その人の生活は、その人のものだ。
自分が知らなくても、何かが困るわけではない。
午後、作業場の入口で、担当者が誰かと話していた。
「まだ連絡つかないんですか?」
「ついてない」
「じゃあ、箱は?」
「しばらく置いておいて」
「分かりました」
透は通り過ぎた。
帰る時間になっても、箱はそのままだった。
駅へ向かう途中、彼女から連絡が来た。
「今日、少し会える?」
「うん」
待ち合わせ場所に着くと、彼女はすでにいた。
「今日は何食べる?」
「何でもいい」
「じゃあ、昨日と同じところ」
「いいよ」
二人で歩く。
途中、彼女が言った。
「そういえば、前に話してた人」
「駅の?」
「うん」
「どうしたの?」
「最近、見なくなった」
透は彼女を見た。
「理由は?」
「知らない」
「聞かなかった?」
「聞いてない」
「そうなんだ」
彼女は少し笑った。
「でも、気になる?」
透は少し考えた。
「前なら、気になったと思う」
「今は?」
「少しだけ」
「調べないの?」
「今のところは」
彼女は頷いた。
「私も」
店に入る。
注文を済ませる。
料理を待っている間、二人ともスマートフォンを見ていた。
しばらくして、彼女が言った。
「人って、いなくなっても、理由を知らないままのことが多いね」
「うん」
「昔は、それが嫌だった」
「今は?」
「少し慣れた」
透は笑った。
「俺も」
料理が運ばれてきた。
二人は食べ始めた。
帰り道、彼女が突然言った。
「でも、もし自分に関係することだったら、聞くよ」
「うん」
「そこは変わらない」
「それでいいと思う」
彼女は透を見る。
「透も?」
「たぶん」
「たぶん?」
「必要なら聞く」
彼女は少し笑った。
「それならいいね」
二人は駅まで歩いた。
その夜、透は会社のことを思い出した。
名前の書かれた箱。
戻ってこない男。
連絡のつかない人。
誰も詳しいことを知らない。
それでも、仕事は続いている。
明日になれば、別の人がその場所に立つかもしれない。
箱も、いつかなくなるだろう。
誰かが取りに来るのかもしれない。
会社が処分するのかもしれない。
それも分からない。
透は眠る前に、スマートフォンを確認した。
新しい通知はなかった。
画面を閉じる。
そのまま眠った。




