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嘘の向こう側  作者: 亀


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第百八十九章 決めた人

水曜日の朝、透が会社に着くと、昨日の男が入口の前に立っていた。


手には書類がある。


「どうしたんですか?」


透が声をかけると、男は少し困ったように笑った。


「今日、別の場所に行くことになったんです」


「急ですね」


「そうなんですよ」


男は書類を見せた。


「昨日まで、ここに一週間って聞いてたんですけど」


「変わったんですか?」


「みたいです」


透は書類を見た。


新しい作業場所と、集合時間が書かれている。


理由は書かれていなかった。


「大変ですね」


「まあ、仕事だから」


男は笑った。


「昨日、ここで少し慣れたと思ったんですけどね」


「そうですよね」


「でも、決まったことなので」


男はそう言って、書類をしまった。


そのとき、別の社員がやってきた。


「もう行くんですか?」


「はい」


「急だなあ」


「僕も今朝聞いたんですよ」


二人は少し話したあと、男は会社を出ていった。


透はその後ろ姿を見送った。


昼休みになっても、その男の話をする人は少なかった。


「今日から別のところだって」


「へえ」


「昨日来たばっかりなのにね」


「そういうこともあるよ」


それだけだった。


午後、上司が作業場所の変更について説明した。


「人員調整の都合です」


それ以上の説明はなかった。


誰かが、


「本人にはもう伝わってるんですか?」


と聞いた。


「はい」


「じゃあ、大丈夫ですね」


話はそこで終わった。


透は黙って聞いていた。


帰り道、駅のホームで彼女から連絡が来た。


「今日、少し早く帰れる」


「じゃあ、会う?」


「うん」


待ち合わせ場所に着くと、彼女はいつもより早く来ていた。


「今日は何食べる?」


「任せる」


「じゃあ、こっち」


彼女は迷わず歩き出した。


小さな食堂に入る。


席に座ると、彼女はすぐに注文を決めた。


「これにする」


「早いね」


「お腹空いてるから」


透はメニューを見た。


しばらく迷ってから、彼女と同じものを頼んだ。


「珍しい」


「何が?」


「いつも結構迷うでしょう」


「今日はいいかなって」


「ふうん」


料理が来るまで、二人は特に話さなかった。


食べ始めてから、彼女が言った。


「昨日の人のこと、考えた?」


「少し」


「私も」


「聞いてみた?」


「まだ」


透は頷いた。


「今日、駅で会ったら聞こうと思ってたんだけど、会わなかった」


「そうなんだ」


「でも、別に急がなくてもいいかなって」


透は箸を止めた。


「そう思ったんだ」


「うん」


「前なら?」


「たぶん、すぐ聞いてた」


彼女は少し笑った。


「知らないことがあると、気になるから」


「今も気になる?」


「もちろん」


「じゃあ、どうして聞かないの?」


彼女は少し考えた。


「聞く必要があるかどうかを考えてる」


透は黙った。


その言葉が、少し意外だった。


彼女はいつも、分からないことがあれば確かめる人だと思っていた。


けれど、そうでもないらしい。


食事を終える。


店を出ると、夜の街は少し涼しかった。


「透は?」


「何が?」


「今日の人」


「会社の?」


「うん」


「もう別のところに行った」


「そう」


「理由は分からない」


「聞かなかったの?」


「聞くほどじゃなかった」


彼女は少し笑った。


「似てきたね」


「そうかな」


「少しだけ」


透も笑った。


「でも、聞けば分かったかもしれない」


「そうね」


「それでも聞かなかった」


「うん」


二人は歩いた。


しばらくして、彼女が言った。


「知ることって、全部必要なわけじゃないよね」


透は答えなかった。


今なら、それにすぐ同意することもできた。


けれど、まだ少しだけ引っかかっていた。


知らなくてもいいこと。


知らないと困ること。


知らないほうが楽なこと。


知らないことで誰かに決められてしまうこと。


その違いは、まだうまく分からない。


だから透は、


「たぶんね」


とだけ答えた。


彼女も、それ以上は何も言わなかった。


二人は駅へ向かって歩いた。


その途中、透のスマートフォンが鳴った。


会社からの連絡だった。


明日の勤務場所が、また変更されている。


透は画面を見た。


今度は、少しだけ迷った。


そして、会社に確認するための電話番号を開いた。


電話をかけるかどうか。


それを決めるまでに、数秒かかった。


結局、その日は電話をかけなかった。


明日の朝でもいい。


そう思った。


それだけだった。

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