第百八十八章 知らないままの人
火曜日の朝、透が会社に着くと、昨日の男がすでに作業場にいた。
昨日より早い。
透が挨拶すると、男も軽く頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようございます」
それだけだった。
午前中、男は昨日と同じ作業をしていた。
まだ慣れていないらしく、何度か手を止めている。
近くにいた社員が声をかけた。
「そこ、先にこっちです」
「あ、すみません」
「大丈夫です」
男はやり直した。
昼休みになると、男は一人で弁当を食べていた。
透は少し離れた席に座った。
「昨日より慣れました?」
透が聞くと、男は笑った。
「まだ全然です」
「どのくらい来るんですか?」
「一週間くらいって聞いてます」
「その後は?」
「分からないです」
男は弁当を食べながら答えた。
「上の人が決めるみたいなので」
透は頷いた。
「そうなんですね」
「透さんは長いんですか?」
「まあ、そこそこ」
「ここ、どうですか?」
透は少し考えた。
「普通ですよ」
男は笑った。
「その答え、一番分からないですね」
「そうかもしれません」
二人とも笑った。
午後、男が作業場を出たあと、近くの社員が透に話しかけてきた。
「あの人、どこの会社か知ってる?」
「知りません」
「昨日から気になってるんだけど」
「聞けばいいんじゃないですか?」
「いや、別にそこまでじゃないんだよね」
その人はそう言って、仕事に戻った。
透も聞かなかった。
帰り道、駅前で彼女を見つけた。
「待った?」
「少しだけ」
「ごめん」
「大丈夫」
彼女は小さな袋を持っていた。
「買い物?」
「うん」
「何?」
「電池」
袋の中には乾電池が入っていた。
「使うの?」
「今すぐじゃないけど、安かったから」
「昨日より?」
「そう」
透は笑った。
「水と同じだね」
「何が?」
「必要になる前に買うところ」
彼女は少し考えた。
「そうかも」
二人は歩き始めた。
「そういえば、昨日言ってた人」
透が言った。
「駅で話した人?」
「うん」
「今日も会ったよ」
「そうなんだ」
「同じ電車だった」
「どんな人?」
彼女は少し考えた。
「普通の人」
透は笑った。
「それ、俺もよく使う」
「便利だから」
「確かに」
しばらく歩いた。
「名前は?」
透が聞いた。
彼女は少し間を置いて答えた。
「聞いてない」
「そっか」
「聞く必要もなかったし」
「うん」
二人はそのまま歩いた。
途中で、彼女が急に立ち止まった。
「でもね」
「何?」
「その人、私のことを前から知ってるみたいだった」
透は彼女を見た。
「知ってるって?」
「名前を知ってた」
「名前を?」
「うん」
「どうして?」
「分からない」
透は少し黙った。
「聞かなかったの?」
「聞かなかった」
「どうして?」
彼女は肩をすくめた。
「そのときは、別にいいと思ったから」
透は何も言わなかった。
少しして、彼女が言った。
「気になる?」
「ちょっと」
「じゃあ、今度聞いてみる」
「俺も聞いたほうがいい?」
「何を?」
「その人のこと」
彼女は少し笑った。
「透が聞きたいなら聞けばいいんじゃない?」
「そうだね」
「でも、私が聞くかどうかは私が決める」
「うん」
二人は再び歩き始めた。
透は、彼女の横顔を見た。
以前なら、自分も同じことを調べなければならないと思ったかもしれない。
誰なのか。
なぜ名前を知っているのか。
何を隠しているのか。
けれど、今は少し違った。
彼女が気になるなら、彼女が聞けばいい。
自分が気になるなら、自分で考えればいい。
それぞれが知らないまま持っているものまで、同じにする必要はない。
そのことを、透はまだうまく言葉にできなかった。
ただ、その夜はそれ以上聞かなかった。




