第百八十七章 知らない名前
月曜日の朝、透が会社に着くと、入口の近くに知らない男が立っていた。
作業服を着ている。
年齢は四十代くらいに見えた。
誰かを待っているらしい。
透が横を通り過ぎようとすると、男が声をかけた。
「すみません」
「はい」
「総務って、どこですか?」
「この奥です」
透が指を向ける。
男は礼を言って歩いていった。
透はそのまま自分の席へ向かった。
午前中、特に何も起こらなかった。
昼前になって、休憩室へ行くと、朝の男が社員と話しているのが見えた。
「この人、今日から来るんですか?」
誰かが聞いた。
「たぶん、応援じゃない?」
別の人が答えた。
「どこの会社?」
「聞いてない」
「じゃあ、名前は?」
「それも知らない」
男本人は少し離れたところで、書類を読んでいた。
透は弁当を食べ始めた。
しばらくすると、男がこちらを見た。
目が合った。
軽く頭を下げる。
透も頭を下げた。
それだけだった。
午後になって、朝の男が作業場に入ってきた。
担当者が説明している。
「ここは触らないでください」
「分かりました」
「分からないことがあったら、近くの人に聞いてください」
「はい」
透は少し離れた場所から見ていた。
作業はそれほど難しくなさそうだった。
けれど、男は何度か周りを確認していた。
そのたびに、近くの社員が説明している。
仕事が終わる頃、男が透のところへ来た。
「朝、案内してくれてありがとうございました」
「いえ」
「今日からしばらく、ここに来ることになりました」
「そうなんですか」
「はい」
男は少し笑った。
「まだ、誰が誰なのか全然分からなくて」
「俺もです」
透が言うと、男は笑った。
「ですよね」
少し話してから、男は帰っていった。
透も駅へ向かった。
改札を通る前に、会社からメッセージが届いた。
「明日の作業場所が一部変更になります」
理由は書かれていなかった。
透はそのまま読んで終わった。
電車に乗る。
座席に座ってしばらくすると、隣の席に知らない女性が座った。
女性はスマートフォンを見ている。
画面には、地域の掲示板が表示されていた。
「明日から、駅前の給水所が移動するらしい」
女性が小さく呟いた。
独り言だった。
透は聞かなかったことにした。
次の駅で女性が降りた。
透は窓の外を見た。
駅前の広場には、何人か人が集まっている。
何かの案内を待っているようだった。
帰宅すると、彼女からメッセージが来ていた。
「今日、知らない人と話した」
透は、
「どんな人?」
と返した。
しばらくして、
「駅で少し話しただけ」
と返ってきた。
「何の話?」
「仕事の話」
それ以上は書かれていない。
透は、
「そうなんだ」
と返した。
少しして、彼女から、
「気になる?」
と届いた。
透は画面を見た。
以前なら、もう少し聞いていたかもしれない。
誰なのか。
何を話したのか。
どうして話したのか。
けれど、今日は、
「ちょっとだけ」
と返した。
すぐに返事が来た。
「そのうち話す」
「分かった」
透はスマートフォンを置いた。
その夜、ベッドに入る前に、会社で会った男のことを思い出した。
名前も知らない。
どこの会社かも知らない。
いつまで来るのかも知らない。
それでも、今日一日、一緒の場所にいた。
人は、知らないことがたくさんあるままでも、一緒に仕事ができる。
透はそんなことを考えながら、電気を消した。
名前を知らないことと、何も知らないことは、同じではない。
けれど、どこまで知れば十分なのかは、まだ分からなかった。




