第百八十六章 頼まれたこと
土曜日の朝、透はいつもより遅く起きた。
カーテンの隙間から光が入っている。
時計を見ると、もう九時を過ぎていた。
急ぐ理由はなかった。
顔を洗って、簡単に朝食を済ませる。
水を飲もうとして、昨日買ったものに手を伸ばした。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
会社の同僚からだった。
「今日、時間ある?」
透は少し考えてから、
「あるよ」
と返した。
「悪いんだけど、ちょっと頼みたいことがある」
「何?」
「親のところに行く用事があるんだけど、午前中に仕事が入っちゃって」
「うん」
「代わりに荷物だけ届けてもらえないかな」
透は黙った。
頼まれた荷物が何なのか、まだ聞いていない。
「どんな荷物?」
「水と薬」
「薬?」
「親が頼んだやつ。水は俺が買った分」
透は少し考えた。
「どこまで持っていけばいい?」
住所を送ってもらった。
それほど遠くない。
「分かった」
「助かる」
電話が切れた。
透はしばらくスマートフォンを見ていた。
断ることもできた。
けれど、断る理由も特になかった。
荷物を受け取るため、駅の近くで同僚と待ち合わせた。
同僚は大きな袋を二つ持っていた。
「これ」
「結構あるね」
「水が重いんだよ」
「薬は?」
「こっち」
小さな袋を渡された。
透は受け取った。
「薬、俺が持っていって大丈夫?」
「大丈夫。親に渡すだけだから」
「何の薬?」
「知らない」
「知らないんだ」
「うん。親がいつも飲んでるやつ」
透はそれ以上聞かなかった。
電車に乗り、指定された住所へ向かった。
駅から少し歩くと、古い集合住宅が見えた。
部屋の前まで行き、呼び鈴を押す。
しばらくして、年配の女性が出てきた。
「はい」
「こんにちは。○○さんに頼まれて、荷物を持ってきました」
女性は透を見てから、袋を見た。
「ああ、水ね」
「はい。それと薬です」
「薬?」
女性は少し驚いた。
「薬なんて頼んでないけど」
透は袋を見た。
「息子さんからです」
女性は黙った。
「ちょっと待って」
そう言って部屋の奥へ戻った。
少しして、別の薬袋を持ってきた。
「これ、いつもの薬なの」
透が持ってきた袋と見比べる。
「こっちは違うみたい」
「そうですか」
「息子、何て言ってた?」
「いつも飲んでいる薬だと」
女性は少し困った顔をした。
「たぶん、私が前に頼んだものと間違えたのね」
「どうしますか?」
「置いていってもらっていいわ」
「病院とかに確認したほうがいいんじゃないですか?」
女性は透を見た。
「そうね」
それから少し笑った。
「でも、あの子も忙しいから」
透は何も言わなかった。
薬袋を渡す。
水も玄関の中へ運んだ。
帰る前に、女性が言った。
「ありがとうね」
「いえ」
「わざわざ来てもらって悪かったわ」
「大丈夫です」
外へ出る。
階段を降りながら、透は薬のことを考えていた。
同僚は嘘をついたのだろうか。
それとも、本当にそう思っていたのだろうか。
どちらなのかは分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
「いつもの薬」という言葉だけでは、薬は決まらない。
駅へ戻る途中、同僚からメッセージが届いた。
「渡せた?」
透は、
「渡したよ。ただ、薬は違うものだったみたい」
と返した。
しばらくして、
「え?」
と返ってきた。
「親が頼んだものとは違ったみたい」
既読がついた。
返事はなかなか来なかった。
十分ほど歩いたところで、ようやく届いた。
「ごめん。俺が勘違いしてた」
透は画面を見た。
それだけだった。
「分かった」
と返した。
スマートフォンをしまう。
それ以上、何も言わなかった。
帰りの電車に乗る。
窓の外を見ていると、さっきの女性の言葉が浮かんだ。
「あの子も忙しいから」
それが息子をかばう言葉なのか。
本当にそう思っているのか。
透には分からなかった。
ただ、誰かの間違いを説明するために、別の誰かが言葉を足すことがある。
その言葉が本当かどうかを確かめる必要がない場合もある。
透は座席に背を預けた。
今日は、誰かの代わりに荷物を届けただけだった。
それでも、知らない家の玄関に立つと、そこには自分の知らない生活がある。
それだけのことだった。




