第百八十五章 なくなった理由
翌日の昼休み、休憩室に入ると、昨日まで置かれていた箱がなくなっていた。
代わりに、壁に一枚の紙が貼られていた。
「飲料水の配布について」
その下には、短い文章が並んでいた。
今後は必要な人を優先すること。
一人につき一本までとすること。
追加分については、総務へ相談すること。
透は紙を最後まで読んだ。
昨日は何も書かれていなかった。
今日は書かれている。
それだけだった。
「昨日、結構取った人がいたからね」
後ろから声がした。
振り返ると、昨日も休憩室にいた同僚だった。
「だからなくなったんですか?」
「それもあるんじゃない?」
「誰かが持って帰ったとか?」
「知らない」
同僚は椅子に座った。
「俺は一本しか取ってないよ」
「そうなんですか」
「うん。家にもあるから」
その人はスマートフォンを見始めた。
透も自分の席に戻った。
午後になって、総務からメールが届いた。
昨日の水についてだった。
「一部社員から、配布方法について問い合わせがあったため、今後は数量を管理する」
それだけだった。
誰が持ってきたのか。
どれだけあったのか。
なぜ配られたのか。
書かれていない。
透はメールを閉じた。
帰り際、廊下で総務の社員とすれ違った。
「昨日の水、大変でしたね」
透が何気なく言うと、相手は少し笑った。
「そうですね」
「もともと、何かあったんですか?」
「何かって?」
「水を配った理由です」
相手は少し考えた。
「念のためですよ」
「会社で買ったんですか?」
「そうです」
「いつまで配るんですか?」
「今のところ、昨日だけです」
「そうですか」
それ以上、透は聞かなかった。
会社を出る。
駅へ向かう途中、スマートフォンを見ると、彼女からメッセージが来ていた。
「今日は少し遅くなる」
透は、
「分かった」
とだけ返した。
一人で帰ることにした。
駅の近くでは、昨日と同じ店が水を売っていた。
今日は値段が少し下がっていた。
昨日より安い。
透は立ち止まった。
昨日は高かった。
今日は安い。
店の前には、昨日ほど人がいない。
「今日は安いですね」
店主に声をかけると、
「昨日より入ってきたからね」
と答えた。
「明日は?」
「分からない」
店主は笑った。
「そればっかりだな」
透も笑った。
店主は箱を一つ持ち上げた。
「でも、昨日買った人は、今日はあまり来ない」
「どうしてですか?」
「もう持ってるからでしょう」
「なるほど」
透は店を出た。
帰宅すると、玄関の隅に昨日の水が置いてある。
まだ、ほとんど減っていない。
冷蔵庫を開ける。
食べ物もある。
電気もついている。
水もある。
今のところ、何も困っていない。
透は冷蔵庫を閉めた。
その夜、彼女から電話が来た。
「もう帰った?」
「うん」
「水、まだある?」
「あるよ」
「こっちもある」
少し沈黙した。
「今日、会社で配布方法が変わった」
彼女が言った。
「こっちも」
「やっぱり?」
「うん」
「昨日のうちに決めればよかったのにね」
透は少し考えた。
「昨日は、誰も必要だと思ってなかったのかも」
「今日は?」
「今日は、必要になったんじゃない?」
彼女は笑った。
「同じ水なのにね」
「うん」
しばらく話したあと、電話を切った。
透はベッドに入った。
目を閉じる前に、ふと思った。
昨日なくなった水は、どこへ行ったのだろう。
誰かの家にあるのかもしれない。
職場に置いてあるのかもしれない。
誰かが親に渡したのかもしれない。
誰かが多めに持っていったのかもしれない。
本当のことは分からない。
そして、もう確かめる必要もなかった。
透は目を閉じた。
翌朝になれば、また別の話が始まる。
水の話も、そのうち誰も話さなくなるかもしれない。
そんな気がした。




