第百八十四章 誰のためのもの
朝、会社へ向かう途中で、透は駅前の自動販売機の前に立った。
水を一本買った。
昨日、家に一箱置いたばかりだった。
それでも、喉が渇いていた。
それだけの理由だった。
自動販売機の横には、小さな紙が貼られていた。
「お一人様二本まで」
透はその紙を見た。
昨日まではなかった。
水のボタンを押す。
一本だけ出てきた。
二本目を買おうとして、少しだけ迷った。
必要ではない。
だから、やめた。
会社に着くと、休憩室に見慣れない箱が置かれていた。
誰かが持ってきたらしい。
「これ、会社が配るんですか?」
透が聞くと、近くにいた社員が首を横に振った。
「違うよ。誰かが買ってきたんじゃない?」
「誰ですか?」
「知らない」
昼休みになると、その箱の周りに人が集まった。
「一人一本?」
「書いてないよ」
「じゃあ、二本取ってもいいの?」
「さあ」
誰かが一本取った。
別の人も一本取った。
そのうち、箱の中身が少なくなってきた。
「これ、みんなの分なくなるんじゃない?」
そう言った人がいた。
すると別の人が、
「でも、必要な人が取ればいいんじゃない?」
と言った。
誰も反論しなかった。
透も何も言わなかった。
しばらくして、箱は空になった。
午後になって、上司が休憩室に入ってきた。
箱を見ると、
「もうなくなったのか」
とだけ言った。
「誰が持ってきたんですか?」
誰かが聞いた。
上司は少し考えた。
「総務じゃないかな」
「総務に聞けば分かります?」
「たぶん」
それで話は終わった。
仕事が終わる頃、透は総務の前を通った。
中では二人の社員が話していた。
「昨日の件、結局どうする?」
「上からは、とりあえず様子を見ろって」
「でも、現場から問い合わせが来てるよ」
「分かってる」
「じゃあ、説明したほうがいいんじゃない?」
少し沈黙があった。
「まだ何も決まってないから、今説明しても余計に混乱するだけでしょう」
「それもそうか」
透はそのまま通り過ぎた。
家に帰る途中、彼女から電話が来た。
「今どこ?」
「駅」
「じゃあ、少し歩かない?」
「いいよ」
待ち合わせ場所へ行くと、彼女はコンビニの袋を持っていた。
「何買ったの?」
「水」
「また?」
「うん」
「家にもあるでしょう」
「あるよ」
彼女は少し笑った。
「じゃあ、どうして?」
「安かったから」
「昨日より?」
「昨日より少し安い」
透は袋の中を見た。
水が二本入っていた。
「二本買ったんだ」
「一本は自分の。もう一本は近所のおばさんに頼まれた」
「そういうことか」
二人は歩き始めた。
しばらくして、彼女が言った。
「今日、会社で水が配られた」
「こっちも似たようなことがあった」
「みんな取った?」
「うん」
「足りなくなった?」
「なくなった」
彼女は少し黙った。
「必要な人が取っただけなのかもしれないね」
「そうかもしれない」
「でも、本当に必要だったかどうかは分からない」
透は彼女を見た。
「何本も持って帰った人がいた?」
「いた」
「じゃあ、必要だったのかもしれない」
「そうね」
彼女はそれ以上言わなかった。
二人は川沿いの道を歩いた。
水面には、街の明かりが揺れていた。
「ねえ」
彼女が言った。
「何?」
「もし、みんなが自分のために少し多めに取ったら、どうなるんだろう」
「分からない」
「またそれ?」
「うん」
彼女は笑った。
「最近、それが口癖になったね」
透も笑った。
けれど、そのあと少しだけ考えた。
自分のために取ること。
誰かのために残すこと。
必要な人に渡すこと。
何が正しいのかを決める前に、人はそれぞれの理由で手を伸ばす。
そして、その理由は外から見ただけでは分からない。
「俺ならどうするかな」
透が呟いた。
「今?」
「うん」
「どうするの?」
透は少し考えた。
「たぶん、自分に必要な分だけ取る」
「それで?」
「余ったら、誰かに渡す」
「誰に?」
「それは、そのとき考える」
彼女は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
二人はそのまま歩いた。
川沿いの道には、他にも何人か人がいた。
買い物袋を持っている人。
犬を連れている人。
ベンチで話している人。
世界が変わったと言われても、こういう光景だけを見ると、昔とあまり変わらない。
けれど、家に帰れば水の箱がある。
明日のことを考えれば、少しだけ気になる。
それでも、人は歩く。
透も歩いた。
その日は、何も決めなかった。




