第百八十三章 残っているもの
翌朝、透が家を出ると、昨日買った水の箱が玄関の隅に置かれていた。
二人で持って帰ったものだった。
まだ一箱しかない。
それで十分なのか、それとも足りないのか。
透には分からなかった。
出かける前に、スマートフォンで地域の掲示板を見た。
昨日の給水時間について、いくつか書き込みが増えていた。
「午後は予定通りだった」
「うちの近所は早く終わった」
「係の人に聞いたら、明日は大丈夫だと言っていた」
「明日も大丈夫とは限らないらしい」
書いてあることは、それぞれ違っていた。
透は画面を閉じた。
駅へ向かった。
会社に着くと、入口のところに同僚が集まっていた。
「昨日、水買った?」
一人が聞いた。
「少しだけ」
「やっぱり買ったんだ」
「そっちは?」
「買ってない。まだ家にあるから」
「じゃあ大丈夫だね」
「まあね」
別の人が口を挟んだ。
「うちは親のところにも持っていかないといけないんだよ」
「近いの?」
「電車で三十分くらい」
「じゃあ、今日持っていくの?」
「どうしようかな」
その人は笑った。
「向こうもあるって言ってるんだけど、本当にあるのか分からないんだよね」
誰も答えなかった。
始業時間になった。
午前中の仕事は、いつもと変わらなかった。
機械の音がして、人が行き来して、誰かが書類を探していた。
昨日まで話題になっていた給水のことも、午前中にはほとんど話されなくなった。
昼前になって、一人の社員が上司に呼ばれた。
しばらくして戻ってくると、周りから声をかけられた。
「何だった?」
「別に」
「怒られた?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
その人は少し迷ってから言った。
「来月から、勤務時間が少し変わるかもしれないって」
「かもしれない?」
「まだ決まってないらしい」
「なんで?」
「上のほうで調整してるって」
それ以上は話さなかった。
昼休みになっても、その話は続かなかった。
透は弁当を食べながら、向かいに座った同僚を見た。
その人はスマートフォンを見ていた。
画面には求人情報が表示されている。
「転職するの?」
透が聞くと、同僚は顔を上げた。
「まだ分からない」
「今の仕事、嫌なの?」
「そういうわけじゃないよ」
少し間があった。
「ただ、ずっとここにいるとも限らないでしょう」
「そうだね」
「透は?」
「俺?」
「転職とか考えないの?」
透は箸を止めた。
少し前なら、誰かに聞かれた時点で答えを探していたと思う。
転職したほうがいいのか。
今の仕事を続けたほうがいいのか。
どちらが正しいのか。
けれど、今日はすぐには答えなかった。
「まだ分からない」
同僚は笑った。
「お前、最近そればっかりだな」
「そうかも」
「まあ、俺も分からないけど」
二人とも、それ以上は話さなかった。
仕事が終わると、透は駅の反対側へ向かった。
昨日の店を見るためだった。
水の箱は、ほとんど残っていなかった。
値段は昨日と同じだった。
店主は棚の奥から新しい箱を出していた。
「今日は少ないですね」
透が言うと、店主は箱を置きながら答えた。
「入荷が少なかったからね」
「明日は?」
「分からない」
透は少し笑った。
「やっぱり分からないんですね」
「分からないものは分からないよ」
店主も笑った。
「でも、昨日よりは売れた」
「そうですか」
「みんな不安なんだろうね」
透は店を出た。
その言葉について、しばらく考えた。
不安だから買う。
買う人が増えるから、店の在庫が減る。
在庫が減ったのを見て、さらに不安になる。
それでまた買う。
誰かが嘘をつかなくても、話は大きくなる。
そんなこともあるのだと思った。
駅へ戻る途中、彼女から連絡が来た。
「今日は遅くなる」
「分かった」
「先に帰ってて」
「うん」
透はスマートフォンをしまった。
一人で駅へ向かった。
改札を通ると、掲示板の前に人が集まっていた。
昨日とは違う紙が貼られている。
透は立ち止まらなかった。
人の肩越しに、紙の上の文字が少しだけ見えた。
「供給についてのお知らせ」
それだけだった。
透はそのままホームへ向かった。
電車を待ちながら、ふと思った。
昨日買った水は、まだ家にある。
明日もあるかもしれない。
なくなるかもしれない。
だからといって、毎日そのことを考えている必要もない。
電車が来た。
透は乗り込んだ。
窓の外を見ながら、今日のことを思い返した。
勤務時間の話。
転職を考えている同僚。
水の店。
掲示板。
どれも、まだ何も決まっていない。
それでも、人はその中で仕事をして、買い物をして、家に帰る。
何かが決まるまで待っているわけではない。
透は窓に映った自分の顔を見た。
少し疲れている。
それだけだった。
電車が次の駅に入った。
人が降りて、人が乗ってくる。
透は席を譲った。
立ったまま、次の駅まで過ごした。
特に何も考えなかった。
それも、最近では悪くないと思えるようになっていた。




