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嘘の向こう側  作者: 亀


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第百八十二章 水の話

朝の空は、薄い雲に覆われていた。


雨が降るほどではない。


けれど、空気には少し湿り気があった。


透は駅へ向かう途中、小さな掲示板の前で足を止めた。


新しい紙が一枚、貼られていた。


「給水時間変更のお知らせ」


その下に、簡単な説明が書かれている。


一部地域では、今日から給水時間を短縮する。


理由については、


「供給状況を踏まえた調整」


とだけ書かれていた。


透は紙を最後まで読んだ。


昨日までなら、もう少し詳しく知りたいと思ったかもしれない。


けれど、今日はそのまま歩き出した。


自分の住んでいる地域には、まだ影響がない。


それだけ分かればよかった。


駅に着くと、いつもより人が多かった。


改札の近くで、年配の男性が駅員に話しかけていた。


「この先の給水所、今日はやってるの?」


「午前中は予定されています」


「午後は?」


駅員は少し困った顔をした。


「現時点では、分かりません」


「昨日は午後もやってたでしょう」


「はい。ただ、今日は変更になる可能性があります」


「じゃあ、行っても無駄になるかもしれないってこと?」


「そういう可能性もあります」


男性はしばらく黙っていた。


「分かった」


そう言って、駅を出ていった。


透はその後ろ姿を見ながら、少しだけ考えた。


駅員は嘘をついたのだろうか。


分からない。


本当に分からなかったのかもしれない。


透はそれ以上考えず、会社へ向かった。


昼休みになると、同僚たちが給水の話をしていた。


「今日、駅の向こうは短くなったらしいよ」


「昨日から?」


「今日からだって」


「じゃあ、こっちもそのうちそうなるのかな」


「さあ」


誰かがスマートフォンを見ながら言った。


「今のところは大丈夫らしい」


「どこに書いてあるの?」


「誰かが送ってきた」


「公式?」


「知らない」


それで話は終わった。


透も何も言わなかった。


昼食を食べ終わった頃、別の同僚が言った。


「そういえば、駅の近くの店、水を箱で売ってたよ」


「高かった?」


「少しね」


「いくら?」


「覚えてない」


「じゃあ、今度見てみようかな」


その会話も、それ以上は続かなかった。


午後、透は仕事をしながら、午前中の掲示板を思い出していた。


「供給状況を踏まえた調整」


便利な言葉だと思った。


何が起きているのか、ほとんど書いていない。


それでも、嘘だとは言えない。


透はそこで考えるのをやめた。


仕事が終わる頃には、給水のことも忘れていた。


帰り道、駅の前で小さな店を見つけた。


店の前に、箱入りの水が積まれている。


いつもより少し高い値段が書かれていた。


透が立ち止まって見ていると、店主が声をかけた。


「買う?」


「まだ大丈夫です」


「そう」


店主はそれだけ言って、箱を並べ直した。


透はそのまま通り過ぎた。


家に帰る途中、スマートフォンが鳴った。


彼女からだった。


「今日、時間ある?」


「あるよ」


「じゃあ、少し会おう」


「分かった」


駅で待っていると、彼女は少し遅れてやってきた。


「ごめん」


「大丈夫」


「水、買った?」


「まだ」


彼女は少し驚いた顔をした。


「買っておいたほうがいいかも」


「そうなの?」


「うちの近く、今日から少し高くなった」


「給水が止まるの?」


「そこまでは聞いてない」


「じゃあ、どうして?」


「知らない」


透は笑った。


「分からないんだ」


「うん」


彼女も笑った。


「でも、なくなってから探すよりいいでしょう」


「それはそうだね」


二人は駅前の店に向かった。


水の箱は、昼間より少なくなっていた。


透が値段を見ると、確かに少し高い。


「高くなったね」


「うん」


彼女は一箱を手に取った。


「買う?」


「買おうか」


二人で会計を済ませた。


店を出ると、彼女が言った。


「ねえ」


「何?」


「さっきの店員さん、私たちが買うって分かってたと思う?」


「どうだろう」


「最初から売り切れると思ってたのかも」


「そうかもしれない」


「でも、聞かなかったね」


「うん」


彼女は少し笑った。


「前だったら聞いてた?」


透は考えた。


「たぶん」


「今は?」


「別にいいかなって」


「ふうん」


二人は水の箱を交代で持ちながら歩いた。


しばらくすると、彼女が言った。


「こういうの、増えていくのかな」


「何が?」


「こういう、分からないこと」


透は答えなかった。


彼女は続けた。


「昔は、店に行けば買えるものだったでしょう」


「うん」


「今は、店にあっても、明日もあるか分からない」


透は箱を持ち直した。


「だから、みんな少しずつ嘘をつくのかもね」


「どういうこと?」


「分からないから、分かってるように話す」


彼女は少し考えた。


「それ、嘘なのかな」


「分からない」


「またそれ?」


「うん」


二人は笑った。


その日の帰り道、透は一度だけ後ろを振り返った。


店の前には、まだいくつか箱が残っていた。


明日もあるのかもしれない。


なくなるのかもしれない。


誰かが知っているのかもしれない。


誰も知らないのかもしれない。


透はそれを確かめなかった。


水の箱を持ったまま、彼女と並んで歩いた。

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