第百八十一章 言わないことの中で
朝倉透は、朝の電車の中で窓の外を眺めていた。
同じ駅。
同じ道。
同じような人の流れ。
昨日までなら、特に気にすることもなかった景色だった。
けれど最近、透は人の会話に少しだけ耳を傾けるようになっていた。
意識して聞いているわけではない。
ただ、以前なら聞き流していた言葉が、時々引っかかる。
「また今度、連絡するよ」
向かいの席に座った男が、電話を切りながら言った。
透は一瞬だけその言葉を考えた。
本当に連絡するのだろうか。
それとも、断るための言葉なのだろうか。
以前の透なら、どちらかを決めようとしたかもしれない。
今は、決めなかった。
その人自身にも、本当に連絡するつもりなのかもしれない。
その場ではそう思っていたけれど、家に帰ってから気が変わることだってある。
あるいは、単純に忘れることもある。
「また今度」という言葉だけでは、何も分からない。
電車が駅に着いた。
透は人の流れに合わせて、ホームへ降りた。
会社へ向かう途中、昨日の外注の話を思い出した。
担当者が決まったのかどうか。
少し気になった。
以前なら、気になってもそのままにしていたかもしれない。
しかし今日は、会社に着いてから一度だけ聞いてみようと思った。
それだけだった。
昼前、透は同僚に声をかけた。
「昨日の外注の件なんだけど」
「うん」
「担当、決まった?」
同僚は少し考えてから首を傾げた。
「まだじゃないかな」
「そうなんだ」
「たぶん、上のほうで決めると思う」
透は少しだけ黙った。
「決まったら、教えてもらってもいい?」
「いいよ」
それ以上は聞かなかった。
以前なら、そこでさらに質問を重ねていたかもしれない。
誰が決めるのか。
いつ決まるのか。
なぜまだ決まっていないのか。
けれど、今はそこまで必要ではなかった。
必要になったら、そのとき聞けばいい。
透は自分の席へ戻った。
午後になって、仕事はいつも通り進んだ。
特別なことは起こらなかった。
それでも、帰る頃には少し疲れていた。
駅へ向かう途中、スマートフォンを見ると、彼女からメッセージが来ていた。
「今日は?」
短い文章だった。
透は少し考えた。
「普通だったよ」
送ってから、画面を見つめる。
今日、会社で少し気になったことがあった。
けれど、それをわざわざ説明するほどのことでもない。
しばらくして、彼女から返事が来た。
「私も普通」
透は少し笑った。
たぶん、彼女も何か言っていない。
それでよかった。
その夜、二人は駅の近くで会った。
彼女はいつものように歩いてきて、透を見ると手を上げた。
「お疲れ」
「お疲れ」
「何食べる?」
「何でもいいよ」
「それ、一番困る」
「じゃあ、そっちが決めて」
「それも困る」
二人とも少し笑った。
結局、以前にも入ったことのある店に入った。
料理を待っている間、彼女が言った。
「今日、仕事でちょっと嫌なことあった」
「そうなんだ」
透はそれ以上聞かなかった。
彼女も続けなかった。
しばらくして、彼女が言った。
「聞かないの?」
「話したくなったら話すかなって」
「ふうん」
「違った?」
「ううん」
彼女は水を一口飲んだ。
「そういうところ、少し変わったね」
「そうかな」
「前だったら、もっと聞いてた」
透は少し考えた。
確かにそうだった。
相手が何かを隠していると感じると、理由を知りたくなった。
理由が分からないことが、不安だった。
今も不安になることはある。
ただ、それをすぐに埋めようとは思わなくなっていた。
「知りたいとは思うよ」
「うん」
「でも、今すぐじゃなくてもいいかなって」
彼女は透を見た。
「それって、信用してるってこと?」
「分からない」
「正直だね」
「信用してるから聞かないのかもしれないし、聞いても仕方ないと思ってるだけかもしれない」
「どっちでもいいんじゃない?」
彼女はそう言って笑った。
料理が運ばれてきた。
二人はしばらく食べた。
食事が半分ほど終わったところで、彼女が突然言った。
「さっきの話、やっぱり聞きたい?」
「うん?」
「仕事のこと」
透は箸を止めた。
「話したいなら聞くよ」
「じゃあ、話す」
彼女は仕事で頼まれたことについて話し始めた。
誰かに無理なお願いをされたこと。
断ったこと。
そのあと少し気まずくなったこと。
大した事件ではなかった。
けれど、彼女にとっては少し嫌な一日だったらしい。
話し終わると、彼女は言った。
「これだけ」
「そっか」
「うん」
透はそれ以上、理由を聞かなかった。
本当は、まだ何かあるのかもしれない。
けれど、それも今は分からないままでよかった。
店を出ると、夜の風が少し冷たかった。
二人は駅とは反対の方向へ歩いた。
「今日さ」
彼女が言った。
「何?」
「私、透に言わなかったこと、まだあるよ」
透は彼女を見た。
「俺もあるよ」
「そうだよね」
「うん」
「じゃあ、今度話す」
「うん」
それだけだった。
二人はまた歩き始めた。
透はふと思った。
一周目では、知らないことがあると、そこに答えがあるような気がしていた。
答えを見つければ、不安はなくなる。
誰かが嘘をついているなら、それを見つければいい。
隠されていることがあるなら、明らかにすればいい。
けれど今は、少し違う。
知らないことがあっても、人は一緒に歩ける。
全部話さなくても、隣にいられる。
そして、いつか話したくなったら話せばいい。
透は隣を歩く彼女を見た。
彼女もこちらを見た。
「何?」
「いや」
「何でもない?」
「うん」
彼女は少し笑った。
「じゃあ、いいや」
二人はそのまま歩いた。
言わなかったことを、言わないまま。
それでも、昨日より少しだけ近い距離で。




