第百八十章 知らないままの選択
朝倉透は、駅の改札を出たところで足を止めた。
駅前の掲示板に、一枚の紙が貼られていた。
「地域生活支援に関するお知らせ」
その下に、小さな文字でいくつかの案内が並んでいる。
一時的な給水場所。
生活物資の配布。
臨時診療所。
避難施設の利用方法。
そして、その一番下に、
「詳しい内容については、各担当窓口までお問い合わせください」
と書かれていた。
透はしばらく紙を見ていた。
以前なら、そのまま通り過ぎていたと思う。
知らないことがあっても、自分には関係のないことだと思っていた。
けれど、今は少し違った。
紙に書かれていないことが気になった。
「各担当窓口って、どこなんだろう」
声に出してから、透自身が少し驚いた。
誰かに聞かれたわけでもない。
必要に迫られたわけでもない。
ただ、気になった。
透は掲示板の端に書かれていた連絡先を携帯電話に保存した。
それだけにした。
すぐに電話をすることもしなかった。
昔の自分なら、分からないことがあれば、誰かが説明してくれるまで待っていた。
今の自分は、分からないことを分からないまま持っていることが少しだけ苦ではなくなっていた。
駅を出て、いつもの道を歩いた。
途中のコンビニの前で、近所に住んでいるらしい男性が店員に話しかけていた。
「今日、配給のほうはもう終わったんですか?」
「今日は、もう終わったと思います」
店員はそう答えた。
男性は少し考えてから、
「明日は?」
と聞いた。
「明日は、たぶんあります」
「たぶん?」
「すみません。まだ連絡が来てなくて」
男性は何も言わずに頷いた。
「分かりました」
それだけ言って、店を出ていった。
透はそのやり取りを見ていた。
以前なら、
「店員が適当なことを言っている」
と思ったかもしれない。
けれど、今はそうは思わなかった。
店員は本当に知らないのかもしれない。
知らないことを、知らないと言っているだけなのかもしれない。
「たぶんあります」という言葉も、嘘とは限らない。
透は歩きながら考えた。
嘘かどうかを判断する前に、
「この人は何を知っているんだろう」
と考えるようになっていた。
それだけの違いだった。
夕方、仕事が終わる少し前に、同僚から声をかけられた。
「朝倉さん、明日の予定って聞いてます?」
「明日?」
「はい。午前中、外部の人が来るらしいんですけど」
透は少し考えた。
「聞いてないです」
「やっぱり?」
「誰かが知ってるんじゃないですか?」
「たぶん、上の人は知ってると思います」
また、たぶんだった。
同僚は笑った。
「こういう時って、だいたい当日の朝に分かりますよね」
透も笑った。
「そうですね」
以前なら、それ以上何も言わなかった。
けれど今日は、少しだけ違った。
「もし分かったら、教えてもらえますか?」
同僚が透を見る。
「いいですよ」
「ありがとうございます」
それだけだった。
大したことではない。
仕事の予定を確認しただけだ。
それでも透には、以前とは少し違う感覚があった。
誰かに判断を任せたわけでもない。
全部を調べようとしたわけでもない。
ただ、自分に必要な情報を一つだけ求めた。
帰り道、透は携帯電話を取り出した。
彼女からメッセージが来ていた。
「今日、遅くなる?」
透は少し考えてから、
「少しだけ」
と返した。
すぐに返事が来た。
「じゃあ、駅の近くにいる」
透は駅に向かった。
彼女はいつもの場所に立っていた。
「お疲れ」
「お疲れ」
「今日、何かあった?」
「仕事で明日の予定が分からなかったから、聞いてみた」
彼女は少し笑った。
「それだけ?」
「うん。それだけ」
「へえ」
彼女はそれ以上聞かなかった。
二人は駅前の小さな店に入った。
夕食を食べながら、彼女が言った。
「私、今日ちょっと嫌なことがあった」
「何?」
「知り合いに、頼み事をされた」
「何を?」
「詳しくは言わない」
透は箸を止めた。
「そうなんだ」
「聞かないの?」
「聞いてほしいなら話すと思うから」
彼女は少しだけ目を細めた。
「前なら聞いてたよね」
「そうかも」
「変わったね」
透は笑った。
「そうかな」
「少しだけ」
彼女は水を飲んだ。
「でも、私も全部話すつもりはないよ」
「うん」
「それでもいい?」
透は少し考えた。
以前なら、ここで何か確認していたかもしれない。
「いいよ」
彼女が笑った。
「じゃあ、今日はそれでいいね」
二人はそのまま食事を続けた。
店を出ると、夜の街は静かだった。
透は歩きながら、昼間に見た掲示板を思い出した。
書かれていること。
書かれていないこと。
知っていること。
知らないこと。
嘘。
本当。
そのどちらかに決めなくてもいいこと。
以前の透なら、答えがないことを不安に思った。
今も不安はある。
ただ、その不安があるからといって、すぐに答えを探さなくてもいいと思えるようになっていた。
彼女が隣を歩いている。
透は彼女のことを、全部知っているわけではない。
たぶん、これからも全部は知らない。
それでも、一緒に歩いている。
それだけで十分な夜もある。
透は前を見た。
「明日、何があるんだろうね」
彼女が言った。
「分からない」
「珍しく素直」
「分からないものは、分からないから」
彼女は笑った。
「じゃあ、明日になったら考えよう」
「うん」
二人はそのまま歩いた。
答えを持たないまま。
それでも、足を止める必要はなかった。




