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嘘の向こう側  作者: 亀


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第一百七十九章 言わないこと

週末の午後、透は駅前の小さなスーパーに立ち寄った。


特に買うものを決めていたわけではなかった。


牛乳が切れていた。


それから、卵もなかった。


冷蔵庫を開けてから気づいたので、仕方なく外に出た。


店内はそれほど混んでいなかった。


透は買い物かごを持って、ゆっくり歩いた。


野菜売り場の前で、年配の女性が二人話していた。


「息子さん、まだ帰ってこないの?」


「うん。仕事が忙しいみたい」


「大変ね」


「でも、元気にしてるから」


女性は笑った。


透はその横を通り過ぎた。


何気ない会話だった。


けれど、少しだけ気になった。


「仕事が忙しい」というのは、本当かもしれない。


本当ではないかもしれない。


息子が本当に忙しいのかどうか、透には分からない。


ただ、その女性にとっては、それで十分なのかもしれなかった。


すべてを説明する必要はない。


相手も、それ以上聞かなかった。


透は卵をかごに入れた。


その時、後ろから声がした。


「朝倉さん?」


振り返ると、会社の同僚だった。


「あ」


「買い物ですか?」


「はい」


「一人?」


「そうです」


「珍しいですね」


「そうですか?」


「いつも誰かといるイメージだったので」


透は少し考えた。


そんなつもりはなかった。


「たまたまですよ」


「そうですか」


同僚は笑った。


「じゃあ、また月曜日」


「はい」


そのまま別れた。


透は少し歩いてから、ふと考えた。


今の自分も、少し嘘をついた。


「たまたま」というのは間違いではない。


ただ、全部ではない。


誰かと一緒にいる時もある。


一人でいる時もある。


そのことを、わざわざ説明する必要はない。


以前なら、嘘をついたことに気づいた瞬間、少し嫌な気分になったかもしれない。


でも今は違った。


言わないことと、嘘をつくこと。


その二つは、完全に同じではない。


それでも、完全に別だとも言えない。


透はそのことを考えながら、レジへ向かった。


家に帰ると、彼女から連絡が来ていた。


『今日、何してた?』


透は少し考えた。


『買い物してた』


送信する。


しばらくして返事が来た。


『誰と?』


透は画面を見た。


「一人だよ」


そう入力して、送る直前に止まった。


本当は途中で同僚に会った。


ただ、それだけだった。


わざわざ言うほどのことではない。


透はそのまま送信した。


『一人だよ』


すぐに返事が来た。


『そっか』


それだけだった。


透はスマートフォンを机の上に置いた。


不思議な感じがした。


以前なら、


「今のは嘘だった」


と考えていた。


でも今は、


「必要なことだけ話した」


とも考えられた。


どちらが正しいのかは分からない。


その夜、二人は近所の店で一緒に食事をした。


彼女は仕事の話をした。


「今日、ちょっと嫌なことがあった」


「何?」


「知り合いに頼まれた」


「何を?」


「お金を貸してほしいって」


透は箸を止めた。


「貸したの?」


「貸してない」


「どうして?」


「返ってこないと思ったから」


透は少し笑った。


「分かりやすいね」


「そう?」


「うん」


彼女は水を飲んだ。


「でも、相手は本当に困ってたかもしれないよ」


「そうかもしれない」


「じゃあ、どうして貸さなかったの?」


彼女は少し考えた。


「困っていることと、私がお金を貸すことは別だから」


透は黙った。


その言葉が、妙に残った。


彼女は続けた。


「助けたいと思うことと、助けなきゃいけないことも別だよ」


「……そうだね」


「透は、そういうところで迷うよね」


透は苦笑した。


「うん」


「嫌われたくないから?」


「たぶん」


彼女は少し考えた。


「私は、嫌われても仕方ないと思ってる」


「強いね」


「強くないよ」


彼女は笑った。


「ただ、自分で決めたことを、人のせいにしたくないだけ」


透はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。


自分で決める。


それは簡単なようで、透には難しかった。


誰かが決めてくれれば、その人の判断に従えばいい。


失敗した時も、


「あの人がそう言ったから」


と言える。


けれど、自分で決めたら、それができない。


透は味噌汁を一口飲んだ。


「もし、貸さなかったことで、その人が困ったら?」


「困るかもしれないね」


「それでも?」


「それでも」


彼女は答えた。


「私には、その人の人生を全部背負うことはできないから」


透は何も言わなかった。


店の外を人が通り過ぎていく。


誰かが笑っている。


誰かが電話をしている。


誰かが急いでいる。


それぞれが、それぞれの事情を持って歩いている。


透はふと思った。


嘘も同じなのかもしれない。


誰かが嘘をついた。


その理由を知らない。


だからといって、その人の人生全部を判断することはできない。


逆に、嘘をつかれたからといって、その人とこれからどう付き合うかまで、誰かに決めてもらう必要もない。


透は彼女を見た。


「じゃあ、俺が嘘をついたら?」


彼女は笑った。


「何の嘘?」


「例えば……」


透は少し考えた。


「今日、一人で買い物してたって言ったけど、途中で会社の人に会った」


彼女は一瞬だけ透を見た。


そして、


「それ、嘘なの?」


「分からない」


「じゃあ、どっちでもいいんじゃない?」


透は笑った。


「適当だね」


「そう?」


「うん」


「全部のことを説明しないと一緒にいられないなら、疲れるでしょう」


彼女はそう言って、料理を食べた。


透はその横顔を見ながら、以前の自分なら、この答えを理解できなかっただろうと思った。


真実か。


嘘か。


どちらなのか。


それを決めたかった。


でも今は、少しだけ違う。


彼女が全部を話していないことを知っている。


自分も全部を話していない。


それでも、今ここで一緒に食事をしている。


それでいいのかもしれない。


店を出ると、夜の風が少し冷たかった。


彼女が言った。


「明日、どこか行く?」


透は少し考えた。


「決めてない」


「じゃあ、決めよう」


「どこに?」


「知らない」


透は笑った。


「それじゃ決められないよ」


「じゃあ、歩きながら決めればいい」


彼女は先に歩き出した。


透は少し遅れて、その後を追った。


以前なら、目的地が決まっていないことが不安だった。


今は、それほどでもない。


分からないまま歩くこともできる。


透はそう思った。


そして、ほんの少しだけ、自分から歩く速度を上げた。

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