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嘘の向こう側  作者: 亀


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第一百七十八章 戻っていく記憶

その日の夜、朝倉透はなかなか眠れなかった。


特別なことがあったわけではない。


仕事から帰って、簡単に食事をして、風呂に入った。


スマートフォンを少し見て、それから電気を消した。


いつもの夜だった。


それなのに、眠れなかった。


天井を見ながら、透は昼間のことを思い出していた。


外注の話。


誰が確認するのか分からなかったこと。


誰も嘘をついているようには見えなかったこと。


それでも、聞いてみなければ分からなかったこと。


透は寝返りを打った。


そして、ふと思った。


自分は、いつからこんなことを気にするようになったのだろう。


昔だったら、誰かが、


「大丈夫です」


と言えば、それで終わっていた。


誰かが、


「みんなそうしています」


と言えば、


「そうなんだ」


と思っていた。


誰かが、


「あなたは何もしなくていいですよ」


と言えば、本当に何もしなかった。


自分で決めることが怖かった。


もし間違えたら、その責任を自分が負わなければならない。


だから、人の言葉に従っていればいい。


そうすれば、少なくとも自分だけの判断で失敗することはない。


透はずっと、そう考えていた。


けれど、ある時期だけは違った。


あの場所にいた時だけ。


透は目を閉じた。


記憶の奥から、いくつかの場面が浮かんできた。


古い建物。


知らない名前。


残された記録。


誰かが言った言葉。


誰かが隠していたこと。


そして、あの女の人。


あの頃の自分は、何かを探していた。


そう思っていた。


兄を探していた。


彼女の兄。


どこにいるのか分からない人。


何をしているのかも分からない人。


本当に存在しているのかさえ、最後まで確かめられなかった人。


透は目を開けた。


「……兄さん」


小さく呟いた。


その言葉を口にした瞬間、少し違和感があった。


誰の兄なのだろう。


もちろん、彼女の兄だ。


そう聞いていた。


そう理解していた。


でも、透はその人自身を知らない。


顔も知らない。


声も知らない。


話したこともない。


それなのに、なぜ自分はあれほど必死になって探していたのだろう。


透はしばらく考えた。


答えは出なかった。


翌朝、駅へ向かう道で、透はコンビニの前に立ち止まった。


入口の横に求人広告が貼られていた。


「未経験歓迎」


「簡単な作業です」


「誰でもできます」


透は何となく読んだ。


昔なら、その言葉をそのまま受け取っていたかもしれない。


今は少し違った。


未経験でもできるのかもしれない。


本当に簡単なのかもしれない。


けれど、


「誰でもできる」


と


「誰でも同じようにできる」


は違う。


そんなことを考えている自分に、透は少し笑った。


以前の自分なら、こんなことを考えなかった。


駅に着くと、電車が来た。


透は乗り込んだ。


車内は混んでいた。


目の前に座っている女性が、電話で誰かと話していた。


「大丈夫。ちゃんとやってるから」


その声が聞こえた。


透は何となく顔を上げた。


女性は笑っている。


本当に大丈夫なのかもしれない。


そうでないのかもしれない。


透には分からない。


でも、もう以前ほど気にならなかった。


分からないものを、すぐに決めなくてもいい。


そう思えるようになっていた。


会社に着いて、仕事を始めた。


午前中は特に何もなかった。


昼休み、同僚が言った。


「朝倉さん、昨日の件、結局どうなったんですか?」


「まだ決まってないみたいです」


「そうなんですか」


「うん」


「まあ、そのうち決まりますよ」


「そうですね」


それだけだった。


以前なら、誰かに答えを求めていた。


今は、自分の中に一つだけ残すことができる。


「まだ分からない」


それでいい。


午後になって、仕事が少し忙しくなった。


一つの書類に小さな間違いが見つかった。


担当者が言った。


「これ、前の人がやったものだから」


別の人が言った。


「じゃあ、前の人に聞けばいいんじゃないですか?」


「もう辞めたよ」


「じゃあ、どうします?」


「とりあえず直しましょう」


誰も怒らなかった。


誰も責任を取ろうとも言わなかった。


ただ、間違いを直した。


透はその様子を見ていた。


世の中は、もっと整っていると思っていた時期があった。


誰かが決める。


誰かが記録する。


誰かが確認する。


何かが間違えば、原因が分かる。


そういう世界だと思っていた。


けれど、実際には違った。


分からないまま進むこともある。


誰が決めたのか分からないまま決まることもある。


誰かの言葉が、別の誰かによって繰り返されるうちに、いつの間にか事実のようになることもある。


それでも、人は毎日を生きている。


仕事をして。


食事をして。


笑って。


喧嘩して。


誰かを好きになって。


誰かを嫌いになって。


また次の日を迎える。


透は窓の外を見た。


あの時、自分が見ていた世界も、きっとそうだった。


特別だったのは世界ではない。


自分の見方だったのかもしれない。


あの場所では、何かを知りたいと思った。


だから、知らないことが怖かった。


分からないことを一つずつ調べた。


人に聞いた。


記録を見た。


間違っているかもしれないと思いながら、それでも進んだ。


今思えば、あの時の自分は、少しだけ勇敢だった。


透はそこで考えるのをやめた。


「勇敢だった」


その言葉が、少しだけ恥ずかしかった。


別に強くなったわけではない。


怖かった。


何度も逃げたかった。


誰かに代わってほしいと思ったこともあった。


それでも、あの時だけは、自分で歩いた。


仕事が終わった。


帰り道、透は駅前のベンチに座った。


スマートフォンを取り出す。


彼女との古いメッセージを少しだけ遡った。


途中で指が止まった。


あの頃のメッセージだった。


兄のこと。


場所のこと。


分からないこと。


探していたこと。


透は画面を閉じた。


まだ探していない。


そう思った。


いや。


正確には、あの時は探していた。


でも、今の自分は探していない。


その違いが、少し不思議だった。


透は立ち上がった。


家へ向かって歩き始める。


兄がどこにいるのか。


今も生きているのか。


そもそも、自分が知っている「兄」という存在が、本当に一人の人間を指していたのか。


何も分からない。


けれど、今すぐ答えを出す必要もなかった。


透は歩きながら思った。


いつかまた、思い出すかもしれない。


その時、自分がまだ知りたいと思ったなら、その時に探せばいい。


誰かに頼まれたからではない。


誰かに命令されたからでもない。


自分が決める。


それだけでいい。


その夜、透は久しぶりによく眠った。


夢の中で、誰かを探していた。


けれど、その人の顔は見えなかった。


名前も分からなかった。


ただ、遠くに人影があった。


透は追いかけなかった。


しばらく立って、その背中を見ていた。


そして、自分の足元を見た。


自分がどこに立っているのか。


自分がどこへ行きたいのか。


それを確かめてから、ゆっくり歩き始めた。

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