第一百七十七章 言わなかったこと
「最終確認時刻――」
透は画面に表示された時刻を見た。
兄が南区に入るよりも前だった。
それだけだった。
新しい記録は、何も教えてくれなかった。
少なくとも、今までのように番号を追えば、次の番号が現れるということはなかった。
透はしばらく画面を見つめたあと、端末を閉じた。
女は何も言わなかった。
「今日は、ここまでにする?」
透が聞くと、女は少し考えた。
「うん」
「まだ調べられると思うけど」
「分かってる」
女は椅子から立ち上がった。
「でも、分からないものを、分かるまで調べ続けても仕方ないから」
透はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
以前なら、その言葉にも何か意味があると思ったかもしれない。
何かを諦めたのか。
何かを隠しているのか。
あるいは、別の記録をすでに見つけているのか。
今は、そこまで考えなかった。
分からないものは、分からない。
それだけだった。
二人は建物を出た。
外は夕方だった。
駅まで歩く途中、女が言った。
「夕飯、食べていく?」
「いいよ」
「何がいい?」
「何でも」
「その答え、一番困る」
「じゃあ、そっちが決めて」
「それもずるい」
女は笑った。
透も笑った。
その日は、兄の話をしなかった。
二人は駅の近くにある小さな店に入った。
店員が注文を聞きに来た。
女はメニューを見ながら言った。
「私はこれ」
「じゃあ、俺も」
「真似しないで」
「同じものを食べたいだけ」
「本当?」
「たぶん」
女が顔を上げた。
「たぶん?」
「最近、便利な言葉だと思って」
「誰かさんの影響?」
「さあ」
二人はまた笑った。
その程度の会話だった。
けれど、透はふと気づいた。
以前の自分なら、相手の言葉の裏側を探していた。
今は探していない。
探さなくても、相手と一緒にいられる時間がある。
それで十分なこともある。
食事が終わると、女は先に店を出た。
駅前で別れる直前、彼女が言った。
「そういえば、今日のこと」
「うん」
「誰にも話さないで」
透は少し黙った。
「分かった」
女はそれ以上何も言わなかった。
透も聞かなかった。
何を話してはいけないのか。
兄のことなのか。
記録のことなのか。
今日二人が会っていたことなのか。
全部なのか。
一部なのか。
透には分からなかった。
そして、そのことを以前ほど不安には感じなかった。
彼女が帰ったあと、透は一人で駅の改札を通った。
スマートフォンを見ると、仕事先からメッセージが届いていた。
明日の予定についてだった。
透は内容を確認して返信した。
それから、ふと思い出した。
昼間、同僚から聞いた話があった。
「来月から、あの仕事、外注になるらしいよ」
そう言っていた。
「誰がやるの?」
「知らない。外の会社じゃない?」
「会社の人は?」
「大丈夫だって」
そのときは、それ以上聞かなかった。
翌日、出勤すると、事務所の壁に一枚の紙が貼られていた。
『業務体制変更のお知らせ』
透は立ち止まった。
内容には、来月から一部業務を外部委託することが書かれていた。
理由は、
『業務効率化および専門性向上のため』
とあった。
透は紙を読んだ。
誰が委託先なのかは書かれていなかった。
担当者に聞くと、
「詳しいことは上から聞いてください」
と言われた。
上司に聞くと、
「もう決まったことだから、現場は今まで通りでいいよ」
と言われた。
「外注先はどこですか?」
「そこはまだ調整中」
「でも来月からですよね」
「そう」
「誰が仕事をするんですか?」
上司は少し笑った。
「専門の会社だから、大丈夫だよ」
それ以上は答えなかった。
透は席に戻った。
隣の同僚が小声で言った。
「気にしなくていいよ」
「どうして?」
「こういうの、会社ではよくあるから」
透は同僚を見る。
「本当に?」
「たぶんね」
また、その言葉だった。
透は笑った。
「便利だね」
「何が?」
「たぶんって」
同僚は意味が分からないような顔をした。
昼休みになると、別の同僚が言った。
「外注って言っても、結局こっちが確認するんじゃない?」
「そうなの?」
「知らないけど」
「じゃあ、誰が責任を持つの?」
「さあ」
三人とも黙った。
少しして、一人が言った。
「まあ、問題が起きたら、そのとき考えればいいんじゃない?」
誰も反対しなかった。
午後になると、別の通知が届いた。
『外部委託先との連携について』
そこには、
『最終確認は社内担当者が実施します』
と書かれていた。
透はそれを読んだ。
朝、上司が言った。
「専門の会社だから、大丈夫」
昼には、
「こっちが確認するんじゃない?」
そして通知には、
「最終確認は社内担当者が実施します」
三つとも、完全な嘘ではなかった。
ただ、三つを並べても、
誰が何をするのかは分からなかった。
透は画面を閉じた。
昔なら、誰かに聞いていた。
「結局、どういうことですか」
今は聞かなかった。
分からないままでも、少しだけ分かったことがあった。
人は、嘘をつかなくても、相手を誤解させることができる。
そして、それを誰も嘘とは呼ばないこともある。
「業務効率化」
「専門性向上」
「最終確認」
「大丈夫」
どれも間違った言葉ではない。
ただ、その言葉だけでは、現実の形が見えなかった。
帰宅すると、スマートフォンに女からメッセージが届いていた。
『今日はどうだった?』
透は少し考えてから返信した。
『普通だったよ』
送ったあと、透は画面を見つめた。
今日は普通ではなかった。
外注の話もあった。
会社の曖昧な説明もあった。
昼休みの会話もあった。
それでも、
『普通だったよ』
と書いた。
数秒後、返信が来た。
『そっか。私も普通だった』
透は笑った。
彼女の一日が本当に普通だったのかは分からない。
たぶん、彼女も透の一日が本当に普通だったとは思っていない。
それでも、二人はそれ以上聞かなかった。
その夜、透はベッドに横になった。
兄の記録のことを考えた。
会社の外注のことを考えた。
女の言葉を考えた。
どれも、完全な真実ではない。
けれど、完全な嘘でもない。
透は目を閉じた。
以前なら、その続きを探していた。
今は探さなかった。
明日になれば、また別の人と会う。
その人にも、その人の生活がある。
その生活の中には、きっとまた何かがある。
言ったこと。
言わなかったこと。
言えなかったこと。
言わなくてもいいと思ったこと。
そして、本人でさえ、それを嘘だとは思っていないこと。
透はそのまま眠った。




