第十二章 海の向こう
「海の向こうだ。」
その言葉のあと、倉庫の中は静かになった。
透は、すぐには意味を理解できなかった。
南区ではない。
では、どこなのか。
この居住区から海までは、かなり離れている。
災害のあと、海岸線の一部は立入禁止区域になった。旧港湾施設も閉鎖され、現在使われている輸送路は、内陸側に集中している。
少なくとも、透が知っている範囲ではそうだった。
「海って……どこですか」
思わず口にした。
男は答えなかった。
代わりに、棚の奥に置かれた箱を一つ確認した。
「聞かないほうがいい。」
「どうしてですか」
「知らないほうがいいこともある。」
その言葉を聞いて、透は白石のことを思い出した。
何も考えなくていい。
そこへ行くな。
私を信じればいい。
似ている。
けれど、同じではない。
透は男を見た。
「あなたは知っているんですか」
「少しだけ。」
「少しって?」
男は箱の側面に貼られたラベルを剥がした。
下から、別の文字が現れた。
「俺が知っているのは、ここから先に物が運ばれていることだけだ。」
「何を?」
「それも知らない。」
「じゃあ、どうして運んでいるんですか」
男は一瞬だけ黙った。
「仕事だからだ。」
その答えは、あまりにも普通だった。
透は逆に何も言えなくなった。
誰かが特別な目的を持っているわけではない。
誰かが世界を裏で操っているわけでもない。
ただ、仕事だから荷物を運ぶ。
指示された場所へ行き、指示されたものを受け取り、次の人間へ渡す。
その途中で、誰かが何かを隠している。
あるいは、最初から何も知らされていない。
「この箱……」
女が箱を指差した。
「医療用品って書いてある。」
「そうだ。」
「でも、中身を確認した?」
男は首を横に振った。
「していない。」
女は箱を見つめた。
「じゃあ、あなたは中に何が入っているか知らないまま運んでいるの?」
「そうだ。」
「怖くないの?」
男は少し考えた。
「怖いよ。」
それから、淡々と続けた。
「でも、毎日働いている人間が、毎日全部を疑っていたら、何も運べない。」
透はその言葉を聞いて、妙に納得してしまった。
それは、これまで何度も見てきた光景だった。
誰かが作った記録を信じる。
誰かが確認したと言ったことを信じる。
誰かが安全だと言った場所で働く。
誰かが大丈夫だと言ったものを食べる。
自分で全部を確かめることなど、最初から不可能なのだ。
だから、人は誰かを信じる。
問題は、その信頼がどこから始まり、どこまで続いているのかだった。
女が箱を開けた。
中には、小さな透明ケースがいくつも並んでいた。
白い包装。
番号。
簡単な説明。
見た目だけなら、確かに医療用品だった。
「普通ですね。」
透が言った。
「そう見える。」
女が一つを手に取った。
包装の裏側に、小さな文字があった。
製造元。
製造番号。
使用期限。
そして、その下に別のコード。
「これ……」
女がスマートフォンのような端末にコードを入力した。
画面に表示された。
登録情報なし。
「まただ。」
女が呟いた。
透は画面を覗き込んだ。
「登録されていない?」
「そう。」
「でも、製品には番号がある。」
「番号があることと、記録があることは別なのかもしれない。」
その言葉に、透は黙った。
南区第七居住棟。
存在しない建物。
存在している人間。
存在している荷物。
存在しない記録。
そして、海の向こうへ運ばれるもの。
ばらばらだったものが、少しずつ近づいている。
だが、まだ一本の線にはならない。
男が時計を見た。
「行く。」
「どこへ?」
「次の場所。」
「海の向こうですか?」
「違う。」
男は首を振った。
「俺は海まで行かない。」
「じゃあ、その先は?」
男は少しだけ笑った。
「そこから先は、別の人間の仕事だ。」
その言葉を残して、男は倉庫の奥へ歩いていった。
透と女は顔を見合わせた。
しばらくして、遠くでエンジン音がした。
一台の車が倉庫の裏側へ入ってくる。
男が箱を運び出している。
数人がそれを受け取っている。
誰も大声を出さない。
誰も慌てていない。
まるで、ごく普通の物流作業だった。
透はその光景を見ながら思った。
もし、ここにいる全員が嘘をついているのなら、もっと簡単だった。
誰か一人を見つければいい。
その人間の言葉を疑えばいい。
けれど。
もし、本当に誰も全体を知らなかったら。
一人目は「医療用品を運ぶ」と聞き。
二人目は「指定された倉庫へ届ける」と聞き。
三人目は「海外向けの物資だ」と聞き。
四人目は「必要な人間のための支援物資だ」と聞く。
そして、それぞれが自分の仕事をしているだけだったら。
その先で何が起きても、誰が嘘をついたのか分からない。
女が小さく言った。
「帰りましょう。」
透は頷いた。
倉庫を出る。
外は冷たい風が吹いていた。
空には雲が広がっている。
海がどこにあるのか、透にはまだ分からない。
けれど、初めて思った。
もしかすると、自分が知らないのは海の向こうだけではない。
自分が毎日見ているこの場所にも、まだ知らないものがある。
その夜。
透の端末に、一通のメッセージが届いた。
送り主は表示されていない。
短い文章だった。
『海の向こうへ行く必要はない。』
その下に、もう一行。
『海の向こうから、こちらへ来ている。』
透はしばらく画面を見つめた。
そして初めて、自分のいる場所そのものが、誰かにとっての「海の向こう」なのかもしれないと思った。




