第一百六章 引き継がれなかったもの
「引き継がれなかったもの。」
その言葉を、透はノートの一番下に残した。
引継ぎ記録を見る。
最初に表示されたのは、
「業務区分――C―12」
「引継ぎ目的――業務継続」
「旧業務――N―07」
「新業務――C―12」
だった。
女が言った。
「前に見た記録と同じ。」
「うん。」
「業務そのものは継続。」
「そう。」
「じゃあ、何が引き継がれなかったの?」
透は詳細を開いた。
「引継ぎ対象――業務手順」
「処理区分」
「参照条件」
「旧記録の保存場所」
「担当者情報――別管理」
「個人識別情報――対象外」
女は眉を寄せた。
「個人識別情報は、最初から引き継がない。」
「そう。」
「担当者の情報も別管理。」
「うん。」
「じゃあ、引き継いだのは仕事のやり方だけ。」
「少なくとも、この記録では。」
女は画面を見つめた。
「それなら、担当者が変わっても、仕事は続けられる。」
「そう。」
「でも、前の担当者が持っていた知識まで、全部引き継がれるわけじゃない。」
透は頷いた。
「記録に残っていない知識は、別の問題になる。」
「それって重要じゃない?」
「重要な場合はある。」
「でも、記録には残らない。」
「そういうこともある。」
女は少し黙った。
「だから、引継ぎされた仕事と、引継ぎされた知識は違う。」
「うん。」
透は一つ下の項目を開いた。
「引継ぎ対象外――旧担当者個別判断」
女が言った。
「個別判断。」
「うん。」
「つまり、前の担当者がどう判断したかは、引き継がれない?」
「少なくとも、この項目では対象外。」
「じゃあ、前の担当者が何を考えていたかは分からない。」
「そう。」
「何を知っていたかも?」
「記録がなければ分からない。」
女は画面を見た。
「でも、前の担当者の情報自体はJ―3にある。」
「うん。」
「名前も、所属も、権限も。」
「そう。」
「それでも、何を知っていたかは分からない。」
透は頷いた。
「人の属性と、人が持っていた情報は別だから。」
女は静かに言った。
「名前が残っていても、その人の頭の中までは残らない。」
「うん。」
その言葉の後、二人はしばらく黙った。
透は引継ぎ記録をさらに下へ送った。
「旧担当者の参照履歴――継続保存」
女が言った。
「参照履歴は残る。」
「そう。」
「でも、判断内容は残らない。」
「うん。」
「じゃあ、何を見たかは分かっても、何を考えたかは分からない。」
「そう。」
「これも同じ。」
透は画面を見た。
「記録された行動と、記録されていない判断。」
「別。」
「うん。」
女はノートに書いた。
「行動の記録≠判断の記録」
そして、その下に、
「参照した≠理解した」
と書いた。
透は頷いた。
「それもそう。」
女は少し考えた。
「じゃあ、昨日原入力を見た人も、そこに何が書いてあったか分かっていたとは限らない。」
「少なくとも、記録から理解度までは分からない。」
「見ただけかもしれない。」
「そう。」
「確認したかもしれない。」
「うん。」
「でも、確認した結果が残っていないなら……」
「その結果を他の記録から推測するしかなくなる。」
女はすぐに言った。
「推測しない。」
透は女を見た。
「うん。」
「今まで何度も、それで間違えそうになった。」
「そう。」
「一致しているからつなげる。」
「うん。」
「時間が近いから同じだと思う。」
「そう。」
「同じ名前だから同じ人だと思う。」
「うん。」
女は首を振った。
「もうやらない。」
透は答えなかった。
ただ、ノートの横に小さく丸をつけた。
引継ぎ記録には、さらに項目があった。
「未引継ぎ情報――旧担当者個別判断」
「未引継ぎ理由――業務記録対象外」
「保存先――設定なし」
女が画面を見た。
「設定なし。」
「うん。」
「じゃあ、どこにも残っていない?」
透は少し考えた。
「この記録では、保存先が設定されていない。」
「それと、存在しないことは同じじゃない。」
「そう。」
「別の場所にある可能性もある。」
「うん。」
「ただ、この仕組みからは追えない。」
「そう。」
女は少し考えた。
「兄が何かを知っていたとしても。」
「うん。」
「それが記録に残っているとは限らない。」
「そう。」
「逆に、兄が知らなかったことでも、別の記録には残っているかもしれない。」
「そう。」
女は小さく笑った。
「結局、人が知っていることと、記録に残っていることは別なんだ。」
透は頷いた。
「うん。」
そのとき、画面の端に別の項目があった。
「引継ぎ確認者――登録あり」
女が言った。
「これは誰?」
透は開いた。
「所属――C―12」
「権限――M―2」
「確認日時――原入力参照の翌日」
女が目を上げた。
「昨日見た人とは別?」
透は比較した。
「参照者区分は非表示。」
「こっちも?」
「うん。」
「じゃあ、同じ人かもしれない。」
「そう。」
「別の人かもしれない。」
「そう。」
女は画面を見つめた。
「でも、引継ぎ確認者には、一つ違う項目がある。」
「何?」
「確認対象。」
透は開いた。
「旧担当者情報。」
「旧担当者情報?」
「うん。」
「原入力じゃない。」
「そう。」
女は少し考えた。
「じゃあ、原入力を見た人と、翌日に旧担当者情報を確認した人が同じだった可能性もある。」
「ある。」
「別だった可能性もある。」
「ある。」
「でも、同じ業務の引継ぎに関係している。」
「そう。」
女は画面を見た。
「じゃあ、兄が南区に入った翌日から、その業務の周辺で複数の確認が続いている。」
透は慎重に言った。
「記録上は、そう。」
「でも、それが兄のためだったとは言えない。」
「うん。」
「別の引継ぎかもしれない。」
「そう。」
「たまたま時期が重なった可能性もある。」
「うん。」
女はしばらく黙った。
「じゃあ、これを兄と結びつけるには、もう一つ必要。」
「何?」
「引継ぎ対象の中に、兄に関係する情報があったかどうか。」
透は頷いた。
「そう。」
「でも、個人識別情報は対象外。」
「うん。」
「原入力は別。」
「そう。」
「じゃあ、残っているのは……」
透は画面を見た。
「旧名称。」
女が言った。
「名前。」
「うん。」
「また名前。」
透は少し笑った。
「でも、今度は名前そのものを見るんじゃない。」
「何を見るの?」
「引継ぎ後、その名前が何として使われたか。」
女は画面を見た。
引継ぎ前。
「個人名称」
引継ぎ後。
「業務名称」
さらにその後。
「参照名称」
同じ文字列。
違う区分。
女が言った。
「人から仕事に変わった。」
「記録上は、そう。」
「でも、その変更が兄の件と関係しているかは分からない。」
「うん。」
「じゃあ、ここでも決められない。」
「そう。」
透は引継ぎ後の名称使用履歴を開いた。
その中に、一件だけ見慣れない処理があった。
「旧名称再登録」
女が言った。
「再登録?」
「うん。」
「業務名称になった後に?」
「そう。」
透は日時を確認した。
業務再編から数日後。
兄が南区に入った日からは、四日後だった。
女は画面を見つめた。
「四日後。」
透は答えなかった。
「何のために再登録したの?」
詳細を開く。
「目的――旧記録参照互換性維持」
「使用区分――業務名称」
「個人情報照合――なし」
「担当者情報――別管理」
女が言った。
「また同じ。」
「うん。」
「名前を残すための処理。」
「そう。」
「人を残すためじゃない。」
「そう。」
女は少し考えた。
「じゃあ、この名前が今も残っているのは、兄がそこにいるからじゃない。」
透は答えた。
「少なくとも、この記録からは、そうは言えない。」
「仕事の都合で残っている。」
「可能性が高い。」
女は頷いた。
そのとき、画面の一番下に、
「再登録前参照――一件」
と表示された。
透の手が止まった。
女が言った。
「再登録する前に、誰かが見ている。」
「うん。」
「何を?」
透は詳細を開いた。
「旧名称使用履歴。」
女は黙った。
「個人情報は?」
「参照なし。」
「担当者情報は?」
「参照なし。」
「旧記録は?」
「参照あり。」
女は画面を見た。
「誰かが、旧記録だけを見た。」
「そう。」
「そして、その後に名前を業務名称として再登録した。」
「記録上は、その順番。」
女は静かに言った。
「じゃあ、次はその旧記録。」
透は頷いた。
「うん。」
「何が残っていたのか。」
「それを見る。」
透は旧記録参照履歴を開いた。
一件の記録が表示された。
その欄には、
「参照対象――旧個人照会履歴」
とある。
そして、その横に、
「参照結果――名称使用区分の変更根拠」
と書かれていた。
女は画面を見つめた。
「変更根拠。」
「うん。」
「じゃあ、名前を業務名称に変えた理由は、まだ別の記録にある。」
「そう。」
「その記録を見れば、何か分かるかもしれない。」
透は次の項目を開いた。
しかし、そこには一つだけ表示されていた。
「変更根拠――別管理」
女が言った。
「また別管理。」
透は頷いた。
「うん。」
二人は画面を見た。
名前は残っていた。
人は別管理。
仕事も別管理。
変更理由も別管理。
そして、旧記録も別管理。
何かを隠しているように見える。
しかし、それぞれの分離には、それぞれの業務上の理由がある。
だから、今の段階では、
誰かが隠したとも、
誰も知らなかったとも、
どちらにも決められない。
透は画面を保存した。
そしてノートに書いた。
「引き継がれなかったものは、必ずしも失われたものではない。」
女が言った。
「じゃあ、残っている場所を探す。」
透は頷いた。
「うん。」
今度探すのは、
人でも。
名前でも。
入力でもない。
「変更根拠」が、
どこに残っているのか。
だった。




