第十章 記録されない人
居住区へ戻ったのは、午前一時を少し過ぎた頃だった。
入口の認証ゲートを通る。
いつもと同じように、端末をかざす。
緑色のランプが点灯した。
何も問題はない。
透はそのまま中へ入った。
だが、数歩進んだところで足を止めた。
入口横の管理端末に、自分の名前が表示されている。
朝倉透――正常帰還。
時刻まで記録されていた。
透は画面を見つめた。
南区へ行ったことは、記録されていない。
少なくとも、この画面には。
少し安心した。
同時に、別の疑問が浮かんだ。
誰が記録を消した?
それとも、最初から記録されていなかったのか。
透は端末を閉じた。
そのまま部屋へ戻る。
ベッドに座った。
眠ろうとした。
しかし、眠れない。
目を閉じるたび、南区の光景が浮かんだ。
閉鎖されたはずの建物。
そこにいた女。
消された記録。
そして白石の言葉。
――私が隠していることと、私が嘘をついていることは、同じじゃない。
透は天井を見た。
「……じゃあ、何が違うんだ」
答えはない。
そのまま朝になった。
翌朝。
食堂はいつも通りだった。
人々が並び、食事を受け取っている。
昨日と同じ顔。
昨日と同じ会話。
透は自分の席に座った。
向かい側では、二人の男が話していた。
「昨日、南区の搬入があったらしい」
透の手が止まる。
「南区?」
「ああ。夜間便だって」
「そんな場所、もう使ってないだろ」
「俺もそう聞いてた。でも、搬入記録はあるらしい」
もう一人の男が笑った。
「記録なんて、いくらでも間違うだろ」
「まあな」
それで話は終わった。
透は二人を見た。
誰も嘘をついているようには見えなかった。
むしろ、本当に知らないのだろう。
そのとき、背後から声がした。
「朝倉さん」
振り返る。
昨日の女だった。
透は驚いた。
「どうしてここに?」
「あなたと話したい」
女は向かいに座った。
名前を聞こうとした。
しかし、女は先に言った。
「私の名前、昨日は言わなかったよね」
「はい」
「言わないほうがいいと思ったから」
「……どうして?」
女は周囲を見た。
「名前が記録されるから」
透は黙った。
「昨日、あなたが見た記録。あれは全部が正しいわけじゃない」
「どういうことですか?」
「名前がある人間だけが、存在しているわけじゃない」
女は静かに言った。
「逆もある」
「逆?」
「存在していないことになっている人間の中に、本当に存在している人もいる」
透は意味を理解できなかった。
女は続けた。
「私の兄も、その一人」
「じゃあ、どうして記録から消されたんですか?」
「分からない」
また、その言葉だった。
分からない。
誰も分からない。
透は少し苛立った。
「じゃあ、誰なら分かるんですか?」
女は答えなかった。
代わりに、小さな紙をテーブルの上に置いた。
そこには住所が書かれていた。
居住区の外。
北側の旧物流地区。
「今日の夜、ここへ来て」
「何があるんですか?」
「兄が最後に連絡してきた場所」
透は紙を見た。
「危険じゃないんですか?」
「危険だと思う」
女は正直に答えた。
「でも、行かなければ何も分からない」
その言葉を聞いて、透は少しだけ笑った。
「……昨日も、同じことを言われました」
「誰に?」
「白石さんに」
女の表情が変わった。
「白石恒一?」
「はい」
数秒間、女は何も言わなかった。
「どうしたんですか?」
「……その人は、あなたに何と言った?」
「自分で確かめろ、と」
女は視線を落とした。
「そう」
それだけだった。
透は聞いた。
「白石さんを知ってるんですか?」
「知らない」
女は立ち上がった。
「でも、名前は知ってる」
そう言って、女は食堂を出ていった。
透は一人残った。
テーブルの上には、紙が一枚。
北側の旧物流地区。
そして、その下に小さな文字があった。
「そこでは、記録より人を信じてはいけない。」
透はその一文を何度も読んだ。
記録を信じるな。
人も信じるな。
では、何を信じればいい。
透は紙を折り、ポケットへ入れた。
その瞬間。
食堂の壁にある大型モニターが切り替わった。
緊急放送だった。
『居住区の皆様へお知らせします』
人々が一斉に画面を見る。
『昨夜、南区周辺において不審な通信が確認されました』
透の心臓が跳ねた。
『当該通信について、現在調査を行っています』
画面に一枚の写真が表示された。
南区第七居住棟。
昨日、透が見た建物だった。
その下に文字が出る。
「当該施設は、現在も閉鎖されています。」
透は画面を見つめた。
昨日、自分は中に入った。
人がいた。
電気もついていた。
それなのに。
全員の前では、
「閉鎖されている」
ことになっている。
そして誰も騒がない。
誰も疑問に思わない。
誰も知らない。
透は初めて理解した。
嘘は、誰か一人が言う言葉だけではない。
みんなが同じ画面を見て、それを現実として受け入れた瞬間にも、嘘は存在できる。




