無地のカーテン
「それも最後に外してもらえますか」
原田和夫が指したのは、居間の窓いっぱいに掛かった花柄のカーテンだった。
白地に、赤と青の大きな花がいくつも並んでいる。榊冬一が家へ入った時から目についていた。
「処分でよろしいですか」
「はい」
和夫は即答した。
窓際の床には、細長い透明袋が置いてある。中には新しいカーテンが畳まれていた。
冬一が見ると、今度は無地だった。
「新しいの、もう買われたんですね」
「昨日」
和夫の娘、彩香が袋を覗き込む。
「本当にこれにしたんだ」
「自分で選んだ」
「知ってる。写真送ってきたじゃん」
原田和夫、六十四歳。
妻の美恵が亡くなったあとも、この家で一人で暮らす。
今日は美恵の衣類と化粧台、使わなくなった収納家具を中心に整理する依頼だった。家そのものを空にするわけではない。
冬一はカーテンを見た。
「こちらは最後で大丈夫ですか」
「お願いします。家具出してからの方がやりやすいでしょう」
「そうですね」
作業を始めた。
寝室の箪笥から美恵の服を出す。
和夫と彩香は、残す物をすでにある程度決めていた。
礼服。
普段着。
冬物。
薄手の上着。
彩香は数着だけ手元へ置く。
「これ、私着られるかな」
紺色のカーディガンを身体へ当てる。
和夫が見る。
「小さいだろ」
「お母さんと私、そんな変わんないよ」
「お前の方がでかい」
「言い方」
彩香が父を見る。
「背が、だよ」
「先に言って」
冬一は少し笑い、次の引き出しを開けた。
衣類の間から小さな布袋がいくつも出てくる。
中身はクッションカバーだった。
さらに下にもある。
柄違い。
色違い。
季節物。
佐伯が数えかける。
「結構ありますね」
和夫が横から言った。
「まだ出ますよ」
「まだ?」
「押し入れにもある」
彩香が父を見る。
「こんなにあったの?」
「だから言ったんだよ」
押し入れの上段から、大きな収納ケースを下ろす。
中身の半分ほどが、またクッションカバーだった。
彩香が一枚ずつめくる。
「これ家で見たことある」
「去年の秋」
「これは?」
「その前の春」
「何で覚えてるの」
「替えるたびに手伝わされたから」
美恵は柄物が好きだった。
カーテンだけではない。
クッションカバー。
玄関マット。
台所の布巾。
季節が変わると、何かしら替える。
和夫には、その必要性があまり分からなかった。
春のある日、美恵が新しいクッションカバーを出した。
『また替えるのか』
『春だから』
『今のも春っぽいだろ』
『冬のだから』
和夫は二つ並べて見た。
『同じじゃないか』
『全然違う』
『花なのは同じだろ』
『花なら全部同じに見えるの?』
『だいたい』
美恵はしばらく夫の顔を見て、
『あなたに聞いた私が悪かった』
と言った。
『聞かれてないぞ』
『今聞いた』
『もう答えた』
『答えになってない』
結局、その日もカバーは替わった。
古い方は捨てない。
洗って畳み、押し入れへ入れる。
「一個買ったら一個捨てればいいのに」
彩香が言う。
「それ俺が三十年言ってた」
「聞かなかった?」
「見れば分かるだろ」
父娘の前には、クッションカバーが二十枚近く積まれている。
彩香が笑った。
「聞いてないね」
「聞かないんだよ」
和夫も笑った。
彩香は、その中から三枚だけ残した。
一枚は自分の家で使うらしい。
残りは処分。
和夫は一枚も選ばなかった。
次に化粧台を整理した。
化粧品は開封済みの物が多く、ほとんど処分になる。
引き出しの奥から髪留め。
小さな鏡。
古いレシート。
現金の入った封筒が一つ。
冬一は封筒を和夫へ渡す。
「現金です」
「はい」
中身を確認し、和夫は財布へ入れた。
何かの意味を探すことはない。
化粧台の椅子を搬出する時、彩香が座面を見た。
「これ、お母さんここで髪やってたよね」
「ああ」
「朝長かったなあ」
「長かった」
美恵は出かける準備に時間がかかる。
本人は毎回、
『あと五分』
と言う。
和夫は玄関で待つ。
五分経つ。
出てこない。
『あと何分』
『五分』
『さっきも五分だった』
『今からの五分』
『最初の五分はどこ行った』
『使った』
『じゃあ次の五分じゃないか』
『細かい』
その横で彩香まで靴を履かずに待っている。
子供の頃の彩香が、
『お母さんまだ?』
と聞く。
和夫が、
『あと五分らしい』
と答える。
美恵が奥から、
『聞こえてるよ』
と怒る。
「遅刻したことあった?」
彩香が聞く。
「何回も」
「お母さん、自分は遅刻しないって言ってたよ」
「俺が車飛ばしてたからだ」
「それはお父さんも駄目じゃん」
「今ならな」
化粧台は処分になった。
居間には、逆に美恵が嫌っていた物も残っていた。
窓際の黒い一人掛け椅子だった。
背もたれが大きく、和夫がテレビを見る時に使っている。
彩香が指す。
「これ残すの?」
「使うからな」
「お母さん、これ嫌いだったよね」
「知ってる」
買った時から言われていた。
『大きすぎる』
『座ると楽だぞ』
『部屋に合わない』
『俺は気に入ってる』
『もっと小さいのあったでしょ』
『小さいのは足が出る』
『あなたの足が長いみたいに言わないで』
『身長の問題じゃない』
『じゃあ何の問題』
『座れば分かる』
美恵は一度座った。
しばらく黙ってから、
『……大きい』
と言った。
『座り心地は』
『大きい』
それでも捨てろとは言わなかった。
その椅子は今も居間にある。
「お互い嫌いな物置いてたんだね」
彩香が言う。
「家だからな」
和夫はそれだけ答えた。
午前中に寝室の大きな家具を出し終える。
居間へ移る。
テレビ台の引き出しを確認すると、乾電池、取扱説明書、輪ゴム、それからリモコンが二つ出てきた。
佐伯が一本持ち上げる。
「同じテレビのですか?」
和夫が見る。
「片方は前のテレビ」
「残ってたんですね」
「美恵、リモコン捨てないんですよ」
「使えないのに?」
「使えなくても」
彩香がソファを見る。
「お母さん、よくリモコンなくしてたよね」
「毎週」
美恵はテレビを見終えると、リモコンをソファへ置く。
次に使おうとすると、ない。
『リモコンどこ』
『知らない』
『あなた使ったでしょ』
『俺はここに置いた』
『私も置いた』
『じゃあそこにあるだろ』
『ないから聞いてるの』
二人で探す。
テーブルの下。
新聞の下。
テレビ台。
最後に和夫が美恵の座っていたクッションを持ち上げる。
下から出る。
『犯人そこじゃないか』
『置いたのはリモコンであって、私じゃない』
『お前が座ってたんだろ』
『たまたま』
『毎週たまたまか』
次の週も同じことをする。
「お父さん、よく怒らなかったね」
「怒ってたよ」
「そうだっけ」
「お前がいない時に」
「そこは配慮したんだ」
「違う。お前がいる時は一緒に探させてた」
彩香が吹き出した。
古いリモコンは処分。
今のテレビの物だけ残す。
昼休憩になった。
和夫は自分で簡単な昼食を用意していた。
おにぎりと卵焼き。
彩香はコンビニのサンドイッチ。
冬一と佐伯は外で食べ、戻ってくる。
居間の窓にはまだ花柄のカーテンが掛かっている。
彩香が新しいカーテンの袋を開けていた。
「思ってたより地味」
「無地なんだから地味だろ」
「もうちょっと色あってもよかったんじゃない?」
「ある。灰色」
「それ色って言う?」
「灰色は色だろ」
「お母さんなら絶対選ばないね」
和夫はおにぎりを食べながら、
「だから俺が選んだんだよ」
と答えた。
カーテンを買う時は、いつも似たやり取りをしていた。
家具店へ行く。
美恵が何種類か見比べる。
和夫は待つ。
長い。
『これどう?』
見せられたのは、大きな葉の柄。
『派手だな』
『じゃあこっち』
細かな花柄。
『それも柄あるじゃないか』
『カーテンなんだからあるでしょ』
和夫が近くの無地を指す。
『これでいいだろ』
『病院みたい』
別の無地を指す。
『じゃあこれ』
『会社みたい』
『家のカーテンに何を求めてるんだ』
『家らしさ』
『無地の家もある』
『うちは嫌』
何種類か見た末、美恵が花柄を選ぶ。
帰宅して掛ける。
『いいでしょ』
『俺に聞く必要ある?』
『一緒に選んだでしょ』
『選んでない』
『店に一緒にいた』
『それを一緒に選んだとは言わない』
美恵は満足そうにカーテンを眺める。
一度、和夫が買い物について行かなかったことがある。
『どうせお前が決めるんだから、一人で行けばいいだろ』
『一人だと決まらないの』
『俺が選んだのは買わないじゃないか』
『でも、あなたが嫌なのは分かるでしょ』
『俺は柄がある時点でだいたい嫌だぞ』
『そういう極端なのは参考にならない』
『じゃあ何で呼ぶんだ』
美恵は少し考えた。
『持って帰るの手伝って』
『それ最初に言えよ』
結局、一緒に店へ行った。
その日も和夫が選んだ無地は却下され、美恵が選んだ柄物を二人で持って帰った。
和夫は最後まで、花柄がいいと思ったことはなかった。
午後。
台所の収納も一部整理する。
美恵が使っていた食器のうち、和夫が使わない物だけ処分。
大皿。
小さなガラス鉢。
花柄のマグカップ。
彩香がマグカップを持つ。
「これもいらない?」
「使わない」
「お母さん毎朝これだったよ」
「知ってる」
「じゃあ私もらう」
「どうぞ」
和夫は止めない。
彩香も、父に持っていてほしいとは言わない。
食器棚には、和夫が使う無地の白いマグカップが残った。
「お父さん、本当に柄物嫌いなんだね」
「嫌いというか、いらない」
「同じじゃない?」
「少し違う」
「何が?」
和夫は白いマグカップを棚へ戻した。
「説明するほどでもない」
彩香は、
「ふうん」
とだけ言った。
夕方近く、処分品の搬出がほぼ終わった。
美恵の服。
化粧台。
収納家具。
大量のクッションカバー。
使わない食器。
居間は広くなったが、生活に必要な物は残っている。
ソファ。
テレビ。
食卓。
和夫の椅子。
美恵が使っていた物も、すべて消えたわけではない。
写真立てが一つ。
台所の鍋。
玄関の靴べら。
二人で買った棚。
和夫が今後も使う物は、そのままだった。
最後にカーテンを外す。
冬一が脚立を用意する。
「こちらで外します」
和夫が、
「付けるところまで頼めますか」
と聞く。
「簡単な取り付けなら大丈夫です」
彩香が新しいカーテンを持ってくる。
「私やるよ」
「じゃあ外す方だけお願いします」
冬一と佐伯で古いカーテンを外した。
フックを一つずつレールから抜く。
大きな花柄が床へ降りる。
窓がむき出しになった。
西日の入る居間が急に明るくなる。
古いカーテンを畳もうとすると、和夫が言う。
「適当でいいですよ。処分なんで」
冬一は運びやすい程度にまとめた。
和夫はそれを手に取らない。
彩香が新しいカーテンへフックを付ける。
「これどっちが外?」
「知らん」
「買った本人でしょ」
「説明書見ろ」
「お母さんならすぐ分かりそう」
「こういうのだけはな」
彩香が袋の説明を見る。
「こっちだ」
和夫も手伝う。
二人で端からレールへ掛けていく。
和夫の方が一つ飛ばす。
「そこ抜けてる」
「どこ」
「そこ」
「分からん」
「貸して」
彩香が付け直す。
全部掛け終わる。
二人でカーテンを閉じた。
花のない、灰色の布が窓を覆った。
彩香が少し離れる。
「地味」
「いいんだよ」
「お母さん、これ絶対嫌いだね」
和夫もカーテンを見る。
「知ってる」
彩香が笑った。
冬一は古い花柄のカーテンを処分品へ運んだ。
窓には、無地の灰色のカーテンが掛かっていた。




