2.嵐吹き荒ぶ窓辺の寝台
2.風吹き荒ぶ窓辺の寝台。
寝ても覚めても。
九月。
…ガエシュティー公国の北部に位置する…
この屋敷には他の地域よりも一足早く、肌寒い北風が吹いていた…。
…九月。
その北風は…最初こそ 秋風のような穏やかさだったが、 冬が近づくに連れて まるで悪魔のように力を強めて行き…やがて、風切り声を響かせながら、屋敷の頑丈な古い窓を不気味に軋ませる。
堅牢な窓から見える景色からは、少しずつ緑が消え失せて、寒さに備えている。
伸び過ぎたオークの枝が風に揺られて不気味に窓を擦る音がする。
現代日本で意図せずとも貧しい暮らしをしていたこの私だが、この絢爛豪華な西洋屋敷でミハイ・ドゥミトラチェと言う男として変貌してから、幾日かが過ぎた。
例え幾日が経とうが…私は未だにミハイとして、ここにただ存在している。
しかし…、人というものは不思議なもので、
十日あまり、食事と就寝を繰り返しているうちに
自然と身体はこの屋敷に慣れていた。
そろそろ上品なノックが二回鳴り、メイドのピシカが来てくれる時間だろう。
この屋敷にはメイドと執事が数名と、医師と庭師が一人。
後は私の意に沿わない、弟領主の息が掛った私兵と、役職のない見習いが数人程度だ。
…その程度しかこの屋敷には存在しないのだ…。
そう…私の世界は……この箱庭のような狭き屋敷の中だけだと言うのに…。
なまじ 現代日本の人の温かさを知っているが故により一層孤独が堪える…。
「旦那様…?まだお目覚めになられていないのですか?…ミハイ様?」
…ゆっくりとした声…、豊かな空白の静けさのある喋り方…。
私はいつの間にやら、思考の渦に呑まれていたのか、ピシカが扉を叩く音にさえ 気が付かなかったようだ…。
「ぁ…あぁ…、起きている。入ってくれ。」
ピシカは少し不安げなようにも見えるが、いつもの緊張感を伴った女中らしい表情で、扉を開けた。
「失礼致します。整髪と衣服の程を。」
ピシカは何時も通りに 変わらず、クッションの付いた丸椅子と、年季の入ったツゲの櫛を持って来た。
「……毎度のことだが、未だに人に髪を触られるのは慣れないものだ。」
「それは……可笑しなことですね。
伯爵家の嫡子であられる 旦那様には 髪を梳かれる事など、幼年の時より慣れていられる筈では?」
「まぁ……それもそうか。」
他愛もない会話の応酬の後、少しの静寂と居心地の悪い風がこの部屋を通る…。
「旦那様…今朝の気分としては、如何なものでしょうか。」
ピシカは実に落ち着き払った様子で、その櫛を梳かす動作こそ正確であったが…。
これは私の勝手な空想かもしれないが…、
どうにも そのピシカの紡ぐ言葉には 普段の様子とは違った…後を引く何かしらの悩みがあるように感じた。
私は……なにか、気の利いた返事でも出来たらと。そう思いはしたが…、とても、そんな気の利く台詞を吐き出せる気がしなかった…。
「気分としては 悪くない。」
…私はそう…突き放すような声色で…そう伝えると、
再び私たちの間に気まずい沈黙が流れる…。
この耳に聴こえてくるのは髪を梳く音と、他愛もない雑音。…後は何も聴こえてこない。
この目を通して見える光景も、たいして変わらない。ただ…立派なだけの服を着た白人の男が、鏡を通して見えるだけだ…。
「……本日のご予定としては。
午後よりレシオ医師の治療の一環として、庭園を外出をしてもらうよう申し付けられております。」
「そうか。…わかった。」
私は、目前にある、棘だらけの古びた木の机に、立て掛けられたその鏡に映る自分を見る。
鏡とは言っても、現代人が思い浮かぶような鮮明なガラス鏡ではなく…ただ銅の板を磨いて反射させただけの代物であり…。
当然、そこに映る私という物も鮮明ではなく…
酷く…屈折して…歪み……、ぼやけて見えたのだ。
ふと、突発的に吹いた強風がこの屋敷の窓を打ち付ける音で、ついつい自分が思考に囚われている事に気が付いた。
ピシカは私の整髪を終わらせ、部屋の隅の花瓶に水を足してやったり、軽く戸棚の上の埃を叩いていた様子だったが…。
何か伝えたいのか、私の毛皮のコートを腕にかけ
その黄金色に眩く光る…あの瞳で、私を…
あの瞳がこちらを見ている…。
「…今年の冬も大変寒くなるようですね。
…えぇ、 ですので…。旦那様におきましては…、どうかそのお身体を冷やされないよう、そう願いたいのです。」
ピシカはそう一方的に言い放つと、どんな動物から作られたのか、やたらと分厚く黒い毛皮が使われた冬用のコートを、私に仰々しく、素っ気なく渡したのだ。
その重厚な毛皮の重いコートに二つの手を通して、それを羽織ると…暖かく。
生前の古き鼓動の残響まで、聴こえてくるようだった。
…その大きな獣の…毛皮を羽織っていると…
まるで、どこかに獣の息吹が残っているようで…
…自分自身を失うような圧迫感と重みがあった。
どうやら私は、たった一枚のこのコートを羽織る度にこんな事を考える必要があるようだ。
この屋敷は大きな監獄で、与えられる豪華な食事は私を狂わせる為の処遇か、、
無意識は知らず知らずのうちに監獄へと追い込まれていた。
「…どうせこんな寒空の中で外出しなければならないのなら、ドリャン山脈の隼か、鷹の一匹でも欲しい物だ…。」
私は少し雰囲気を変えてみようと、ピシカに明るく話しかけてみた…。
「…鷹でも居たなら、この窮屈した屋敷での暮らしも少しはマシにはなるだろうし。
……何より誰かと一緒に鷹狩りにでも出かけられたら、寒空の下も楽しい物だろう…。」
そう言う言葉を告げても、ピシカは決して、 業務的な無表情を崩すような事は無かったが…。
眉が少し動き、片手で腕をさすり、尻尾は風も吹いていないのに揺れている。
「えぇ…、しかし…例え鷹が居なくても外出は心の慰めになりますよ。」
「…まぁ、そうだ…。
私も随分外に出ていない事であるし、
…庭園を歩くのには少し風は寒いが…。
道中…庭師にでも会ったら、窓辺近くのオークの枝でも切って貰いたい所だ。
午後は庭園での用事も済ませよう……。」
外の風景は変わらず。
まるで 嵐の夜のように吹きつけるこの風は、
収まる仕草も見せずに、吹き荒ぶ…。
補強された重苦しい大きな窓は閉まっているが、擦れて、軋んで、人を神経質にさせるような不快な音を響かせている…。
私は午後になるまで休ませてくれと、ピシカにそう告げて、ベッドの上に横になってみた。
一度…瞳を閉じると、浮かんでくるのは、ボロアパートの四畳半…。
今起きたらどちらの世界で目が覚めるんだろうか。鎌仲とミハイ、どちらが実在か。
これは悪い夢を見ているのか。
目を瞑るが、
眠れぬ日々を繰り返す。




