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1.四畳半からの

1.四畳半からの


俺の名前は鎌仲良一、しがない老いぼれのサラリーマンだ…。


月に一度の雀の涙の安月給は両親の介護費に消えてゆき、最後に手元に残るのは薄っぺらい安財布…。心を許せる友も無く、仕事の情熱も無い。

所帯もなければ、満足いく程の金もない。

四畳半のボロアパートで一人寝転びながら、 煙草と酒で日々を誤魔化す、そんな日々…。



(いっそ異世界にでも行けたらなぁ)


そんなことを思いながらも薄い敷布団に寝転がって、瞳を閉じる。

















そして目が覚めると…、俺は…知らない天井を見つめていた…。

ふかふかな布団の上で。



…これは明らかに可笑しい…冗談じゃない…。

俺の四畳半のボロアパートは何処に行ったんだ?


どれだけ目を擦ってみても、見える物はまるでヨーロッパの貴族みたいな様式の、高価そうな調度品や家具であしらわれた、

豪華な寝室だった…。


俺は軽くパニックになりつつ、平穏を取り戻そうと、煙草を入れたポケットを探すが――ない。


そもそもズボンが形からして元のと違う…、

俺が着ていたのは学生時代のジャージだった筈だ…。

これは…なんだ?ズボンと言えるのか?

細かい刺繍の入った、レースみたいなやたらとヒラヒラした白いズボン。

上は上で、金の縁取りのあるシャツに、フリルなんかついてやがる。


「なんだこれ……どうなってんだ…。」


パニック寸前の俺の耳に――

ガチャッ、とドアが勢いよく開く音が聞こえた。


振り返ると、そこには一人の少女がメイド服を身に纏い、背筋を正して立っていた。

が、その姿には見過ごせない異物があった。


「お早うございます、旦那様。」

業務的に微笑むその少女の頭には、大きな猫の耳。

スカートの後ろからは、しなやかな尻尾がゆらりと揺れていた。

彼女は、まるでそれが日常であるかのように、手慣れた動きでカーテンを開け、俺の身だしなみを整える道具や椅子を手早く並べていく。


…俺にはもう、夢なのか現実なのか考える気力も残っちゃいなかった。


「…?旦那様…?こちらにお掛けになってください。」

俺はもはや何も言わずに、この若い猫耳メイドの言うことに任せることにした…。


クッションの付いた柔らかい丸椅子に腰をかけると、猫耳メイドが大きな姿見の鏡を片手で押しながら、

ヘアブラシと着替えを持って目前までやってきた…。


そこで初めて俺は鏡に映った自分の姿を見ることになったが……可笑しな事に、そこに映った姿は俺の姿ではなかった…。

鏡に映ったのは、大体30代後半から40代程と見られる、少し跳ねた長めの茶髪と痩せコケた頬と身体が特徴的な…なんというか…幸の薄そうな白人男性だった…。


「旦那様……ご気分が優れないのですか…? 」


俺が鏡の前で呆然としていると、猫耳のメイドは怪訝そうに心配の声をかけてくれた。


「ァ…あぁ……大丈夫だ。」


初めて発したその言葉はやはり、俺のものではなかった。

…他人の…低くて乾いていて、どこか、人の心を諦めたような失望感がある声質だった。


その事実に、言い表せない程の不信感が身体を伝った…。


今…自分はどうなっているのか、ここは何処なのか、

私は何者なんだろうか…。

俺は本当に私だろうか?

この肉体は誰の物で、俺は一体どうすればいいのだろうか。



強烈な頭痛や誰かの声が鳴り止まない…。

思考が纏まらない。



「ぁ…あの。メイドさん、ちなみに…私の名前ってわかりますか?」


いつの間にやら俺の整髪を終えて、

寝室の花瓶に水をやっていた、うら若き猫耳メイドはまるで信じられない事を聞いたかの様に硬直して、此方を見ていた…。


「…名前とは…?…旦那様のお名前のことでしょうか…?」


ーー怪訝そうな、疑るような視線が突き刺さる…。


俺には何の罪も咎もない筈だ。

けれど…

なぜだか、少し申し訳ない気持ちになり、

罪悪感が軽く胸を締め付けるような感覚を覚えた…。


「…私も酷く困惑しているのだか…どうも今までの記憶が全て覚束なくて、何も覚えていないみたいなんだ。」


現状は訳の分からない夢みたいな状態で、自分自身でも整理がついて無かったけど。

何か言わなければ何も始まらない気がして、気づけばそう口にしていた。


「…旦那様…それは…いつもの悪ふざけであるのですよね?…話し口調までお変えになられて…。

今回ばかりは騙されるところでしたよ。」


…どうやら…この身体の元々の持ち主は、どうにも悪質ないたずらを好んでいたようだ…。

猫耳メイドは何食わぬ顔で清掃作業を再開しようとしていた。


私としては彼女だけが、この未知なる世界への唯一の足がかりである訳で、ここを離れさせてはならないと思い、呼び止めた。


「まっ…待ってくれ!本当に俺は記憶喪失なんだ…嘘じゃない。…記憶が…誰かの記憶がまざって……頭がはち切れそうなんだ…!」

俺は強烈な頭痛に襲われ、必死で猫耳メイドの腕を握ってしまったが…彼女は落ち着き払った様子でこう言った。


「…わかりました。では、すぐにお付きの医者を呼んで参ります。」

猫耳メイドはそう言うと、まさに猫のように機敏に動き、扉を開け放って廊下を駆けて行った…。




そうして暫くの間この部屋に一人になった。

不思議と、一人きりになると気持ちの整理がつき始めてくるようで…。

今、自分がどの様な状況に置かれているのか、

それを一度真剣に整理してみることにした…。


まず俺は"鎌仲良一"と言う、しがないサラリーマンであったはずで…。

その日も、忙しい仕事も残業も終わらせて、

四畳半のアパートに戻ってぐっすり寝ていた筈だったんだ…。

しかし…その心地の良い睡眠から、いざ目を覚ましてみると…。


そこは…まるで中世の貴族かのような豪華に飾り立てられた、素敵な寝室で…。

そして、いつの間にやら俺は、

貴族らしき、別人の男の身体と成り代わっていたんだ……。

しかし不可解な事に、今。

俺の脳みその中には、身に覚えの無いまったくの他人の記憶が混在しているのだ。

それが陰と陽のように互いに混ざり合って、結果記憶の混濁が起こるのだろう。


この見知らぬ記憶によると。

どうやら今この肉体の本来の持ち主は、

名はミハイと言い、姓はドゥミトラチェと言うらしい。

生まれは、

通年霧が掛かる…雪と山に閉ざされた、ガエシュティー公国。その国に仕える伯爵家である、

ドゥミトラチェ家に産まれた一番目の男児であったのが、このミハイらしい…。


このミハイ・ドゥミトラチェとしての私が本当の私で、鎌仲良一として過ごした49年間は何かの悪い夢だったのか。

はたまたその逆か…。


少なくとも結論として言えることは、

今のこの身体の持ち主は貴族のミハイという男であり、そのミハイの記憶と鎌仲良一の記憶が、一部混ざっているという事だけだ。



そんな霧を掴むかのような考えを巡らせていると…

扉越しに廊下から、鎧を着ているのか甲冑が擦れるのか…

小煩い金属音と大きな足音…

そして無縁慮な話声が二人分聴こえてきた…。



私は…不躾ながら扉に耳を当て、会話に耳をそばたてて情報を得れる事を祈っていた…。



「…なぁ、聞いたか?さっきミハイさまの専属メイドの"ピシカ"のヤツが、あっちこっちに行ったり来たりして、医者を探してるって話。」



「…あぁ、まぁ…確かに…。珍しく急いでた様子だったな。」


「…なんでもよ…、巷じゃ"気狂い公"と名高い、我らがミハイ様がまたまた持病の不調を理由に、医者を呼びつけてなされるんだとよ。」



「…あんまり滅多な事を言うべきじゃないだろう…。…此処はそのミハイ様の寝室前だぞ…。

もし聴かれでもしてたら、どうするつもりなんだ…?。」




「ハッ、…聴こえようが、なかろうが構わねぇよ。どうせあの御方は夢も現実も区別もつかずに、今もベットの上で幻想の中だろうからな。

もしこの言葉が聞こえたって何の事かすら、わかりゃあしないだろうよ。…多分。」


そして足音は遠ざかって、荒っぽい会話の声も聴こえなくなって、扉から耳を離してみる。



少しでも情報が得られて嬉しい気持ちと共に、私はどこか…傷つけられた心と、静かな憤りを覚えた…。これはミハイの感情なのだろう。



結果、身の回りの人の反応からして、このミハイという人物はあまり良い人物では無かったように感じられた…。



「旦那様。只今レシオ医師をお呼び致しました。」

数回のノックと共に、もはや今の自分にとっては救いの声と言ってしまっても良いだろう。

名をピシカと言うらしい、メイドの声が聞こえた。


「ありがとう。入ってくれ。」


ドアが開かれると…メイドのピシカと共に、

40代程であろう…深い緑色のガウンを羽織った、おおらかそうな中年の男が立って居た…。


「ミハイさま、ご機嫌麗しゅうございます。

新しく貴方様のお付きの医師として参りました。アロンソ・デ・レシオと申します。

以後お見知りおきをどうも。」


「レシオ医師は、前任のアグエロ医師の代わりとして、昨日この館に到着したばかりです。

ですので、少々お連れ致しますのが遅れましたが、無事私が、お連れ致しました。」




「では、まぁ。そこの椅子にでも座って、話でもいたしましょうか…。

…ピシカさんも同席しますか?

なんせ、貴女が一番ミハイ様にとって身近な人ですからね。」


「…えぇ、ミハイ様の御許しを頂けるのなら、是非とも同席いたしたい所存で…。」

メイドのピシカは伏し目がちにそう呟き。

私に許可を取りつけるように…、その無垢な黄金色ともみえる瞳をこちらに向けてきた…。


「問題はないと思います、…むしろ、普段の私の状態の変化を一番に分かるのは…私ではなく彼女の方でしょうから。」


すると、レシオ医師の眼にも、ピシカの眼にも、驚きの表情がほんのわずかに見えた。


何故だろうか、特段変な事は言っていないだろうし、それほど違和感の薄い言葉を使った筈であったのに…。


「……まぁ…さて、単刀直入に聞かせてもらいますが。

ミハイ様には記憶の混乱が見られる…と言う事で、あっておりますか?」


「えぇ。今朝起きてからと言うもの…頭の痛みが 激しく…。

それ以来…自分の記憶というものが曖昧になり、私の認識が正しいと断言しづらくなっているんです…。」


「なるほど、そういった症状は…稀に聞きますよ。しかし、えぇ。人の記憶ってものは存外、曖昧な物ですからね。


まぁ、

急がずにお互いの考えでも交わしてみれば、己の考えも自然と纏まるってもんですから、少し変わった切り口の話でもしてみましょうか。」


…このレシオという恰幅の良いの男の 喋り方というものは、医者というにはやけに軽やかな、砕けた言葉を使うので、

私のような者には親しくなれそうに見えた。


「ところで、ミハイ様は…昨日の朝食というものは覚えておいでですか?」


「…昨日の…朝食の内容ですか…?」


「はい。いや、

これは一種の確認ですがね。

驚くことに、人間というものは 身分に関わらず、些細な記憶ほど、思い出せなくなるものでして。


それでも不思議なことに――道端の野の花とか、ふとした鼻歌でしたり、取るに足らない些細な事ほど、よく覚えているものなんですよ。」



私は自分の頬を片手で覆い、

記憶の混濁が起こった今朝の出来事から、思いつく限りの記憶を手繰り寄せようとするが…。


どうにも何かの食べ物を食した感覚は思い浮かばない。


「失礼ながら、旦那様…。今朝は朝食をお召しになられておりませんよ…。」


隣の椅子に背筋を綺麗に伸ばして座っていたピシカが、小さな声でそう告げたのを聞いて…初めて、自身の腹の減りに気がついた。


「ミハイ様はまだ朝食をお摂りになって無いのですか?。

それはどうも…、堪えるものがあるでしょう。


……ではどうでしょう?今回はご挨拶のみとして…まずはお食事を摂られるというのは?。

えぇ、えぇ…気掛かりでしたご容態も、安心できるような御様子と見受けさせて頂きましたから。」


…レシオ医師は…何処か含みのあるような、

どうにも気になる愛想笑いを見せると、椅子から立ち上がり、凝り固まった体を慣らそうとしていた。


恐らく…着任したばかりで、疲れているのだろう…。


「あぁ……えぇ、そうですね。

…本日はご挨拶が出来て良かったです、レシオ医師。」


「私こそ。…かの"ドゥミトラチェ伯爵家"の御長男の御方に医者として仕えれるとは…。思っても見なかった事ですよ。」



「えぇ、確かに。

私はあの伯爵家の長男でしたよ…。今はこうして弟に疎まれ、離れの屋敷に幽閉されて飼い殺しの状態されてますがね。」





不意にそんな言葉が意識の外から自然に溢れた。

レシオ医師は気まずそうな笑顔を浮かべるし、女中のピシカは如何にも悲痛そうな顔をしていた。


「いや、野暮なことを言いましたね。先の言葉は聞かなかったことにしてもらいたい。

…何処に誰が居るかも分かりませんからね。」







その何とも言えない空気感の後…レシオ医師は自室に引き下がり、ピシカは屋敷の雑務をこなし、私は食べ慣れぬ洋食で腹を満たす事となった…。






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