第四章 八月上旬~九月中旬 35
35
夏休み明け、初日の朝礼。ブルーの色が多いストライブのネクタイ、白の半そでシャツの木川課長から
「午前中には、夏休み気分をゼロにしてガンガンいきましょう」
激が飛んだが、春夫の心身は、まだお昼寝状態にあった。そんな自分を見越したわけでもないが、今日は、午前中に問屋を一軒、午後に店舗二軒とゆるやかなスケジュールになった。
それでも、引け目を感じないのは、佐和子や渡海の出勤が明日からというのもあったろう。
三田部長は、まだ来ていない。吉村係長は、朝礼の後すぐに商品企画部と打ち合わせで席にいない。瀬川は、過去の日報をくくりながら時折天井を眺めている。マイペースの松尾は、先刻から、パソコンの画面とにらめっこ状態である。新規開拓でも模索しているのだろうか。
鞄の中身のサンプルを確認する明美は、と言えば、頬をふっくらさせて山梨の実家から帰って来た。
「おいしい物、たくさん食べた?」
春夫が聞くと、
「食べたわよ。ガンガン」
明美は、先刻の木川課長の言葉の一部を引き取って言葉を返した。そうして、ホワイトボードに今日の行き先を書きに向かった。午前中にフェルシアーノのコーナーをゲットした「リリーショップ」と「ザザ」の二軒を入れている。フェルシアーノのコーナーが、ちゃんと機能しているかどうかの確認っていうわけか。午後も三軒、夏休み明け一日目からフル活動である。実家に帰って鋭気を養って来たのだろう。
「行って来ます」
明美が、快活な声を残して出かけて行った。
さて、と春夫は、出かける前にしようと考えていることへの心の準備をする。デザイン課の矢野主任に「川上達夫、まさえふたりの芸術展」のパンレットを渡すことだった。
やっぱり、矢野さんは、意識しちゃう。きちんと話せるだろうか。
鞄の中からパンフレットを出した途端に春夫の中で緊張が急激に高まっていった。
行動を起こしたのは、約束の時間に遅れるわけにいかない、と最初の訪問先とのアポを意識した時だった。
デザイン課は、斜めに十メートルばかり歩いた所に位置する。それぞれの机の上にパソコンがあるが、他にドラフターが二台と簡単な試作品などを作ったりする長机もある。スペース的には一番所有地が広い。
「すいません。ちょっと、いいですか」
コンピューターに向かっている矢野主任に語り掛けた。
画面には文房具入れらしい立体がデザインされている。曲線が多い設計であるのがひと目で分かった。
「はい」
矢野主任が、振り返り春夫を見た。少し、びっくりした表情である。それだけで、春夫は、自分の体が硬直していくのを感じる。
「仕事の件じゃなくて、休み中に友達に誘われてこれに行ったんですけど」
春夫は、「川上達夫、川上まさえ、ふたりの芸術展」のパンフレットを開いて、矢野主任の机の上に置いた。
「この川上まさえさんって、矢野さんの先輩で、偶然なのですが、うちの大人の女性のためのペンケースを愛用していたんです」
「えっ、そうなんですか?」
明るい声を出して、矢野主任は、パンフレットを眺め、川上まさえの経歴の部分を指でなぞる。
「六年先輩の人なんだ」
「差し上げます」
「ありがとうございます」
春夫は、礼を言う矢野主任に理由もなく自分の頬が赤らむのを感じた。昨日の夜には、「矢野さんは、画家になるつもりはなかったのですか」と聞くつもりだったが、言葉が出て来なかった。
「ということで」
机を離れようとする春夫に矢野主任の隣の机の久保係長から声がかかった。
「一緒に行った人は、カノジョ?」
「そうです。失礼します」
久保係長の「オウッ」というのと「それは、それは」という矢野主任の声を背に春夫は、早々に営業の席に戻ったのだったのだが、緊張感は保たれたままだった。




