先生と二人きり
朝から、落ち着かなかった。
理由は分かっている。
昨日の最後だ。
――次は、あなたと二人で話す。
フローレンス先生はそう言った。
あの人は冗談でそんなことを言う顔じゃない。
つまり今日は、本当にそういう日なのだ。
「レオンさま」
クララ・ヴァイスの声がした。
「起きてる」
「顔が起きておりません」
「起きてるよ」
「そういう意味ではありません」
やっぱりそれか。
俺は布団の中で一度だけ息を吐いた。
目は開いている。
頭も起きている。
でも顔が落ち着いていないのは自分でも分かる。
「そんなに出てる?」
「かなり」
「便利な言葉だな」
「便利ですので」
最近、本当にみんなそればかりだ。
俺は寝台から起き上がった。
枕の横には、昨日の冊子が置いてある。
青い表紙。
水と風の頁。
昨日は風が少し通った。
見えないくせに、たしかにあった。
あれを先生にもう一度見せたい。
でも、二人きりで何を言われるのかは普通に怖い。
「クララ・ヴァイス」
「はい」
「先生って、怒る時も静か?」
「はい」
「最悪だな」
「落ち着いておられる方は、大抵そうです」
「父上と同じ分類か」
「少し違います」
「どこが」
「ガレスさまは短いです」
「先生は」
「長く刺します」
「うわあ……」
朝から聞きたくない情報だ。
着替えながらも、落ち着かない。
シャツの袖を通す。
上着を着る。
髪を整えられる。
そこまではいつも通りだ。
なのに、今日は全部の途中で先生の顔が浮かぶ。
よく見ている目。
静かな声。
それから、少しだけ笑う口元。
怖い。
でも、嫌じゃない。
そこがややこしい。
食堂へ向かう途中で、もう木剣の音が聞こえた。
カン。
カン。
「兄上、早すぎるだろ……」
「本日も元気でいらっしゃいますね」
と、クララ・ヴァイス。
「朝から仕上がりすぎなんだよな」
「その言い方、お好きですね」
「本当にそう思ってるから」
「ええ。見ていれば分かります」
「それももう聞き飽きたな」
でも実際、ユリウス・アルヴェインはそういう兄だ。
食堂の扉を開けると、今日も一番先にミリアが反応した。
「れお!」
「おはよう、ミリア」
「れお、せんせ!」
「いきなりそこか」
「せんせ!」
ミリアは先生のことがだいぶ気に入っているらしい。
たぶん見た目より空気で覚えている。
強い人とか、面白い人とか、そういうのを子どもは妙によく拾う。
エレノア・アルヴェインが笑った。
「おはよう、レオン」
「おはようございます、母上」
「今日はずいぶん顔が忙しいわね」
「忙しい?」
「楽しみと不安が行ったり来たりしてる顔」
「そんなに分かる?」
「ええ。かなり」
かなり、か。
もう反論しない。
たぶん当たっている。
ユリウスはすでに席についていた。
今日も朝から整っている。
少し腹立つくらい整っている。
「レオン」
「何」
「今日は完全に先生のことで頭いっぱいだろ」
「兄上に言われるとちょっと腹立つな」
「図星だから?」
「半分」
「残り半分は?」
「朝から仕上がってる兄上が少し腹立つ」
「それは知ってる」
「自覚あるのかよ」
「ある」
兄はそう言って、あっさりパンをちぎった。
くそう。
こういうところも少しずるい。
ガレス・アルヴェインが席につく。
「食え」
短い。
でもそれで食卓の空気が一度締まる。
俺も席についた。
パン。
スープ。
果物。
いつもの朝だ。
でも、今日だけは少し違った。
「父上」
と、ユリウス。
「何だ」
「今日はどうするんだ」
「いつも通りだ」
「そのあと」
「レオンは残る」
「やっぱりか」
「兄上」
と、俺。
「何」
「やっぱりって何」
「先生、昨日ああ言ってたろ」
「言ってたけど」
「ならそうなる」
「兄上って、時々分かった顔するよな」
「兄だからな」
「そこ万能じゃないだろ」
エレノアが紅茶を置いた。
「レオン」
「何、母上」
「身構えすぎないこと」
「してる?」
「かなり」
「それもう皆で言いにきてない?」
「大事だからよ」
「じゃあ母上は、先生と二人で話す時にどうしてたんだ」
「私はそこまで身構えなかったわ」
「参考にならないな……」
「でも、黙ると余計に見抜かれるのは同じ」
「うわ」
「だから、考えすぎる前に答えなさい」
「母上、その助言ちょっと助かる」
「でしょう?」
そこへ、ガレスが一言入れた。
「分からないことは、分からないと言え」
「……はい」
「分かったふりをするな」
「はい」
「答えを飾るな」
「はい」
「三つ目、けっこう刺さるな」
と、ユリウス。
「お前にも言っている」
と、父。
「う」
「兄上もなんだ」
「父上の前だと、たまにやる」
「意外」
「意外じゃない」
「兄上、今日ちょっと人間っぽいな」
「どういう意味だよ」
そこで、少しだけ食卓が笑った。
前世の俺は、こういう会話の輪の中で変に身構えていた。
笑われる前に引く。
外す前に黙る。
そういう癖が強かった。
今は違う。
少なくとも、この家の中では。
それでも、今日は少し落ち着かない。
パンをちぎる手が、ほんの少しだけ遅い。
それをエレノアは見ているし、ユリウスも見ている。
ガレスは見ているくせに何も言わない。
それがこの家だ。
朝餉のあと、庭へ出る。
今日は木剣を持った瞬間に、自分でも分かるくらい気が散っていた。
先生のことを考えている。
このあと何を言われるかを考えている。
それがそのまま肩に出る。
「重い顔だな」
と、ユリウス。
「顔で言うな」
「肩もだ」
「うるさい」
ガレスが一歩近づく。
「足」
「はい」
「肩」
「はい」
「目」
「はい」
「今日は三つとも遅い」
「……はい」
「返事が軽い」
「父上、今日はちょっと厳しくない?」
「お前が浮いてる」
浮いてる。
まったくその通りだ。
木剣を振る。
ずれる。
戻りが遅い。
兄の打ち込みを受ける。
二回目で弾かれた。
「うわっ」
「昨日より悪いぞ」
と、ユリウス。
「分かってるよ!」
「顔だな」
「兄上、今日そればっかりだな」
「今日はほんとに分かりやすいから」
ロルフ・ハイネが後ろで笑う。
「レオンさま、今日は剣じゃなくて別のこと考えてますね」
「考えてる」
「正直でよろしい」
「でも下手になる」
「それも正直でよろしい」
ひどいな。
でも、その通りだ。
ガレスが木剣を軽く打ってくる。
「受けろ」
「はい」
受ける。
押される。
腕に変な力が入る。
駄目だ。
「止まれ」
父が言った。
「レオン」
「はい」
「今、お前は何をしたい」
「え」
「剣か」
「……違う」
「なら、剣を持つな」
うわ。
それ、かなり刺さるな。
「でも」
「でも、じゃない」
「……はい」
俺は木剣を少しだけ下ろした。
悔しい。
けど、その悔しさも今は半端だ。
剣そのものへ向いていない。
それが分かるから余計に悔しい。
ガレスは短く言った。
「今日はここまでだ」
「え」
と、ユリウス。
「いいの?」
「今のまま続けても雑になる」
「……父上、それ俺にも言われたやつ」
「そうだ」
「レオンだけ特別じゃないんだな」
「当たり前だ」
「ちょっと安心した」
と、俺。
そこで、ちょうど回廊の向こうから声がした。
「なら、こちらを先にしましょうか」
フローレンス・ベルナールだ。
今日は昨日よりずっと静かに来た。
いや、たぶん昨日も静かだった。
ただ俺が気づかなかっただけだ。
先生は中庭へ降りてくると、まず俺ではなく父を見た。
「切り上げたのですね」
「散っていた」
と、ガレス。
「ええ。見れば分かります」
と、先生。
その会話、かなり強いな。
先生は俺を見る。
「レオン」
「はい」
「顔」
「また!?」
「今日は本当にそこからね」
「先生までそれ言うのか」
「いまのあなた、剣じゃなくて私のことで頭がいっぱい」
「……はい」
「よろしい」
「そこで褒めるの?」
「褒めてないわ。正直なら進むだけ」
強い。
ユリウスが木剣を肩に乗せたまま言う。
「先生」
「何」
「今日は俺、どうすればいい?」
「あなたはロルフ・ハイネと受けを続けなさい」
「はい」
「でも、耳はこっち向けないで」
「ひどい」
「あなた、聞きながらでもできるでしょう」
「できるけど」
「なら駄目」
兄が苦笑いをする。
少しだけ羨ましい。
先生にそうやって断定されるの、嫌なだけじゃない気がするからだ。
「レオン」
先生が言う。
「こちらへ」
俺は木剣を立てに戻した。
手の中が急に軽くなる。
その軽さに、今の自分がどちらへ引かれているかがよく出ている気がした。
先生は中庭の端。
日当たりのいい石段のそばへ移った。
机が一つ。
椅子が二つ。
いつの間にか用意されている。
この家、本当に手が早いな。
「座って」
「はい」
座る。
先生も向かいへ座る。
近い。
近くで見ると、やっぱり小柄だ。
でも小さくは見えない。
目のせいだろうか。
それとも、余計なものを抜いたみたいな話し方のせいか。
しばらく沈黙があった。
前世の俺なら、この沈黙だけでかなり焦っていたと思う。
何か言わなきゃ。
間を埋めなきゃ。
そうやって余計なことを言って空回る。
今も少しはそうだ。
でも、完全には飲まれない。
相手が先生だからかもしれない。
フローレンス先生が最初に口を開いた。
「質問はある?」
「え」
「いまのあなた、頭の中に質問が多い顔をしてる」
「先生、本当に便利だな」
「答え」
「ある」
「言いなさい」
俺は少しだけ迷った。
でも、朝食の時に母が言ったことを思い出す。
黙ると余計に見抜かれる。
それなら、言ったほうが早い。
「何で俺だけ二人なんですか」
「そこから?」
「そこが一番気になる」
「そう」
「あと、何を見るつもりなのか」
「うん」
「あと、何で昨日あんな言い方したのか」
「どの言い方?」
「“気になる”」
「それも気になるのね」
「かなり」
先生は少しだけ目を細めた。
「よく喋るわね」
「緊張するとこうなる」
「知ってる」
「え」
「昨日も見た」
「うわ」
「でも、悪くない」
先生はそこで、冊子を机へ置いた。
「最初の質問から答える」
「はい」
「あなたを一人で見るのは、ユリウスと並べると違いが埋もれるから」
「埋もれる?」
「ええ」
「兄上が目立つってこと?」
「半分」
「残り半分は?」
「あなたが、兄を見すぎるから」
「……う」
それは、かなり図星だった。
「兄を見るのは悪くない」
と、先生。
「でも、あなたは見ながら“自分はどうか”を先に下げる」
「そんなに分かる?」
「分かるわ」
「顔?」
「顔も。肩も。息も」
「全部かよ」
「全部よ」
うわあ。
逃げ場がない。
先生は続ける。
「あなたはユリウスと違って、先に外を見る」
「外?」
「相手。空気。言葉。順番。反応」
「……ああ」
「だから、学ぶ時に遅れることがある」
「それ、悪い?」
「いいえ。魔術には向く」
「おお」
「でも、剣では邪魔になる時がある」
「うわ、ちゃんと落とすな」
「落としてない。分けているだけ」
言い方がやっぱり格好いい。
「二つ目」
と、先生。
「はい」
「何を見るつもりか」
「うん」
「あなたの速さ」
「速さ?」
「そう」
「剣はそんな速くないけど」
「剣の話じゃない」
「じゃあ何」
「飲み込みの速さ。言葉の拾い方。観察の仕方。好奇心の向かい方」
胸の奥が、少しだけざわつく。
それは嬉しさだけじゃない。
見抜かれている感じがあるからだ。
前世の俺は、人に見抜かれるのが怖かった。
でも今は、怖いだけでは終わらない。
この先生に見つけられることが、悪いことばかりだとは思えない。
「昨日、冊子をどこまで読んだ?」
と、先生。
「最後まで」
「素直ね」
「ここでは誤魔化してもばれる気がする」
「賢い判断」
「褒めてる?」
「かなり」
またそれだ。
でも今日は、それを聞くたび少しずつ気が楽になる。
先生は冊子を開いた。
真ん中あたりのページ。
昨日俺がまだ見ていないところだ。
「読んで」
「今?」
「今」
文字を追う。
難しい。
でも、読めないわけじゃない。
ゆっくりなら分かる。
初級の風。
水より散りやすい。
一方向を決める。
魔力を薄く。
重ねるのではなく、整える。
読み終えると、先生が訊いた。
「どういう意味?」
「え」
「読めたと、分かったは違う」
「……薄く通す、ってこと?」
「続けて」
「押し出すんじゃなくて、揃えて向ける」
「なぜそう思ったの」
「水と違うから」
「水は?」
「置く感じ。でも風は残らない」
「なるほど」
先生がそこで、少しだけ黙った。
「何」
と、俺。
「いまの答え、誰に教わった?」
「え」
「本?」
「本も」
「“も”」
「兄上が置くって言った」
「ユリウスが」
「うん」
「それを自分の中で組み替えた」
「……たぶん」
「そう」
先生の目が、昨日より少しだけ深くなった気がした。
「三つ目」
と、先生。
「はい」
「昨日、気になると言った理由」
「うん」
「あなた、五歳の子どもの学び方をしていない」
「……え」
心臓が一回、大きく鳴った。
そこへ来るのか。
「別に、悪いと言ってるわけではない」
と、先生。
「でも、違う」
「それ、そんなにはっきり言う?」
「言うわ」
「……どこが」
「答えを取りに行く速さ」
「え」
「言葉がどう噛み合うかを見る目」
「うわ」
「あと、自分をごまかす言い方を自分で知ってる」
「それは何か嫌だな」
「子どもらしくない」
言われて、返事が詰まる。
前世のことを、ここで言えるわけじゃない。
言ったところでどうなる。
信じてもらえるかも分からない。
いや、この先生なら頭ごなしには笑わない気もする。
でも、それで何かがよくなるとも思えない。
だから俺は、少しだけ視線を落とした。
「……俺、変?」
「変わっている部分はある」
「うわ、かなり刺さるな」
「でも、それだけ」
「それだけ?」
「異常ではない」
「……そう」
その言い方に、少しだけ救われる。
異常じゃない。
その一言は思っていたより効いた。
先生は俺の顔を見たまま、静かに続けた。
「私は、あなたの全部を今すぐ知りたいわけじゃない」
「そうなの?」
「ええ」
「じゃあ何」
「伸ばせるところを先に伸ばす」
「……先生」
「何」
「いまちょっと、先生っぽい」
「教師よ」
そこで初めて、俺は少しだけ笑ってしまった。
先生も、ほんの少しだけ口元を緩める。
「だから、今日から授業を一つ増やす」
「え」
「文字」
「魔術じゃなくて?」
「魔術のために」
「そこ繋がる?」
「繋がるわ」
「うわ、またその顔」
「気づいた?」
「気づくよ。先生がそういう顔すると、ちょっと面白いこと言う前だから」
「生意気」
「褒めてる?」
「半分」
すっかり、この言い方にも慣れてきた。
先生は冊子を閉じ、別の薄い本を机へ置いた。
表紙は灰色。
文字が細かい。
『初級魔術理論・導入』
「うわ」
「嫌?」
「嫌じゃない。むしろ好き」
「そうでしょうね」
「先生って、たまに俺のこと分かりすぎて怖い」
「教師だから」
「それ便利だな」
「かなり」
先生は本を俺の手元へ寄せた。
「これを読む」
「全部?」
「最初の二章」
「けっこうあるな」
「あなたなら読める」
「その言い方、ちょっと嬉しい」
「嬉しいなら読みなさい」
「はい」
本を開こうとした、その時だった。
回廊の向こうで、小さな足音がした。
振り向く。
ミリアだった。
乳母の手を振り切るところまではいかないが、半分くらい勢いでこっちへ来ている。エレノアが少し遅れてその後ろにいる。珍しい。母がこんなに急いで歩いているのをあまり見たことがない。
「母上?」
と、俺。
エレノアの顔は笑っていなかった。
それだけで、胸の奥がひやりとした。
「レオン。先生」
「何?」
と、フローレンス先生。
「今、門から連絡があって」
母が少しだけ言葉を選ぶ。
その間が、嫌だった。
「王都から使いが来たの」
中庭の空気が、少しだけ変わった。
俺は本を持ったまま、固まる。
王都。
使い。
この家へ。
何だ、それ。
嫌な予感、というほどではない。
でも、ただの来客じゃない感じがした。
ガレス・アルヴェインの低い声が、回廊の向こうから聞こえた。
「通せ」
短い。
でも、それで余計に落ち着かなくなる。
エレノアが先生を見る。
「フローレンスさま、少し」
「ええ。レオン、今日はここまで」
「え」
「続きは午後」
「いや、待って。王都って何」
「それは、今から分かるでしょう」
先生が立ち上がる。
その声はいつも通りだった。
でも、目だけが少し鋭かった。
俺は本を抱えたまま、その場に残る。
ユリウスが向こうから駆けてきた。
兄ももう話を聞いた顔をしている。
「レオン」
「何」
「なんか来たらしい」
「知ってるよ。王都だって」
「うわ」
「兄上までうわって言うのか」
「そりゃ言うだろ」
そこで、兄は一度だけ真顔になった。
「……父上の顔、ちょっと違った」
それを聞いた瞬間、胸の奥がまたざわついた。
ガレス・アルヴェインの顔が違う。
それは、たぶん軽いことじゃない。
俺は思わず、回廊の奥を見た。
何が来た。
王都から、何のために。
この家に。
さっきまでの風の感触が、一気に遠くなる。
でも本はまだ腕の中にある。
先生は「午後」と言った。
つまり、全部が止まるわけじゃない。
それでも、何かが少し変わり始めた気がした。
俺は本を抱え直した。
次は、風だけじゃない。
そんな予感がした。




