風邪は見えない
朝、目が覚めた瞬間に、俺は枕の横を見た。
青い冊子は、ちゃんとそこにある。
よし。
それだけで少しだけ気分がいい。
いや、かなりいい。
昨日、水滴が三回出た。
少ないようで、多い。
少なくとも前世の俺にとっては、「昨日できなかったことが今日も少しできるかもしれない」という感覚自体がけっこう新鮮だった。今までは、一回できたら次は駄目かもしれない、のほうが先に来ていたからだ。
けれど今は違う。
次のページがある。
その先に、風がある。
「……やるか」
まだ布団の中だ。
本当なら、起きて、着替えて、顔を洗って、それから朝だ。
でも今はまだ屋敷も静かだし、誰も来ていない。
少しくらいならいいだろ。
俺はそっと冊子を開いた。
水の次。
風。
図は少ない。
水滴はまだ「そこにある」が分かりやすかった。
でも風は見えない。
厳密には、動いたものを見て風があると知るだけだ。
この時点で少し難しそうだった。
「見えないものを置くって、急に無茶言うな」
小さく呟きながら、記された文を追う。
風は水より散りやすい。
形を思い浮かべるのではなく、流れを決める。
一方向。
短く。
押すのではなく、通す。
「分かったような、分からんような……」
こういうの、好きだ。
いや、本当に好きだ。
前世でも説明書とか設定資料とか、そういう「世界の仕組み」を読むのは好きだった。実生活の手順書や就活本は途中で嫌になったくせに、なんでこういうのだけ面白いんだろうなと思う。
でも、好きなものがあるのは悪くない。
問題は、好きなだけで終わらせないことだ。
俺は布団の上に座り直した。
背筋を伸ばす。
昨日、先生が言っていた立ち方は立ってやるものだ。
でも、いまから床に降りてうろうろしていたら、クララ・ヴァイスにばれる。
布団の上でやるのは少しずるいが、やらないよりはいい。
呼吸。
胸の下。
流す。
指先。
「……風」
詠唱を小さく口にする。
何も起きない。
まあ、そうだろうな。
知ってた。
知ってたけど、ちょっとくらい布が揺れたりしてもいいじゃないかと思う。
もう一回。
今度は、水を出した時の感覚を思い出す。
あれは置く感じだった。
でも風はたぶん違う。
置くというより、抜ける感じか。
通る感じ。
手のひらの前を、向こうへ。
「……う」
指先がほんの少しだけ冷えた。
え。
一瞬、何かが抜けた気がした。
でも本当に一瞬だ。
しかも目に見えない。
だから余計に怪しい。
いまの、気のせいか?
俺が身を乗り出した、その瞬間だった。
「レオンさま」
背後から声がした。
「うわっ!」
完全に飛び上がった。
振り返ると、開いた扉のところにクララ・ヴァイスが立っていた。
いつから。
というか、何でそんなに静かなんだこの人。
「朝から賑やかですね」
「いたなら言ってくれよ!」
「呼びました」
「一秒前だろ!」
「二秒前です」
「誤差だな」
「レオンさまにとっては、大きな二秒だったようですが」
「心臓に悪い」
クララ・ヴァイスの視線が冊子へ落ちる。
それから俺の手元へ。
そして窓際のカーテンへ。
「今、少し動きましたね」
「え」
俺も慌てて見る。
でもその時にはもう、何も変わらない朝の部屋だった。
光。
薄い風。
静かなカーテン。
「動いた?」
「少しだけ」
「外の風じゃなくて?」
「窓は閉まっております」
「じゃあ俺?」
「そうかもしれません」
「うわ」
たったそれだけで、急に目が覚めた。
「クララ・ヴァイス」
「はい」
「俺、いま風やった?」
「たぶん」
「たぶん?」
「確信はありませんが、喜ぶには十分かと」
「よし」
思わず拳を握る。
「ただし」
と、クララ。
「何」
「そのまま布団の上で続けると、朝の支度が遅れます」
「……はい」
そういうところは本当に強い。
着替えながらも、少しだけ浮ついていた。
水の時とは違う。
水滴は見えた。
でも今の風は、見えない。
見えないくせに、たしかに何かが通った感じがした。
それがなんだか悔しいし、かなり楽しい。
「顔がにやけております」
と、クララ・ヴァイス。
「そんなに?」
「かなり」
「今日はもう、その“かなり”も褒め言葉に聞こえる」
「単純ですね」
「朝から風っぽいの出たんだぞ」
「“風っぽいの”」
「まだ確信がない」
「なら、まずは朝餉です」
「はいはい」
「返事」
「……はい」
廊下へ出る。
屋敷の朝はもう動いていた。
食器の音。
遠くの話し声。
どこかの扉が開く音。
厩舎のほうから馬の声。
そして中庭の向こうから、やっぱり聞こえる。
カン。
カン。
「兄上、もうやってるのかよ……」
「ユリウスさまは元気ですから」
と、クララ・ヴァイス。
「元気で片づけるなって」
「便利ですので」
「そればっかりだな、この家」
食堂へ入ると、いつもの顔が揃っていた。
ミリア・アルヴェインが、今日も最初に俺を見つける。
「れお!」
「おはよう、ミリア」
「れお、ほん!」
「朝一番がそれか」
「ほん!」
たぶん、俺の顔に出ているのだろう。
今朝はかなり本のほうを向いている自覚がある。
エレノア・アルヴェインがカップを持ったまま、笑いを含んだ目でこちらを見る。
「何かあった顔ね」
「母上、それどういう顔」
「いいことがあった顔」
「かなり曖昧だな」
「でも当たりでしょう?」
俺は少しだけ悩んだ。
隠してもどうせばれる。
この家はそのへん、もう駄目だ。
「ちょっとだけ」
「何を?」
と、ユリウス。
「風」
「え」
「出た、かもしれない」
「かもしれない?」
「見えないから確信が持てない」
その瞬間、ユリウスの顔が面白いくらい変わった。
目が丸くなる。
次に、少し悔しそうになる。
最後に、ちょっと笑う。
「なんだその顔」
と、俺。
「いや」
と、兄。
「先越されたなって」
「兄上、風まだだった?」
「俺、水のほうが先だった」
「おお」
「嬉しそうだな」
「そりゃちょっとな」
「弟って、たまにほんと腹立つ」
褒めてるのか嫌味なのか分かりにくいな。
でもたぶん半分は本音だ。
ガレス・アルヴェインがそこで低く言った。
「食え」
「はい」
「はーい」
「れお!」
「返事が軽い」
と、父。
「朝から風っぽいの出たので」
と、俺。
「“風っぽいの”とは何だ」
「まだ見えないんだよ」
「風は見えん」
「父上に言われると急に正論だな」
エレノアがくすっと笑う。
「フローレンスさまに見ていただけばはっきりするでしょう」
「先生、今日も来る?」
「来るわよ」
「うわ」
「その“うわ”は何?」
「楽しみ七、不安三くらい」
「昨日より少し不安が減ったな」
と、ユリウス。
「兄上、そういうの言葉にするの好きだよな」
「分かりやすいから言いやすい」
「最低だ」
「褒めてる」
「最近その便利な逃げ道ばっかり使うな」
ミリアがそこで俺の皿を指さした。
「れお、ぱん!」
「お前、俺にパン好きだと思われてるだろ」
「好きだろ?」
と、ユリウス。
「好きだけど」
「じゃあ合ってる」
「兄上が混ざってくるな」
朝餉はいつも通りに進んだ。
パン。
スープ。
果物。
肉。
家族の会話。
でも今日は、少しだけ中身が違った。
俺の中に「見えない風」が残っている。
それを早く先生に見せたい。
見せて、どう言われるのかを聞きたい。
前世の俺なら、誰かに見せる前にもっと一人で確かめたと思う。
駄目だった時の保険をかけたはずだ。
でも今は違う。
見せたい。
それが、ちょっと嬉しい。
朝餉のあと、すぐに庭へ出る。
木剣が渡される。
いつもの流れだ。
構える。
足。
肩。
背中。
先生が来る前に、今日は父が先に見るらしい。
「レオン」
「はい」
「顔」
「また?」
「まただ」
「顔に全部出るな」
と、ユリウス。
「兄上は黙ってろ」
「今日はちょっと浮いてる」
「朝から風っぽいの出たから」
「まだ言うんだ」
「そこは言いたいだろ」
「まあ、分かる」
兄が笑う。
父は笑わない。
「振れ」
木剣を下ろす。
昨日より少しましだ。
でも、先生に風を見てもらうのが気になって、少しだけ雑になる。
それを父は見逃さない。
「遅い」
「はい」
「浮いてる」
「はい」
「剣を持ってる時に、本の顔をするな」
「うわ」
「その顔だ」
「父上、言い方がちょっと格好いいな」
「格好よさはいらん」
「いや、でもちょっと」
「口を閉じろ」
閉じた。
ユリウスは横で肩を揺らしている。
ロルフ・ハイネも笑っている。
でも今日はそこまで嫌じゃない。
剣は剣で、少しずつ昨日の自分を超えられている感じがあるからだ。
兄の打ち込みも受ける。
一回。
二回。
三回。
今日は、昨日より受ける時に肩が上がらない。
それだけでずいぶん違う。
手のしびれ方も少し軽い。
「今のは悪くない」
と、ガレス。
「よし」
と、俺。
「今のは褒めてる?」
と、ユリウス。
「半分」
と、父。
「うわ、父上までか」
「便利だろ」
と、ユリウス。
「便利の使い方覚えすぎなんだよ」
その時、回廊からよく通る声がした。
「朝から賑やかね」
フローレンス・ベルナールだ。
振り向くと、先生は昨日と同じ濃紺のローブをまとい、静かな顔で立っていた。
でも目だけは変わらず鋭い。
あれに見られると、ちょっと背筋が伸びる。
「先生」
「おはようございます」
と、ユリウス。
「おはよう」
と、俺。
「今朝の顔は昨日よりましね」
「え」
「少なくとも、剣を持って潰れてはいない」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「やった」
先生はそこで、わずかに目を細めた。
「でも、何か言いたい顔をしてる」
「うわ、もうそこまで?」
「分かるもの」
「俺、ほんとに分かりやすいな」
「はい」
と、ユリウス。
「はい」
と、クララ・ヴァイス。
「れお!」
と、ミリア。
駄目だ。この家は。
「先生」
と、俺。
「何」
「朝、ちょっと風っぽいの出た」
「風“っぽいの”」
「見えないから」
「やってみなさい」
「いきなり?」
「いま言ったのでしょう」
「それはそうだけど」
「なら、いま」
先生はもう机の前へ歩いていく。
俺も慌ててついていく。
木剣を戻す。
立つ。
冊子を開く。
先生がそれを閉じた。
「見ない」
「え」
「今日は見ないでやる」
「急に難易度上がった」
「昨日読んだのでしょう?」
「読んだ」
「今朝も」
「……読んだ」
「なら、頭にはある」
「はい」
「じゃあ、出しなさい」
強いなあ。
でも、嫌じゃない。
むしろ少し燃える。
呼吸。
胸の下。
流す。
手。
風。
一回目。
何も起きない。
「顔」
と、先生。
「う」
「失敗した時の顔をするのが早い」
「先生、それ言い方が本当に刺さる」
「刺さって直るなら、そのほうが早い」
二回目。
ほんの少しだけ、指先が冷たい。
「いま、あった?」
と、俺。
「聞く前に次」
と、先生。
「厳しい」
「教師だから」
三回目。
今度は、机の上に置いてあった紙の端が、ふ、と揺れた。
「お」
思わず声が出る。
「今の」
「今のはある」
と、先生。
「ほんと?」
「ええ」
「兄上!」
「見た」
「母上!」
「見たわ」
「父上!」
「見えた」
「よし!」
ちょっと嬉しすぎた。
いや、かなり嬉しい。
ユリウスが肩をすくめる。
「お前、そういう時だけ犬みたいだな」
「兄上、言い方」
「褒めてる」
「全然だろ」
先生は紙の位置を少し変えた。
「もう一回」
「はい」
今度は、紙じゃなくてミリアの髪がふわっと揺れた。
「みりあ!」
と、ミリア。
「お前、自分で言うな」
「かぜ!」
「そう、風」
「れお、かぜ!」
なんだそれ。
でも可愛いので許す。
先生が頷く。
「悪くない」
「おお」
「でも、まだ気まぐれ」
「気まぐれ」
「出る時と出ない時の差が大きい」
「それは分かる」
「分かるなら、次はそこ」
「うわ、終わらせてくれない」
「終わらせる理由がないもの」
先生は平然と言った。
ユリウスが横から口を挟む。
「先生」
「何」
「レオンって、魔術の時だけちょっと変わる」
「そうね」
「え、俺?」
「剣の時より、自分から前へ出る」
「兄上、それ言う?」
「見てれば分かる」
「お前までその言い方をするな」
先生はそこで少しだけ考えるように俺を見た。
「レオン」
「はい」
「あなた、本を読むのは速い?」
「え」
「速いかどうか」
「……どうだろ」
「母上、どう思う?」
と、ユリウス。
「昨日は、指定したところを全部読んでいたわ」
と、エレノア。
「昨夜も読んでいた形跡がありました」
と、クララ・ヴァイス。
やめろ。
そこ一斉に証言するところじゃないだろ。
先生の目が細くなる。
「なるほど」
「何が?」
「少し気になるだけ」
「その言い方やめてくれ。先生が言うと妙に重い」
「重くないわ」
「そう?」
「まだ」
“まだ”って言ったか今。
ほんの一瞬、胸の奥がざわっとした。
でも、それは嫌な感じだけじゃなかった。
先生に何かを見つけられた。
たぶん、そういうことだ。
前世の俺なら、人に見抜かれるのは怖かった。
でも今は少し違う。
この人に見つけられるのなら、悪いことばかりじゃない気がした。
先生は冊子を指で叩いた。
「次は風だけじゃなく、文字も見る」
「文字?」
「ええ」
「なんで」
「決まっているでしょう」
「……気になったから?」
「半分」
「残り半分は?」
「あなたの“速さ”が、どこにあるのか見たいから」
うわ。
それ、ちょっと格好いいな。
いや、格好いいとか言ってる場合じゃない。
でも、胸が少しだけ熱くなる。
ガレス・アルヴェインがそこで低く言った。
「レオン」
「はい」
「嬉しそうだな」
「……まあ」
「なら続けろ」
「うん」
「返事」
「……はい」
ユリウスが笑いながら言う。
「お前、今日ずっと顔が忙しいな」
「兄上にだけは言われたくない」
「俺?」
「さっきからちょっと悔しそうだし」
「う」
図星らしい。
「兄上」
「何」
「風、まだなんだろ」
「まだ」
「追いつく?」
「追いつくよ」
「良いな、その顔」
「そっくりそのまま返す」
兄のそういうところが、最近かなり好きだと思う。
腹は立つ。
でも好きだ。
前世の俺は、同年代の優秀な人を前にすると、もっと勝手に萎縮していた。
今のユリウスにはそれが少ない。
兄だからなのか、この家だからなのか、両方なのかは分からない。
でも、かなり大きい違いだ。
先生は最後に、俺へ二つ課題を出した。
「風を三回」
「三回」
「水は五回」
「多くない?」
「多いと思うならやりなさい」
「そういう言い方ばっかりだな」
「効くでしょう?」
「……かなり」
「よろしい」
そこで終わるかと思った。
でも先生は、去り際にふっと振り返って言った。
「それと、レオン」
「何?」
「次は、あなたと二人で話す」
「え?」
思わず間の抜けた声が出た。
ユリウスが俺を見る。
エレノアも見る。
ガレスだけは少しも驚かない。
「え、何で?」
と、俺。
「気になるから」
と、先生。
「それ、昨日も言ってたな」
「ええ」
「で、今日は二人?」
「そう」
「何を話すの」
「来たら分かる」
「うわ」
「それ、かなり嫌そうな顔」
「嫌じゃない。嫌じゃないけど、先生の“来たら分かる”はちょっと怖い」
「そうね」
「否定しないのか」
「否定する必要がないもの」
強いなあ。
先生はそのまま回廊の向こうへ去っていった。
ローブの裾が一度だけ揺れる。
足音はやっぱり軽い。
俺はしばらく、その背を見ていた。
「レオン」
と、ユリウス。
「何」
「お前、完全に次の話で主役じゃん」
「兄上、それ他人事みたいに言うな」
「だって俺じゃないし」
「冷たいな」
「いや、ちょっと羨ましい」
「ほんとか?」
「半分」
「もういいよその言い方」
でも分かる。
半分くらいは、本当なんだろう。
俺は冊子を抱え直した。
風が出た。
昨日より少し安定した。
兄も見ていた。
父も認めた。
先生は、俺にだけ次を用意した。
それだけで、胸の奥が落ち着かなかった。
怖い。
でも、それ以上に気になる。
たぶん今夜は、昨日よりもっと寝つきが悪い。
それでもいいと思った。
だって、次があるのだから。




