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Another Life 〜異世界で始まる二度目の人生〜  作者: 華詩手


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6/9

風邪は見えない



朝、目が覚めた瞬間に、俺は枕の横を見た。


青い冊子は、ちゃんとそこにある。


よし。


それだけで少しだけ気分がいい。

いや、かなりいい。


昨日、水滴が三回出た。

少ないようで、多い。

少なくとも前世の俺にとっては、「昨日できなかったことが今日も少しできるかもしれない」という感覚自体がけっこう新鮮だった。今までは、一回できたら次は駄目かもしれない、のほうが先に来ていたからだ。


けれど今は違う。


次のページがある。

その先に、風がある。


「……やるか」


まだ布団の中だ。

本当なら、起きて、着替えて、顔を洗って、それから朝だ。

でも今はまだ屋敷も静かだし、誰も来ていない。

少しくらいならいいだろ。


俺はそっと冊子を開いた。


水の次。

風。


図は少ない。

水滴はまだ「そこにある」が分かりやすかった。

でも風は見えない。

厳密には、動いたものを見て風があると知るだけだ。

この時点で少し難しそうだった。


「見えないものを置くって、急に無茶言うな」


小さく呟きながら、記された文を追う。


風は水より散りやすい。

形を思い浮かべるのではなく、流れを決める。

一方向。

短く。

押すのではなく、通す。


「分かったような、分からんような……」


こういうの、好きだ。


いや、本当に好きだ。

前世でも説明書とか設定資料とか、そういう「世界の仕組み」を読むのは好きだった。実生活の手順書や就活本は途中で嫌になったくせに、なんでこういうのだけ面白いんだろうなと思う。

でも、好きなものがあるのは悪くない。


問題は、好きなだけで終わらせないことだ。


俺は布団の上に座り直した。

背筋を伸ばす。

昨日、先生が言っていた立ち方は立ってやるものだ。

でも、いまから床に降りてうろうろしていたら、クララ・ヴァイスにばれる。

布団の上でやるのは少しずるいが、やらないよりはいい。


呼吸。

胸の下。

流す。

指先。


「……風」


詠唱を小さく口にする。


何も起きない。


まあ、そうだろうな。

知ってた。

知ってたけど、ちょっとくらい布が揺れたりしてもいいじゃないかと思う。


もう一回。


今度は、水を出した時の感覚を思い出す。

あれは置く感じだった。

でも風はたぶん違う。

置くというより、抜ける感じか。

通る感じ。

手のひらの前を、向こうへ。


「……う」


指先がほんの少しだけ冷えた。


え。


一瞬、何かが抜けた気がした。

でも本当に一瞬だ。

しかも目に見えない。

だから余計に怪しい。

いまの、気のせいか?


俺が身を乗り出した、その瞬間だった。


「レオンさま」


背後から声がした。


「うわっ!」


完全に飛び上がった。


振り返ると、開いた扉のところにクララ・ヴァイスが立っていた。

いつから。

というか、何でそんなに静かなんだこの人。


「朝から賑やかですね」

「いたなら言ってくれよ!」

「呼びました」

「一秒前だろ!」

「二秒前です」

「誤差だな」

「レオンさまにとっては、大きな二秒だったようですが」

「心臓に悪い」


クララ・ヴァイスの視線が冊子へ落ちる。

それから俺の手元へ。

そして窓際のカーテンへ。


「今、少し動きましたね」

「え」


俺も慌てて見る。

でもその時にはもう、何も変わらない朝の部屋だった。

光。

薄い風。

静かなカーテン。


「動いた?」

「少しだけ」

「外の風じゃなくて?」

「窓は閉まっております」

「じゃあ俺?」

「そうかもしれません」

「うわ」


たったそれだけで、急に目が覚めた。


「クララ・ヴァイス」

「はい」

「俺、いま風やった?」

「たぶん」

「たぶん?」

「確信はありませんが、喜ぶには十分かと」

「よし」


思わず拳を握る。


「ただし」

と、クララ。

「何」

「そのまま布団の上で続けると、朝の支度が遅れます」

「……はい」


そういうところは本当に強い。


着替えながらも、少しだけ浮ついていた。

水の時とは違う。

水滴は見えた。

でも今の風は、見えない。

見えないくせに、たしかに何かが通った感じがした。

それがなんだか悔しいし、かなり楽しい。


「顔がにやけております」

と、クララ・ヴァイス。


「そんなに?」

「かなり」

「今日はもう、その“かなり”も褒め言葉に聞こえる」

「単純ですね」

「朝から風っぽいの出たんだぞ」

「“風っぽいの”」

「まだ確信がない」

「なら、まずは朝餉です」

「はいはい」

「返事」

「……はい」


廊下へ出る。


屋敷の朝はもう動いていた。

食器の音。

遠くの話し声。

どこかの扉が開く音。

厩舎のほうから馬の声。

そして中庭の向こうから、やっぱり聞こえる。


カン。

カン。


「兄上、もうやってるのかよ……」


「ユリウスさまは元気ですから」

と、クララ・ヴァイス。


「元気で片づけるなって」

「便利ですので」

「そればっかりだな、この家」


食堂へ入ると、いつもの顔が揃っていた。


ミリア・アルヴェインが、今日も最初に俺を見つける。


「れお!」


「おはよう、ミリア」


「れお、ほん!」

「朝一番がそれか」

「ほん!」


たぶん、俺の顔に出ているのだろう。

今朝はかなり本のほうを向いている自覚がある。


エレノア・アルヴェインがカップを持ったまま、笑いを含んだ目でこちらを見る。


「何かあった顔ね」

「母上、それどういう顔」

「いいことがあった顔」

「かなり曖昧だな」

「でも当たりでしょう?」


俺は少しだけ悩んだ。

隠してもどうせばれる。

この家はそのへん、もう駄目だ。


「ちょっとだけ」

「何を?」

と、ユリウス。

「風」

「え」

「出た、かもしれない」

「かもしれない?」

「見えないから確信が持てない」


その瞬間、ユリウスの顔が面白いくらい変わった。

目が丸くなる。

次に、少し悔しそうになる。

最後に、ちょっと笑う。


「なんだその顔」

と、俺。

「いや」

と、兄。

「先越されたなって」

「兄上、風まだだった?」

「俺、水のほうが先だった」

「おお」

「嬉しそうだな」

「そりゃちょっとな」

「弟って、たまにほんと腹立つ」


褒めてるのか嫌味なのか分かりにくいな。

でもたぶん半分は本音だ。


ガレス・アルヴェインがそこで低く言った。


「食え」

「はい」

「はーい」

「れお!」


「返事が軽い」

と、父。

「朝から風っぽいの出たので」

と、俺。

「“風っぽいの”とは何だ」

「まだ見えないんだよ」

「風は見えん」

「父上に言われると急に正論だな」


エレノアがくすっと笑う。


「フローレンスさまに見ていただけばはっきりするでしょう」

「先生、今日も来る?」

「来るわよ」

「うわ」

「その“うわ”は何?」

「楽しみ七、不安三くらい」

「昨日より少し不安が減ったな」

と、ユリウス。

「兄上、そういうの言葉にするの好きだよな」

「分かりやすいから言いやすい」

「最低だ」

「褒めてる」

「最近その便利な逃げ道ばっかり使うな」


ミリアがそこで俺の皿を指さした。


「れお、ぱん!」

「お前、俺にパン好きだと思われてるだろ」

「好きだろ?」

と、ユリウス。

「好きだけど」

「じゃあ合ってる」

「兄上が混ざってくるな」


朝餉はいつも通りに進んだ。

パン。

スープ。

果物。

肉。

家族の会話。


でも今日は、少しだけ中身が違った。

俺の中に「見えない風」が残っている。

それを早く先生に見せたい。

見せて、どう言われるのかを聞きたい。


前世の俺なら、誰かに見せる前にもっと一人で確かめたと思う。

駄目だった時の保険をかけたはずだ。

でも今は違う。

見せたい。

それが、ちょっと嬉しい。


朝餉のあと、すぐに庭へ出る。


木剣が渡される。

いつもの流れだ。

構える。

足。

肩。

背中。


先生が来る前に、今日は父が先に見るらしい。


「レオン」

「はい」

「顔」

「また?」

「まただ」

「顔に全部出るな」

と、ユリウス。

「兄上は黙ってろ」

「今日はちょっと浮いてる」

「朝から風っぽいの出たから」

「まだ言うんだ」

「そこは言いたいだろ」

「まあ、分かる」


兄が笑う。

父は笑わない。


「振れ」


木剣を下ろす。


昨日より少しましだ。

でも、先生に風を見てもらうのが気になって、少しだけ雑になる。

それを父は見逃さない。


「遅い」

「はい」

「浮いてる」

「はい」

「剣を持ってる時に、本の顔をするな」

「うわ」

「その顔だ」

「父上、言い方がちょっと格好いいな」

「格好よさはいらん」

「いや、でもちょっと」

「口を閉じろ」


閉じた。


ユリウスは横で肩を揺らしている。

ロルフ・ハイネも笑っている。

でも今日はそこまで嫌じゃない。

剣は剣で、少しずつ昨日の自分を超えられている感じがあるからだ。


兄の打ち込みも受ける。


一回。

二回。

三回。


今日は、昨日より受ける時に肩が上がらない。

それだけでずいぶん違う。

手のしびれ方も少し軽い。


「今のは悪くない」

と、ガレス。

「よし」

と、俺。

「今のは褒めてる?」

と、ユリウス。

「半分」

と、父。

「うわ、父上までか」

「便利だろ」

と、ユリウス。

「便利の使い方覚えすぎなんだよ」


その時、回廊からよく通る声がした。


「朝から賑やかね」


フローレンス・ベルナールだ。


振り向くと、先生は昨日と同じ濃紺のローブをまとい、静かな顔で立っていた。

でも目だけは変わらず鋭い。

あれに見られると、ちょっと背筋が伸びる。


「先生」

「おはようございます」

と、ユリウス。

「おはよう」

と、俺。


「今朝の顔は昨日よりましね」

「え」

「少なくとも、剣を持って潰れてはいない」

「それ、褒めてる?」

「かなり」

「やった」


先生はそこで、わずかに目を細めた。


「でも、何か言いたい顔をしてる」

「うわ、もうそこまで?」

「分かるもの」

「俺、ほんとに分かりやすいな」

「はい」

と、ユリウス。

「はい」

と、クララ・ヴァイス。

「れお!」

と、ミリア。


駄目だ。この家は。


「先生」

と、俺。

「何」

「朝、ちょっと風っぽいの出た」

「風“っぽいの”」

「見えないから」

「やってみなさい」

「いきなり?」

「いま言ったのでしょう」

「それはそうだけど」

「なら、いま」


先生はもう机の前へ歩いていく。

俺も慌ててついていく。


木剣を戻す。

立つ。

冊子を開く。

先生がそれを閉じた。


「見ない」

「え」

「今日は見ないでやる」

「急に難易度上がった」

「昨日読んだのでしょう?」

「読んだ」

「今朝も」

「……読んだ」

「なら、頭にはある」

「はい」

「じゃあ、出しなさい」


強いなあ。


でも、嫌じゃない。

むしろ少し燃える。


呼吸。

胸の下。

流す。

手。

風。


一回目。

何も起きない。


「顔」

と、先生。

「う」

「失敗した時の顔をするのが早い」

「先生、それ言い方が本当に刺さる」

「刺さって直るなら、そのほうが早い」


二回目。

ほんの少しだけ、指先が冷たい。


「いま、あった?」

と、俺。

「聞く前に次」

と、先生。

「厳しい」

「教師だから」


三回目。


今度は、机の上に置いてあった紙の端が、ふ、と揺れた。


「お」


思わず声が出る。


「今の」

「今のはある」

と、先生。

「ほんと?」

「ええ」

「兄上!」

「見た」

「母上!」

「見たわ」

「父上!」

「見えた」

「よし!」


ちょっと嬉しすぎた。

いや、かなり嬉しい。


ユリウスが肩をすくめる。


「お前、そういう時だけ犬みたいだな」

「兄上、言い方」

「褒めてる」

「全然だろ」


先生は紙の位置を少し変えた。


「もう一回」

「はい」


今度は、紙じゃなくてミリアの髪がふわっと揺れた。


「みりあ!」

と、ミリア。

「お前、自分で言うな」

「かぜ!」

「そう、風」

「れお、かぜ!」


なんだそれ。

でも可愛いので許す。


先生が頷く。


「悪くない」

「おお」

「でも、まだ気まぐれ」

「気まぐれ」

「出る時と出ない時の差が大きい」

「それは分かる」

「分かるなら、次はそこ」

「うわ、終わらせてくれない」

「終わらせる理由がないもの」


先生は平然と言った。


ユリウスが横から口を挟む。


「先生」

「何」

「レオンって、魔術の時だけちょっと変わる」

「そうね」

「え、俺?」

「剣の時より、自分から前へ出る」

「兄上、それ言う?」

「見てれば分かる」

「お前までその言い方をするな」


先生はそこで少しだけ考えるように俺を見た。


「レオン」

「はい」

「あなた、本を読むのは速い?」

「え」

「速いかどうか」

「……どうだろ」

「母上、どう思う?」

と、ユリウス。

「昨日は、指定したところを全部読んでいたわ」

と、エレノア。

「昨夜も読んでいた形跡がありました」

と、クララ・ヴァイス。


やめろ。

そこ一斉に証言するところじゃないだろ。


先生の目が細くなる。


「なるほど」

「何が?」

「少し気になるだけ」

「その言い方やめてくれ。先生が言うと妙に重い」

「重くないわ」

「そう?」

「まだ」


“まだ”って言ったか今。


ほんの一瞬、胸の奥がざわっとした。


でも、それは嫌な感じだけじゃなかった。

先生に何かを見つけられた。

たぶん、そういうことだ。

前世の俺なら、人に見抜かれるのは怖かった。

でも今は少し違う。

この人に見つけられるのなら、悪いことばかりじゃない気がした。


先生は冊子を指で叩いた。


「次は風だけじゃなく、文字も見る」

「文字?」

「ええ」

「なんで」

「決まっているでしょう」

「……気になったから?」

「半分」

「残り半分は?」

「あなたの“速さ”が、どこにあるのか見たいから」


うわ。


それ、ちょっと格好いいな。

いや、格好いいとか言ってる場合じゃない。

でも、胸が少しだけ熱くなる。


ガレス・アルヴェインがそこで低く言った。


「レオン」

「はい」

「嬉しそうだな」

「……まあ」

「なら続けろ」

「うん」

「返事」

「……はい」


ユリウスが笑いながら言う。


「お前、今日ずっと顔が忙しいな」

「兄上にだけは言われたくない」

「俺?」

「さっきからちょっと悔しそうだし」

「う」


図星らしい。


「兄上」

「何」

「風、まだなんだろ」

「まだ」

「追いつく?」

「追いつくよ」

「良いな、その顔」

「そっくりそのまま返す」


兄のそういうところが、最近かなり好きだと思う。

腹は立つ。

でも好きだ。

前世の俺は、同年代の優秀な人を前にすると、もっと勝手に萎縮していた。

今のユリウスにはそれが少ない。

兄だからなのか、この家だからなのか、両方なのかは分からない。

でも、かなり大きい違いだ。


先生は最後に、俺へ二つ課題を出した。


「風を三回」

「三回」

「水は五回」

「多くない?」

「多いと思うならやりなさい」

「そういう言い方ばっかりだな」

「効くでしょう?」

「……かなり」

「よろしい」


そこで終わるかと思った。


でも先生は、去り際にふっと振り返って言った。


「それと、レオン」

「何?」

「次は、あなたと二人で話す」


「え?」


思わず間の抜けた声が出た。


ユリウスが俺を見る。

エレノアも見る。

ガレスだけは少しも驚かない。


「え、何で?」

と、俺。


「気になるから」

と、先生。

「それ、昨日も言ってたな」

「ええ」

「で、今日は二人?」

「そう」

「何を話すの」

「来たら分かる」

「うわ」

「それ、かなり嫌そうな顔」

「嫌じゃない。嫌じゃないけど、先生の“来たら分かる”はちょっと怖い」

「そうね」

「否定しないのか」

「否定する必要がないもの」


強いなあ。


先生はそのまま回廊の向こうへ去っていった。

ローブの裾が一度だけ揺れる。

足音はやっぱり軽い。


俺はしばらく、その背を見ていた。


「レオン」

と、ユリウス。

「何」

「お前、完全に次の話で主役じゃん」

「兄上、それ他人事みたいに言うな」

「だって俺じゃないし」

「冷たいな」

「いや、ちょっと羨ましい」

「ほんとか?」

「半分」

「もういいよその言い方」


でも分かる。

半分くらいは、本当なんだろう。


俺は冊子を抱え直した。


風が出た。

昨日より少し安定した。

兄も見ていた。

父も認めた。

先生は、俺にだけ次を用意した。


それだけで、胸の奥が落ち着かなかった。


怖い。

でも、それ以上に気になる。


たぶん今夜は、昨日よりもっと寝つきが悪い。


それでもいいと思った。


だって、次があるのだから。



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