フローレンス先生の授業
「庭へ行きましょう。まずは立ち方から」
そう言って、フローレンス・ベルナールはさっさと歩き出した。
早い。
屋敷へ来たばかりの客なのに、妙に迷いがない。
ガレス・アルヴェインも止めない。
エレノア・アルヴェインも笑って見送っている。
つまり、この人はそういう人なんだろう。
俺はユリウスを見る。
兄もこっちを見る。
「兄上」
「何」
「魔術の先生だよな」
「たぶんな」
「たぶんで済ませるなよ」
「でも、最初に立ち方って言った」
「言った」
「じゃあ、そういう人なんだろ」
ひどいまとめ方だな。
でもたぶん合っている。
中庭へ出る。
朝の空気はまだ少しひんやりしていた。
芝には露が残っている。
木剣立ての横には、すでにロルフ・ハイネがいた。
ロルフ・ハイネは俺たちを見るなり、にやっとした。
「おや。始まりますか」
「見物なら静かに」
と、フローレンス先生。
ロルフ・ハイネが片手を上げる。
「心得ております」
「本当ですか?」
と、俺。
「半分くらいは」
「だめだな」
ユリウスが笑う。
先生は笑わない。
でも、少しだけ口元が動いた気がした。
「並んで」
俺とユリウスは言われた通りに並んだ。
先生はまず兄を見た。
足元。肩。背中。顔。
そこから俺のほうへ視線が移る。
視線が細い。
見られているだけなのに、余計なごまかしが剥がれる感じがする。
怖いな。
でも、ちょっと面白い。
「ユリウス」
「はい」
「あなたは剣の立ち方をしてる」
「それは褒めてる?」
「半分」
「また半分か」
「でも、整えすぎ」
「……いきなり痛いな」
先生はそこで俺を見る。
「レオン」
「はい」
「あなたは、まだ自分の立ち方がない」
「うわ」
「その“うわ”で流そうとしない」
「いや、いきなり核心っぽいこと言うなって」
「言うわ。だから来たの」
強いな。
「先生」
と、ユリウス。
「何」
「弟、こういう時すぐ喋るんだ」
「見れば分かる」
「顔で?」
と、俺。
「全部で」
「言い方がちょっと怖い」
「優しい言い方がいい?」
「少しだけ」
「無理」
即答だった。
ロルフ・ハイネが後ろで笑いを噛み殺している。
絶対楽しんでるだろ。
先生は俺の前に立つ。
「右足」
「はい」
「半歩引く」
「半歩」
「そう」
「これくらい?」
「大きい」
「細かいな」
「細かく見るから先生なの」
言い返せない。
直す。
先生が今度は俺の肩を見る。
「上がってる」
「……やっぱり?」
「本人が一番分かってないの?」
「ちょっとは分かってる」
「じゃあ下げなさい」
「はい」
下げる。
下げたつもりになる。
でも先生の手が軽く肩に触れて、さらに少し下がった。
「うわ」
「痛くないでしょう」
「痛くはないけど、なんか、全部ばれる感じがする」
「そうね」
認めるのか。
「背中」
「はい」
「そこは悪くない」
「え」
「驚くところ?」
「いや、初褒めだから」
「褒めてないわ」
「じゃあ何」
「悪くないだけ」
「この家、悪くないの基準厳しくない?」
「家ではなく、私よ」
「そこは家で統一しろよ……」
今度は先生が、少しだけ息を吐いた。
「ユリウス」
「はい」
「あなた、弟のことをよく見てる」
「見てるよ」
「でも手を出しすぎ」
「え」
「自分で気づく前に、先回りして言う癖がある」
「……それもいきなり見抜くんだ」
「見抜くために見てるの」
兄が少しだけ黙る。
珍しい。
ユリウスがこうやって言葉を飲み込むの、あまり見ない。
「悪いこと?」
と、俺。
先生は俺を見た。
「半分」
「また半分」
「いいところでもあるもの」
「どっちだよ」
「兄としては良い」
「おお」
「先生としては少し邪魔」
ユリウスが苦笑いを浮かべた。
「なるほど」
「分かったなら一歩下がって」
「はいはい」
兄が本当に半歩下がる。
こういう時はちゃんと従うんだな。
そこはさすがだと思う。
先生は両手を後ろで組んだ。
「じゃあ、もう一回。何も持たないで立って」
「木剣なし?」
と、俺。
「なし」
「魔術だから?」
「いいえ」
「じゃあ何」
「持つ前に立てない子に、何を持たせても崩れるから」
うわ、格好いいな。
言い方は冷たいのに、変に頭へ残る。
こういうのが先生っぽいってやつなんだろうか。
俺たちは木剣立てへ戻し、何も持たずに立った。
「足の裏」
と、先生。
「うん」
「はい」
「“うん”じゃなくて“はい”」
「はい」
「でも今の“うん”は悪くなかった」
「どっちだよ」
「混ざるくらいには考えてるってことだから」
「先生って、たまにちょっと優しいな」
「たまにね」
先生は自分で立って見せる。
小柄なのに、妙に安定していた。
力を入れている感じがない。
なのに崩れなさそうだ。
細い木みたいだと思った。
細いのに、風が吹いても折れない感じ。
「真似して」
「はい」
俺は先生の足を見て、真似をする。
膝を軽く。
足裏全体。
腰を変に入れない。
肩を落とす。
「違う」
「早いな」
「あなたが雑なの」
「うわ」
「今のは褒めてないわ」
「分かってる」
ユリウスが横で吹き出す。
「兄上、笑うな」
「いや、お前いちいち反応いいなって」
「それが取り柄みたいに言うなよ」
「ちょっとはそうだろ」
「……否定しにくい」
すると先生が、そこで初めてはっきり笑った。
ほんの少しだった。
でもちゃんと笑ったのが分かる。
「そこはいいわね」
「どこ」
「否定しにくいと思えるところ」
「何それ」
「素直ってこと」
「え、褒めてる?」
「かなり」
「かなり!?」
やばい。
ちょっと嬉しい。
後ろでエレノアの笑い声がした。
回廊を見ると、母とミリアがいつの間にか来ていた。クララ・ヴァイスまで控えている。見物人が増えるの、早すぎないかこの家。
「レオン」
と、エレノア。
「何、母上」
「いま少し得意げ」
「分かる?」
「分かるわ」
「母、怖いな」
「便利と言いなさい」
もうそれでいいや。
先生は指先で俺の胸元を軽く示した。
「呼吸」
「してる」
「浅い」
「そこまで?」
「分かるわ」
「先生、だいたい全部分かるな」
「分かるものを分かると言ってるだけよ」
それ、いちばん強い人の言い方だろ。
「息を入れて」
「はい」
「胸じゃなくて、下」
「下?」
「そう。そこで支える」
「難しいな」
「最初から上手くできるなら、呼ばれてない」
たしかに。
その言い方には妙に納得した。
もう一度、立ち直す。
さっきより少しだけ楽だ。
いや、楽というより“詰まってない”感じがある。
木剣を持っていないからだろうか。
いや、先生の立ち方を真似たせいかもしれない。
「どう?」
と、先生。
「ちょっとだけ楽」
「それでいい」
「え、いいの?」
「強いものほど、最初は楽よ」
「うわ」
「また?」
「それ言い方、ずるい」
「いい言葉でしょ」
「すごい好きかも」
「じゃあ覚えなさい」
ユリウスが横でぼそっと言った。
「お前、先生の言葉すぐ好きになるな」
「格好いいだろ」
「分かるけど」
「兄上も好きだろ」
「少し」
少しなのか。
絶対もうちょいあるだろ。
先生は今度、机の上に冊子を開いた。
俺の青い本だ。
付箋みたいな小さな紙が挟まっている。
え、何。昨日のうちにもう読んだのかこの人。
「レオン」
「はい」
「水滴生成、昨日やった?」
「……やった」
「夜?」
「……やった」
「ふふ」
と、エレノア。
「やっぱり」
と、クララ・ヴァイス。
うわ。
全部終わってる。
「な、なんで」
「顔」
と、クララ・ヴァイス。
「枕」
と、エレノア。
「本」
と、ユリウス。
「全部だ」
と、ガレス。
家族の連携が強すぎる。
「じゃあ、やってみなさい」
と、先生。
「今?」
「今」
「え、ちょっと待って。心の準備が」
「昨日やったのでしょう」
「それはそうだけど」
「なら、今もできる」
「先生、理屈が強いな」
「教師なので」
ぐうの音も出ない。
手を開く。
呼吸を整える。
さっき教わった立ち方を意識する。
足。
肩。
力を入れすぎない。
胸の下で支える。
手へ流す。
詠唱。
何も起きない。
「よし、じゃないな」
と、ユリウス。
「兄上は黙ってて」
「今のは絶対焦ってた」
「分かるよ」
「なら直せ」
「それが難しいんだって」
「そこ」
と、先生。
「え?」
「今の“難しい”」
「うん」
「そうやって先に結果へ行く」
「……あ」
分かった。
昨日もそうだった。
できたかどうかを先に見にいっていた。
やる前から、もう終わりの顔をしていた。
「先生」
「何」
「俺、けっこう駄目だな」
「今さら?」
と、ユリウス。
「兄上、黙れ」
「黙らない」
「兄弟って本当に面倒ね」
と、先生。
「先生まで」
「でも、面白いわ」
その一言がちょっと嬉しい。
面倒じゃなくて面白い。
今の俺にはその言い方のほうが効く。
「もう一度」
と、先生。
今度は、結果を見にいかない。
呼吸。
立つ。
流す。
手。
水滴。
ぽつ。
手のひらの上に、本当に小さな水が現れた。
「あ」
と、俺。
「お」
と、ユリウス。
「まあ」
と、エレノア。
「みず!」
と、ミリア。
先生だけが、静かに頷いた。
「あるわ」
「やった」
「声を上げると散る」
「うわ」
慌てて手を見る。
水滴は揺れている。
でも、まだ残っている。
昨日の夜より長い。
「昨日よりまし?」
と、俺。
「かなり」
と、先生。
「ほんとに?」
「立ってるから」
「それだけ?」
「それが大きいの」
うわ。
魔術って、思ったより身体なんだな。
「兄上」
「何」
「俺いまちょっと格好よくない?」
「その顔で言うなよ」
「なんで」
「完全に調子乗ってる」
「調子くらい乗るだろ。水だぞ」
「それはまあ、そう」
兄も否定しない。
それどころか、少しだけ嬉しそうだ。
そこが兄のいいところだと思う。
からかうくせに、こっちが本当に前へ行った時は、ちゃんと喜ぶ。
「もう一回」
と、先生。
二回目は出なかった。
三回目も。
四回目はほんの少しだけ湿った感じがして、五回目でまた一滴。
「波がある」
と、先生。
「ある」
と、俺。
「それを知るのも大事」
「うん」
「返事」
と、父。
「はい」
うわ。
いつの間にそんな近くに。
ガレス・アルヴェインは俺の手のひらと立ち方を見て、短く言った。
「悪くない」
「おお」
「でも調子に乗るな」
「そこまでセット?」
「当たり前だ」
「父上ってほんとに父上だな」
「意味が分からん」
「褒めてる」
「半分だな」
と、ユリウス。
完全にこの家の人間になってきたな、兄。
先生はそこで冊子を閉じた。
「今日はここまで」
「え」
「不満?」
「いや、もうちょいやりたい」
「顔」
「分かってる」
「なら明日」
「おお」
明日。
その言葉が前世の俺には重かった。
でも今の“明日”は少し違う。
木剣がある。
先生がいる。
本もある。
しかも今日は、ちゃんと一滴が出た。
それだけで、明日は少しだけ楽しみになる。
先生は俺に冊子を返し、次のページを指した。
「ここ」
「読むの?」
「読む」
「全部?」
「全部」
「先生、けっこう容赦ないな」
「好きなものをやる時くらい、少し厳しくないと」
「それ、ずるい」
「ええ。教師だから」
その返し方も少し好きだ。
先生が去ったあと、俺はもう一度だけ掌を見た。
水滴は残っていない。
でも、たしかにあった。
昨日より長く、少しだけ安定して。
ユリウスが隣へ来る。
「レオン」
「何」
「今日、かなり浮かれてるな」
「分かる?」
「分かる」
「そりゃ浮かれるだろ。二回出た」
「三回だ」
「え?」
「最初の小さいのも入れたら三回」
「兄上、見てたんだ」
「見てたよ」
少しだけ、胸の奥があたたかくなる。
兄に見られている。
ただからかわれるだけじゃなく、ちゃんと数えてもらっている。
そういうのは、結構嬉しい。
「兄上」
「何」
「追いつくの、時間かかるな」
「かかるだろうな」
「でも、追いつきたい」
「うん」
「兄上は?」
「何が」
「待っててくれる?」
「待たない」
「うわ」
「その代わり、振り返る」
「……それちょっとずるいな」
「格好いいだろ」
「腹立つけど、ちょっとだけ」
兄は笑った。
俺も笑ってしまった。
前世の俺は、こういうやり取りがもっと苦手だった。
誰かに軽く返されると、それだけで自分が遅れていることを思い出して、笑えなくなることが多かった。
今は少し違う。
遅れているのは分かっている。
でも、その遅れを前提にしながらも、まだ前へ行ける気がする。
たった一滴だ。
でも、その一滴はかなり大きかった。
その日の昼前。
俺は自分の部屋で青い冊子を開いていた。
窓の外は明るい。
中庭には兄の声。
遠くで父の短い声もする。
屋敷の中には母とミリアの笑い声。
全部がちゃんと今ここにある。
冊子の次のページをめくる。
そこには、水の次の項目が載っていた。
風。
「……うわ」
声が出た。
昨日までは水だけで頭がいっぱいだった。
なのに、もう次がある。
この世界、ずるいな。
ちょっとできると、すぐその先を見せてくる。
しかも、その先がちゃんと面白そうなのだ。
俺は冊子を抱え直した。
明日、絶対訊こう。
風ってどうやるんだ。
先生はどんな顔で教えるんだ。
兄は何て言うんだ。
父はまた短く何か言うんだろうか。
そんなことを考えながら、俺はページの上に指を置いた。
次の話がちゃんとある。
そのことが、今はたまらなく嬉しかった。




