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Another Life 〜異世界で始まる二度目の人生〜  作者: 華詩手


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初めての水滴



その夜、俺は寝たふりをした。


いや、寝るつもりはあった。あったのだが、無理だった。枕の横に置いた青い冊子が悪い。『初歩魔術・はじめの一冊』。あの表紙が見えるだけで、頭の中が落ち着かない。木剣を持った日の夜に腕がじんじんして眠れないことはあっても、本を見て眠れないのは前世からの悪い癖だ。


気になる本があると、先に明日の自分を信じて寝るということができない。


今読める。今開ける。今知れる。だったら今だろ。


問題は、部屋の外にクララ・ヴァイスがいることだった。夜更かしに寛容な侍女ではない。というか、あの人は俺が「今は眠くないだけで別に悪いことしてません」みたいな顔をしてもたぶん通さない。見れば分かりますので、で終わる。


だから俺は一度ちゃんと布団へ入った。


目を閉じる。呼吸を整える。眠いふりをする。


たぶん五分くらいそうしていた。


そのあと、部屋の前の足音が遠ざかったのを聞いてから、そっと片目だけ開けた。


静かだ。


屋敷の夜は、前世の家とは音の種類が違う。あっちは冷蔵庫の低い唸りとか、階段を上がる足音とか、テレビのつけっぱなしとか、そういう生活の音が遠くに残っていた。こっちはもっと広くて、もっと薄い。遠くで火が小さく鳴る音。廊下を巡回する誰かの足音。窓の外の風。たまに馬が鼻を鳴らす気配。そういうものだけだ。


俺はそっと身体を起こした。


「よし」


小さく呟く。言ったところで勇気は増えないが、こういう時に一回声を出すと始まる気がする。


冊子を開く。


薄い本だ。けれど中身は薄くない。前の世界の子ども向け図鑑みたいに、やさしい顔をしながら普通に知らないことを並べてくる。


火。水。風。土。


魔術には大きく四つの系統があるらしい。さらに細かい分かれ方もあるようだが、最初はここかららしい。暮らしの中で使う小さな術と、戦いの中で使う術は、同じ属性でも全然別の扱いになる。そこが面白い。剣と同じだ。木剣を振るのと、人に向けて切るのが同じではないように。


「生活魔術は、まず量より安定。安定より再現」


小さく読み上げる。


難しい言い方だ。けれど嫌いじゃない。むしろ好きだ。前世でも、こういう「なんか賢そうな説明」を読むのはけっこう好きだった。ただ、好きなだけで終わることが多かった。資格の本も、自己啓発本も、途中までは面白く読むのに、試験や行動の段階で急に重くなる。


今はまだそこまで行っていない。


だから、純粋に面白い。


「再現、ねえ……」


大事なのは一回出せることじゃなく、同じようにまた出せること。たぶん父が木剣で言いたいのも同じだ。昨日たまたま受けられたことに意味はある。でも本当の意味が出るのは、それを今日も明日も繰り返せた時なのだろう。


そこは分かる。


分かるけど、最初の一回に浮かれるなと言われたら、そりゃ浮かれるだろとも思う。


だって魔法だぞ。


ページをめくる。


簡単な詠唱。呼吸。立ち方。手の向き。意識の置き方。かなり丁寧だ。というか、五歳児向けなのかもしれない。ありがたい。最初から難しい理論を出されても困る。


「胸の内に留めた魔力を、意志に従い、手へ流す」


また賢そうだな。


「留めた魔力って、最初からある前提なんだ」


そう呟いてから、少しだけ考えた。


前世では当然、魔力なんてものを意識したことはない。意識したことはないが、こっちの身体にはあるらしい。そう思うと、ちょっと嬉しい。何だそれ。ずるいだろ。前世の俺に一番足りなかったの、そういう「最初から自分の中にあるものを信じる感じ」だったのに。


いや、信じるにはまだ早い。まず出せ。話はそれからだ。


俺は布団の上で膝を立て、冊子を見ながらそっと手を開いた。


昨日の一滴を思い出す。ほんの一瞬だった。でもあった。間違いなくあった。手のひらの上に、小さく丸い水が。


呼吸。胸。手。


そう。そこまではいい。


その先が難しい。


意識を流す、というのがどうにも曖昧だ。血を流すみたいな感じか。いや、血を流すのはちょっと嫌だな。息を通す感じか。兄は「置く」と言っていた。母は「慣れる」と言った。先生は「立ち方」からだと言った。父はたぶん「ごちゃごちゃ言う前にやれ」としか言わない。


全員、言ってることが少しずつ違う。


でも、たぶん全部同じところを見てる。


「じゃあ、やるか」


小さく唱える。


何も起きない。


知ってた。


いや、ちょっとだけ期待はした。期待はしたけど、初回でぽんぽん出るなら苦労しない。むしろ出たら怖い。屋敷を水浸しにでもしたら、クララ・ヴァイスにどんな顔をされるか分かったものではない。


もう一度。


今度は少し真面目に。背筋を伸ばし、足を意識して座り直す。冊子には立てとあるが、寝間着で夜中に急に立ってやるのもどうかと思う。というか、こっそりやってる時点でだいぶどうかと思う。


息を吸う。吐く。唱える。


やっぱり何も起きない。


三回。四回。五回。


何も起きない。


「……うわ、これ、普通に凹むな」


本当は、もう少しこう、頑張ったぶんだけ何かしら返ってきてほしい。でも世界はそんなに都合よくないらしい。いや、死んで赤ん坊に転生した時点でだいぶ都合はいいんだけど、その後の練習はちゃんと地道だ。


冊子を閉じる。


眠気は、さっきより遠くなっていた。


本を読めば読んだだけ、余計に気になる。気になるのに結果は出ない。そういう夜は前世にもあった。資格本を開いて、最初の数十ページだけ妙に面白くて、でも実践問題で途端に現実が重くなる感じに少し似ている。


ただ、今はまだ重いだけじゃない。


悔しい、のほうが強い。


それは悪くない変化だと思う。


前世の俺は、悔しいと思う前に「あ、俺向いてないかも」で逃げていたからだ。今の俺は、向いてるかは知らないが、もうちょっとやりたいと思っている。


「……でも明日、朝もあるんだよな」


急に現実へ戻る。


木剣。父。兄。


そこへ魔法の先生まで来るかもしれない。


わくわくと嫌な予感が半々だった。いや、わくわく六、嫌な予感四くらいか。少しずつ配分が変わっているのは自分でも分かる。


冊子を枕の下へ戻し、今度こそ目を閉じる。


その夜は前より少しだけ寝つきが悪くて、でも前世の夜よりはずっと希望があるような、妙な眠りだった。


朝、俺は夢の続きを引きずったまま目を開けた。


夢の中で何をしていたかはよく覚えていない。たぶん前世の学校だ。廊下の匂いだけが残っている。ロッカー。靴箱。白い壁。ああいう夢を見ると、目が覚めたあとに胸の真ん中が少しだけ冷たくなる。


でも今日は、その冷たさが長く続かなかった。


「レオン。おい、レオン」


布団の端を引かれる。


「……兄上」


「起きてる?」

「起きてる」

「その声は半分寝てる」

「半分なら起きてるだろ」

「半分じゃ駄目だよ」

「朝から理屈が強いな」


ユリウス・アルヴェインが俺を覗き込む。今日も朝から仕上がった顔だった。髪も服もきれいだし、目も覚めている。寝起きのだらっとした感じがない。何なんだろうな、この人。兄だから許されているけど、他人だったら少し腹立つ。


「兄上」

「何」

「昨日、夜更かししてない?」

「してないけど」

「なんでそんなに元気」

「寝たから」

「参考にならないなあ」


ユリウスが笑う。


「お前、夜なんかしてたろ」

「え」

「顔」

「ああもう、その言い方ほんと嫌だ」

「何してた?」

「別に」

「本だな」

「なんで分かる」

「分かるよ。お前、本見た次の日だけ目が変だもん」

「どんな目だよ」

「寝不足とやる気が混ざった変な目」

「兄上、朝から言葉選びがひどいな」

「当たってる?」

「……半分」

「ほら」


そこで、案の定というべきか、クララ・ヴァイスが入ってきた。


「おはようございます、レオンさま。ユリウスさま」

「おはよう、クララ」

「おはようございます」


クララ・ヴァイスは俺の顔を見て、一拍だけ止まった。


「レオンさま」

「何」

「昨夜はお休みになりましたか」

「なった」

「本当に?」

「……半分くらい」

「やはり」

「なんで分かるんだよ」


クララ・ヴァイスは一つ息をついた。


「起きた瞬間から、魔術の本のほうを向いていらっしゃいます」

「うわ」

「しかも枕が少し高い」

「うわ」

「枕の下に何かを隠した時の高さです」

「うわあ……」


完全に詰んでる。


ユリウスが腹を抱えて笑い始めた。最低だな。


「兄上、笑いすぎ」

「だってお前、分かりやすすぎる」

「昨日から全員それ言う」

「だって本当にそうだし」

「便利な家だな」


クララ・ヴァイスは枕の下から青い冊子を抜き出し、それを俺に見せた。


「こちらですね」

「返して」

「朝餉のあとで」

「母上みたいなこと言うな」

「よいものはよい考え方ですので」

「すでに家の方針になってるな……」


着替えながら、俺はさっきまでの夢を思い出していた。学校。廊下。あの手の夢は、起きた直後だけ嫌に鮮明だ。でも今の屋敷の朝は、その嫌な感じを長く残さない。兄がうるさいし、クララ・ヴァイスは鋭いし、朝餉の匂いはするし、これから剣もある。その全部が、嫌な記憶を押し流す。


前世を忘れたいわけじゃない。


でも、今の朝に負けるくらいの強さでだけ、前世が残っていてくれたらいいと思う。


食堂へ行くと、今日は父がまだ来ていなかった。


珍しい。


エレノア・アルヴェインがすでに席についていて、ミリア・アルヴェインは乳母の膝で不機嫌そうにしていた。眠いのかもしれない。


「おはよう、レオン」

「おはようございます、母上」

「今日は少し目の下が」

「母上、それ以上は言わないで」

「本を読んでいたの?」

「言わないって言ったのに」

「当たり?」

「顔で分かるのやめてくれない?」


エレノアが笑い、ユリウスがまた肩を揺らす。ミリアだけが何が面白いのか分からないまま「れお!」と元気に呼んだ。


「れお、ほん!」

「お前も知ってるのかよ」

「ほん!」


屋敷に秘密はないらしい。


そこへ、ガレス・アルヴェインが入ってきた。少しだけ遅い。後ろには見慣れない使用人が一人いる。書状らしいものを持っていた。父は席につく前に、それをエレノアへ渡した。


「返事が来た」

と、父。


エレノアが封を切る。視線を走らせる。少しだけ目を細め、それから俺とユリウスを見た。


「まあ」

「何?」

と、ユリウス。

「来てくださるそうよ」

「ほんとに?」

と、俺。


何の話か分かった瞬間、椅子から少し浮きそうになった。


昨日、中庭で父が言っていた。魔術師を呼ぶ。先生をつける。そういう話だ。まだ決まったわけじゃないと思っていた。手紙を出したと言っていたから、もう少し先だと勝手に思っていた。


「早くない?」

「早いほうがいい」

と、ガレス。

「でも今日?」

「今日だ」

「うわ」


思わず声が出た。


ユリウスがにやっとする。


「レオン、顔」

「うるさい」

「楽しみ七、不安三」

「昨日より分析が雑だな」

「だいたい合ってるだろ」

「……まあ」


合ってるのが悔しい。


エレノアが手紙を読みながら補足する。


「昼前に着く予定だそうよ」

「昼前」

「父上、いきなりだな」

と、ユリウス。

「手紙の返事が早かった」

「父上の顔を立てたんだろ」

「知らん」

「絶対そう」

「お前はよく喋る」

「兄上もだろ」


ミリアが会話の意味も分からず嬉しそうに手を叩いた。


「せんせ! せんせ!」

「お前はそれだけで喜べるんだな」

「せんせ!」


たぶん、先生という単語が楽しいのだ。小さい子どもはそういうものだ。俺も前世で小さい頃はそうだったのかもしれない。いや、記憶がない。小さい頃の記憶って案外残らないな、と転生してからよく思う。残るのはもっとあと。学校とか、家族とか、止まってしまった時間とか、そっちだ。


「レオン」

と、ガレス。


「はい」

「朝餉のあと、庭」

「はい」

「今日は剣を先に終える」

「……先生の前に?」

「そうだ」

「父上、それって」

「間の抜けた顔を見せるな」


ひどいな。


でもたぶんその通りだ。剣の稽古のあとで少し身体を落ち着かせてから、先生と会う。順番としてはありがたい。いやありがたいのか? 木剣で顔に出た疲れと魔術の本で顔に出る期待が混ざった変な子どもになるだけな気もする。


「兄上」

「何」

「先生ってどんな人」

「怖い」

「母上もそう言ってた」

「本当に怖い」

「どう怖い」

「静かに怖い」

「それ一番嫌なやつだろ」

「でも、見てると面白い」

「兄上、その感想ちょっと危ないな」

「レオンにだけは言われたくない」


朝餉は、いつもより少しだけ落ち着かなかった。


理由は俺だ。


パンをちぎっても、スープを飲んでも、頭のどこかでずっと先生のことを考えている。どんな人だ。何を聞かれる。いきなり詠唱させられるのか。昨日の冊子を読んだくらいで通じるか。いや通じるわけない。でも全部駄目ではないはずだ。昨日の水滴はたしかに出た。そこは嘘じゃない。


「レオン」

と、エレノア。

「何?」

「パン」

「食べてる」

「持ったまま止まってる」

「うわ」


本当だ。


ユリウスが笑う。


「本当に分かりやすいな」

「兄上、今日それ何回目」

「だって飽きないし」

「最低だな」


ガレスがそこで言った。


「気になるなら、来てから見ろ」

「……うん」

「返事」

「はい」


短い会話だ。でも、それで少しだけ気が落ち着く。来る前から想像で疲れるな、ということだろう。たしかにその通りだ。


前世の俺は、来る前から疲れるのが得意だった。面接も、相談も、教室も、外出も。全部そうだ。起きる前から駄目になっていた日もある。それと比べれば今の俺は、まだずっとましだ。少なくとも食卓にいて、パンを持って、家族と話しながら先生のことを考えている。


それは、かなり前向きな緊張だと思う。


朝餉のあと、庭へ出る。


木剣は今日も重い。だが初日に比べればずいぶんましだ。何度か構えと受けを繰り返すうち、昨日よりさらに少しだけ「嫌じゃない」が増えていく。


ユリウスはやっぱり自然だ。腹立つくらい自然だ。けれど今朝は、それをただ見上げるだけでは終わらなかった。父に何度か直され、ロルフ・ハイネに笑われ、兄に軽口を叩かれながら、それでも二回に一回は木剣を落とさずに残れる。


「今のはいい」

と、ガレス。

「ほんと?」

「昨日よりは、だ」

「その“は”が嫌なんだよな」

「嫌なら今日を越えろ」

「父上って、たまにすごいこと軽く言うよな」

「たまにか?」

と、ユリウス。

「毎回はすごいと言ってやるな」

「優しいな俺」


そういう会話をしているうちに、屋敷の正面玄関のほうで馬車の止まる音がした。


俺もユリウスも、同時にそっちを見る。


「来たな」

と、ガレス。


それだけで空気が変わる。


中庭にまで、屋敷の中が少しだけ改まる感じが伝わってくる。使用人たちの足音が少し早くなり、扉の開閉がきびきびする。客だ。しかも父と母がわざわざ応対に出る程度の客。


「木剣を戻せ」

と、父。


俺は慌てて立てへ戻した。掌が少し汗ばんでいる。


「顔、いま最悪」

と、ユリウス。

「うるさい」

「息」

「うるさい」

「でも、落ち着け」

「……分かってる」


兄の言い方が、少しだけいつもと違った。軽口のままなのに、ちょっと真面目だ。こういう時のユリウスはずるい。普段はからかうくせに、大事な時だけちゃんと兄になる。


ガレスと一緒に玄関ホールへ向かう。エレノアはすでにそこにいて、クララ・ヴァイスも少し後ろに控えていた。ミリアは乳母に抱かれていて、何となく楽しいことが始まると察している顔だ。


そして、その中央に一人の女が立っていた。


黒に近い濃紺のローブ。

長い灰青の髪。

細い。小柄だ。

なのに、やけに目を引く。

姿勢のせいだろうか。

それとも、目か。


目が鋭い。


怒っているわけではない。

笑ってもいない。

でも見られた瞬間、こっちの余計なものが一枚剥がれる感じがする。


怖いな。


でも、ちょっと格好いい。


ガレス・アルヴェインが短く言う。


「フローレンス・ベルナールだ」

「初めまして、ベルナール先生」

と、ユリウス。

「初めまして。レオン・アルヴェインです」

と、俺。


フローレンス・ベルナールは俺と兄を交互に見た。


まずユリウスを見る。

次に俺を見る。

もう一度俺を見る。


それだけなのに、どうしてか変に緊張する。見た目を見られているというより、もっと中のほうを見られている感じがするからだ。


先生は低く、よく通る声で言った。


「よく動く目ね」

「え」

「見ようとしている目」

「それ、褒めてます?」

「半分」

「やっぱり半分なんだ……」

と、ユリウス。


先生は兄を見る。


「こちらは剣の子」

「そう見えますか」

「見えるわ。整えようとしすぎる」

「いきなり痛いな」

「痛いだけで済むうちはいいわ」


その返しに、ユリウスの顔が少しだけ引き締まる。


次に、先生は俺を見た。


「あなたは」

少し間があった。

「騒がしい子ね」

「うわ」

と思わず声が出た。


エレノアが笑いを堪え、クララ・ヴァイスは視線を逸らした。たぶん笑ってる。ロルフ・ハイネが後ろで肩を揺らしているのも見えた。父だけが無表情だ。助けろよ。


「初対面でそれ言います?」

と、俺。

「言うわ」

「いや、その、もう少しこう、子どもの夢を守る感じで」

「魔術は夢だけでは扱えないの」

「強いな」

「でも悪くないわ」

「今のは?」

「半分褒めてる」

「この家、半分評価で回ってるな」


先生の口元が、ほんの少しだけ上がった。


笑ったのか。

それとも錯覚か。

でも少しだけ、空気がやわらいだ気がした。


「魔術は好き?」

と、先生。


「好きです」

「即答ね」

「だって魔法だぞ」


自分で言ってから、少しだけ後悔した。

いや、後悔というより「またそれか」って感じだ。

でも嘘はついていない。本当にそれが一番大きい。


先生は一瞬だけ目を細め、それからはっきり言った。


「その答えは嫌いじゃないわ」

「お」

「でも、それだけでは続かない」

「う」

「好きなものほど、基礎がいる」

「父上みたいなこと言う」

と、俺。

「必要なことだ」

と、ガレス。

「ほら」


フローレンス先生は俺たち兄弟をもう一度見た。


「今日は顔合わせだけのつもりだったのだけれど」

「だけれど?」

と、ユリウス。

「少しだけ見る」

「え」

と、俺。

「少しだけ?」

「少しだけ、よ」

「その少しが怖いな」


先生は踵を返した。


「庭へ行きましょう。まずは立ち方から」


魔術の先生なのに、最初が立ち方なのか。


そう思ったけれど、口には出さなかった。

出したらたぶん即座に「そうよ」と返ってくる。しかもその「そうよ」がかなり効くやつだ。


俺はユリウスを見た。

兄もこっちを見る。


「兄上」

「何」

「ちょっと怖いな」

「言っただろ」

「でもちょっと面白い」

「それも言った」


そう言って、兄は少しだけ笑った。


俺も少しだけ笑う。


先生はもう先へ歩いている。

足は速い。

迷いがない。

でも、その背を見ていると不思議と嫌なだけではない。


何かが始まる。

たぶん今までと少し違う何かが。


そう思うと、怖さの横でわくわくも膨らんでいた。


俺はその背中を追った。

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