この家の朝
「起きろ、レオン。朝だぞ」
布団の端を引っ張られて、俺は顔だけ出した。
「……聞こえてる」
「聞こえてるなら起きろよ」
「聞こえてるのと起きるのは別だろ」
「別じゃない。朝なんだから同じだ」
同じなわけあるか。
目を細めて見上げると、そこには見慣れた顔があった。金に近い明るい髪。勝気そうな目。朝から妙にしゃんとした立ち姿。ユリウス・アルヴェイン。俺の兄だ。三つ上。元気が服を着て歩いているような人間である。
「兄上」
「何」
「まだ眠い」
「知ってる」
「知ってるならもう少し優しく」
「一回目で優しく起こした」
「何回目?」
「三回目」
俺は布団の中で少し考えた。
「それ、本当に一回目で優しく起こした?」
「かなり優しくした」
「兄上の“かなり”は信用できない」
「お前、最近その言い方覚えたな」
「便利だから」
「誰の影響だよ」
家族全員の顔が一瞬で頭に浮かぶ。母の笑った顔。父の短い返事。クララ・ヴァイスの涼しい顔。みんな最近よく“便利”と言う。使い勝手がいいのだろう。たしかに便利だ。
俺は寝台の上で身を起こした。
転生してから五年が経っていた。
五年。長いようで、まだ五年だ。最初の頃は泣くか寝るかしかできなかったのだから、今こうして兄に言い返しているだけでも、だいぶ前進していると思う。歩ける。走れる。喋れる。言葉もちゃんと分かる。鏡を見れば金髪の子どもがいるのにも、もうかなり慣れた。
それでも時々、朝の一瞬だけ、ここがどこで自分が誰なのかが少し曖昧になる。目が覚めた瞬間に思い浮かぶのが前世の天井だったり、母さんの台所の音だったりする日もある。今日も少しだけそうだった。けれど、布団を引っ張る兄の声を聞いたら、曖昧さはすぐ飛ぶ。
この家には、朝の音がちゃんとある。
ユリウスが腕を組んだ。
「今日は父上が先に庭に出てる」
「うわ」
「その顔、失礼だろ」
「だって嫌な予感しかしない」
「お前、最近顔に出すぎ」
「兄上にだけは言われたくない」
すると兄が鼻で笑った。
「俺はそんなに分かりやすくない」
「いや、かなり分かりやすい」
「誰情報」
「母上」
「それは……まあ、母上ならそう見えるか」
兄はそこで少しだけ口を曲げた。そういう顔をすると年相応に見える。普段は兄のほうがずっと大人っぽく見えるのに、こういう時だけちゃんと八歳だ。
「早く着替えろよ。朝餉、遅れるぞ」
「兄上、先に行けば?」
「父上に“弟を起こしてこい”って言われてる」
「じゃあ兄上の用事じゃないじゃん」
「俺の用事になった」
「理不尽だな」
「兄弟ってそういうもんだろ」
そんなもんなのか。前世に兄はいなかったから、このへんはまだよく分からない。けれど、ユリウスがこうして部屋にずかずか入ってきて、勝手に世話を焼いて、でもあんまり“世話してます”って顔をしないところは、たぶん兄らしいんだろうと思う。
俺がようやく寝台から降りると、兄は満足したように頷いた。
「お、今日は早いな」
「起こしたの兄上だろ」
「起こしても起きない日もある」
「それは朝が悪い」
「そういうとこだぞ」
扉が開き、ちょうどクララ・ヴァイスが入ってきた。
「おはようございます、レオンさま。ユリウスさま」
「おはよう、クララ」
「おはようございます」
クララ・ヴァイスは若い侍女だ。栗色の髪をきっちりまとめていて、朝から服も表情も乱れがない。俺が少し寝ぼけたことを言っても、ほとんど眉を動かさない。たぶん屋敷の中でもかなり仕事ができる側の人だと思う。本人に言うと「当然です」と返ってきそうなので言わないが。
「レオンさま、今日はすでに起きていらっしゃるのですね」
「兄上がうるさいから」
「役に立ちましたね、ユリウスさま」
「だろ?」
「そういうところだけ素直に受け取るなよ」
ユリウスは気にせず肩をすくめた。
「じゃあ先行く。遅れるなよ」
「分かってる」
「その返事が一番怪しいんだよな」
「ひど」
「事実だ」
「兄上、今日ちょっと腹立つな」
「今日“も”じゃないのか」
「朝から元気すぎるから今日は特に」
「それは褒めてる?」
「少しだけ」
「少しか」
兄は笑って部屋を出ていった。足音まで軽い。ああいうふうに朝から前向きな人間って本当にいるんだなと、いまだに時々不思議になる。
クララ・ヴァイスが着替えを整えながら言った。
「今日は本を隠して持っていこうとなさっていませんね」
「なんで分かる」
「本日、部屋のどこにも隠しやすそうな膨らみがありません」
「侍女って怖いな」
「見ていれば分かります」
「やめてくれ。その言い方、だいたい逃げ場がなくなる」
「逃げたいのですか」
「少しだけ」
「少しだけ?」
「庭のほうが気になる」
「本よりも?」
「それは……半々くらい」
「本日は正直ですね」
「昨日の夜に考えた」
「何をです?」
「本ばっかり見て、木剣のこと後回しにすると、父上の目が怖い」
「今ごろお気づきに」
「前から気づいてはいたんだよ」
「では実行してください」
こういうところだ。クララ・ヴァイスは俺の言い訳を聞き流さない。でも、頭ごなしに叱るわけでもない。ただ、やるべきことへ戻してくる。前世でこういう人が近くにいたらどうなっていただろうな、とたまに思う。うまくいったかもしれないし、余計に逃げたかもしれない。分からない。ただ、今の俺にはありがたい。
着替えを終える。顔を洗う。髪を整える。鏡の中には相変わらず見慣れたようで見慣れない子どもがいる。金の髪。まだ丸い顔。前世の俺とは似ても似つかない。なのに鏡越しに眉をひそめる癖だけは同じで、そういうところに笑ってしまう。
「朝餉の前に、書庫へ寄ろうとなさらないでくださいね」
と、クララ・ヴァイス。
「寄らない」
「本当に?」
「……寄らない」
「間がございました」
「気のせい」
「いいえ」
完全に見抜かれている。
扉を出ると、屋敷の朝の匂いがした。焼きたてのパン。スープ。木の匂い。少し冷たい石の床。遠くで誰かが窓を開ける音がして、厩舎のほうから馬の鼻を鳴らす声が届く。この家の朝は前世の家とは何もかも違う。でも朝は朝だ。人が起きて、動き出して、音が広がっていく。そこは少し似ている。
食堂の扉を開けると、ミリア・アルヴェインがいちばん先にこちらを見つけた。
「れお!」
「おはよう、ミリア」
「れお、おそい!」
「いや、早いだろ」
ミリアは俺の妹だ。まだ小さい。歩けるようにはなったが、椅子に一人でじっと座っていられるほどではない。今日は乳母のエリゼ・モーランの膝に乗っていて、俺を見るなり身を乗り出してきた。落ちるだろ、それ。
「ミリア、落ちます」
と、エリゼ・モーラン。
「や!」
「や、ではありません」
「れお!」
理不尽である。
食卓にはすでに両親と兄が揃っていた。ガレス・アルヴェインは相変わらず背筋が真っ直ぐで、朝から顔色ひとつ変わらない。エレノア・アルヴェインはやわらかく笑っている。ユリウスはパンをちぎりながら、案の定こちらを見てにやりとした。
「遅かったな」
「兄上が起こしたのに何でそんな顔できるんだよ」
「ちゃんと起きるか見てただけ」
「見てただけって便利な言い方だな」
「便利だろ?」
こいつ絶対わざとだ。
エレノアが笑いながら手招きした。
「おはよう、レオン」
「おはようございます、母上」
「今日は顔が少ししゃんとしてるわね」
「母上もそれ言う?」
「何を?」
「みんな顔で分かるって言う」
「分かるもの」
「便利だな」
「でしょう?」
この家、全員同じ言葉を面白がって使う。
俺が席につくと、ガレス・アルヴェインが一度だけこちらを見た。
「起きたか」
「はい、父上」
「今日は庭に来い」
「……朝餉のあと?」
「そうだ」
「なんで」
「見れば分かる」
またそれだ。
ユリウスが笑いを堪えきれない顔をしている。兄は何か知っているらしい。でも教える気はないらしい。腹立つなあ。
「父上」
「何だ」
「見れば分かる、便利すぎない?」
「説明はあとだ」
「つまり何かあるんだな」
「ある」
「重い?」
「重くはない」
「嫌なこと?」
「そう思うなら来るな」
それは困る。
というか、その言い方はずるい。来ないと自分で認める形になる。前世の俺はこういう問いかけに弱かった。逃げ道が見えた瞬間にそっちへ転びたくなるくせに、正面から「来るな」と言われると意地でも動きたくなる。そこだけ変に面倒くさい。
「行きます」
「よろしい」
と、父。
「顔」
と、ユリウス。
「うるさい」
「また出てた」
「兄上、朝からほんと腹立つな」
「褒めてる?」
「それ聞くの好きだよな」
「気になるから」
エレノアが紅茶を口元へ運びながら言う。
「ユリウス、からかいすぎ」
「半分だけですよ」
「残り半分は?」
と、俺。
「心配」
と、兄。
それを聞いて、一瞬だけ言葉が詰まった。真顔で言うな、ずるいだろ。俺が黙ると、ユリウスは少しだけ得意げになった。ああもう、本当に腹立つ。
ミリアがそこで俺の皿を指差した。
「れお、ぱん!」
「え、くれるの?」
「ぱん!」
「ミリア、それはレオンの分ではなくてあなたの分よ」
と、エレノア。
「れお!」
「兄上にやれよ」
「なんで俺なんだ」
と、ユリウス。
「仕上がってるから似合う」
「意味分からない」
少しだけ食卓が笑った。
前世の俺がいちばん羨ましく思うのは、こういう時だ。家の中の笑いに自分が混ざっている瞬間。前世の家にも笑いはあった。でも後半の俺は、そこから半歩外れていた。笑いが起きても、自分だけ少し遅れて受け取っていた気がする。今は違う。自分で変なことを言って、自分で笑われて、そのまま会話が続く。それだけのことが、結構ありがたい。
朝餉はいつも通り美味かった。パンもスープも、前世では食べたことのないものが多い。それでも「朝に食べるもの」という括りでは同じだ。時々、味噌汁の匂いが急に懐かしくなる時もある。だからといって今のパンが嫌になるわけじゃない。両方が並んでいる感じだ。
食べ終わると、父が先に立った。
「庭だ」
やっぱり短い。
「兄上、何するんだ」
と、俺。
「言わない」
「なんで」
「お前、予想してる時の顔が面白いから」
「最低だな」
「知ってる」
ユリウスは木剣の布袋を肩にかける。ああ、そっちか。嫌な予感が濃くなる。俺も最近、自分の木剣は持っている。でもまだ“自分のもの”に馴染みきっていない。置いてあるとちょっと嬉しいが、握るとたちまち現実になる。
中庭へ出る。朝の空気は少しだけ冷たい。石畳は夜の名残りを残していて、芝生にはまだ露が光っていた。ロルフ・ハイネがすでに待っている。いつもの護衛騎士だ。体格が良く、笑うと少し子どもっぽく見えるが、木剣を持つと急に騎士っぽくなる。
「おはようございます、坊ちゃん方」
「おはよう、ロルフ」
「おはようございます」
ガレス・アルヴェインが木剣立ての前で振り向く。
「レオン」
「はい」
「これを持て」
父が一本の木剣を差し出した。
やっぱりか。
受け取る。
重い。
いや、重すぎるわけじゃない。五歳の身体でも持てる。でも軽くはない。見た目より前が重い。最初に持った時も思ったが、木剣ってもっと雑に振り回せるものだと思っていた。前世の子どものおもちゃみたいな感覚があるからだろう。実際には全然違う。これは振れば痛いし、下手に当たれば怪我もする。それくらいの重さがちゃんとある。
「立て」
と、父。
「立ってるけど」
「そういう意味ではない」
「来たな、それ」
と、ユリウスが楽しそうに言う。
「兄上は黙ってろ」
「いや、もう分かるんだよ。父上が今から何を言うか」
「それが腹立つ」
ロルフ・ハイネが肩を揺らす。ああ、笑ってるな。
父が一歩近づく。
「足」
「はい」
「広い」
「もう?」
「肩」
「はい」
「上がってる」
「うわ、ほんとに来た」
「背中」
「父上、情報量多いな」
「口を閉じろ」
閉じた。
兄がすぐ横でわりと綺麗に構えているせいで、余計に自分の雑さが分かる。剣先が落ち着かない。足がふらつく。肩に変な力が入る。自分ではなんとなく立っているつもりでも、父の目には全部見えているらしい。
「兄を見るな」
「……はい」
ばれてる。
悔しい。
でも、見てしまう。
兄はすでに“それっぽい”からだ。八歳の子どもの木剣だというのに、こっちは“やってる人”に見える。俺はまだ“持ってる人”だ。
「構え」
「はい」
「遅い」
「父上、もうちょっと段階を」
「段階は今だ」
「会話が強いな」
父の手が俺の肩と肘を直す。力は強くない。けれど迷いがない。ここ、という位置へさっさと置いてくる。そうされると、不思議なくらい身体が楽になる。見た目は窮屈なのに、無理な力が抜ける。
「そのまま」
「はい」
「目を上げろ」
「はい」
「剣を見るな」
「無理だろ。危ないし」
「相手を見る」
「うわ、父上ほんと強いな」
「口を閉じろ」
「はい」
横でユリウスがまた笑う。
腹立つなあ。
「兄上」
「何」
「なんでそんなに自然なの」
「毎日やってるから」
「それ答えになってるようで、なってない」
「なってるよ」
「いや、もう少しこう、優しい兄らしく」
「仕方ないな」
ユリウスが木剣を軽く振って見せる。
「最初はこんなもんだった」
「嘘だな」
「ほんと」
「兄上がそんなぎこちないわけない」
「失礼だな。俺も最初は転んだ」
「まじ?」
「まじ」
「それはちょっと見てみたかった」
「見せるわけないだろ」
そのやり取りの途中で、父が短く言った。
「振れ」
終わりだ。
会話は終わりらしい。
木剣を振る。
当然、ぐちゃぐちゃになる。
軌道がぶれる。
戻りも遅い。
自分で分かるくらい下手だ。
ロルフ・ハイネが「うーん」と笑い混じりの声を出し、ユリウスは「あー」と半分同情するような顔をした。くそ。余計に腹立つ。
「もう一度」
と、父。
「はい」
「足」
「はい」
「手で振るな」
「じゃあどこで振るんだよ」
「腰だ」
「難易度上げた?」
「最初からだ」
「木剣って急に哲学みたいになるな」
「意味が分からん」
と、ユリウス。
分からんのはこっちだよ。
でもやるしかない。
やるしかないのだ。
この父は、一回持たせたものを「やっぱり今日はやめよう」なんて言わない。たぶん一生言わない。そういう人だ。
二回。
三回。
四回。
少しずつ、身体が木剣の重さに慣れていく。上手くはならない。でも、最初の一回よりはましだ。そこは自分でも分かる。
「受けるぞ」
と、ユリウス。
「え」
「構えろ」
「いきなり?」
「父上」
と、兄。
「いい」
と、父。
相談終わった。
早い。
しかも決定済み。
ユリウスが一歩前へ出る。
俺も慌てて木剣を上げた。
「いくよ」
「待って」
「待たない」
カン、と音が鳴る。
手がしびれた。
「うわっ」
「今のは遅い」
「分かるよ!」
「分かるなら次」
兄が楽しそうだ。
絶対ちょっと楽しんでる。
でも本気で意地悪をしているわけじゃないのも分かる。ちゃんと俺が受けられる範囲にしている。しているけど、普通に痛い。
二回目。
三回目。
受け損ねる。
木剣が大きくぶれる。
今にも落ちそうになる。
慌てて握り直す。
「顔」
と、父。
「顔って何だよ」
「先に負けてる」
「……うっ」
それは刺さる。
かなり刺さる。
兄がそこで少しだけ真面目な声になる。
「レオン」
「何」
「今、“うわ無理”って顔した」
「してた?」
「してた」
「してたわね」
と、いつの間にか回廊に出てきていたエレノア。
「みんな顔見すぎだろ!?」
「分かりやすいもの」
と、母。
「家族ですので」
と、クララ・ヴァイス。
「れお、かお!」
と、ミリア。
もう駄目だ。
全方位から言われている。
「家に味方いないの?」
「いますよ」
と、クララ・ヴァイス。
「でも事実は事実です」
「ひどい」
父が一歩近づく。
「落としてもいい」
「え?」
「だが、そのまま手放すな」
「……はい」
「もう一度」
短い。
でもそれで十分だった。
もう一度構える。
今度は、先に“無理だ”と思わないようにする。
いや、思うなと言われて簡単に思わないようになれるなら苦労しない。
でも、少なくともそのまま顔に出すのはやめる。
やめようとする。
それだけでも少し違う。
ユリウスの木剣が来る。
受ける。
押される。
でも、今度は落とさなかった。
「お」
と、ロルフ・ハイネ。
「今のは悪くない」
と、父。
「やった」
「顔」
と、ユリウス。
「分かってる!」
でも、ちょっとだけ嬉しい。
かなり嬉しい。
それを隠せていない自覚はある。
あるけど、今はまあいいやと思えた。
稽古はそこで一度区切られた。
父が木剣を下ろし、俺を見た。
「どうだ」
「重い」
「それだけか」
「兄上が速い」
「他は」
「……思ったより、嫌じゃない」
「そうか」
ガレス・アルヴェインはそれだけ言って、すぐ次の言葉を落とした。
「なら続く」
「え」
「明日から朝はここだ」
「うわ」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど、急だな!」
「急ではない」
「父上の中ではそうかもしれないけど」
「父上だからな」
と、ユリウス。
「そこで全部納得させるのずるい」
エレノアが回廊から笑いながら言う。
「レオン」
「何、母上」
「朝の分はちゃんと庭へ出たもの」
「うん」
「なら、今日は書庫に寄ってもいいわよ」
「……かなり助かる」
「あなた、本当に分かりやすいわね」
「今日はそれでいいだろ」
父が一度だけ頷く。
「いい」
「え」
「剣だけではない」
「父上」
「何だ」
「いま、かなり父っぽいこと言った」
「かなり、とは何だ」
「かなりはかなりだよ」
「雑だな」
と、ユリウス。
「兄上は黙れ」
少しだけ、中庭に笑いが広がった。
その時、ミリアがエレノアの腕の中でこちらを見て、手を叩いた。
「れお! つよい!」
強い、か。
まだ全然だ。
兄には遠い。
父の前では顔に全部出る。
木剣は重い。
腕も少し痛い。
それでも、ミリアの目にはそう見えたらしい。
悪くないな、と思う。
そのあとの朝は、思っていたよりずっと軽かった。
木剣を返し、手のひらを見て、少し赤くなったところをさする。
ロルフ・ハイネが「最初はそんなものです」と言い、ユリウスが「明日はもっとましにやれよ」と笑う。
父はもう次のことを考えている顔で、でも最後に一度だけ俺の構えを見た。
エレノアは「あとで薬を塗りましょう」と言い、ミリアは「れお、つよい」をもう一度言った。
中庭から回廊へ戻る途中、エレノアが俺の手を取った。
「見せて」
「大げさだな。少し赤いだけ」
「少し赤い時に塗るのよ」
有無を言わせない声だった。
母はこういう時だけ少し強い。笑っているのに逆らいづらい。
居間に連れていかれ、俺は椅子へ座らされた。クララ・ヴァイスが小さな壺を持ってくる。薬草の匂いがした。
「しみる?」
と、エレノア。
「たぶん」
「たぶん?」
「兄上の顔を見た感じ、ちょっとしみそう」
「見たな?」
と、ユリウス。
「兄上、前にやったことあるだろ」
「ある」
「しみた?」
「かなり」
「うわ」
「でもすぐ慣れる」
「その“でも”いらないんだよな」
エレノアが薬を薄く塗る。
ひやりとして、そのあと少しだけじんとした。
たしかにしみる。でも我慢できないほどじゃない。
ミリアが横から覗き込む。
「れお、いたい?」
「少し」
「ふーする?」
「またしてくれるのか」
「する!」
小さな息が手のひらに当たる。効くかどうかはともかく、気分は悪くない。むしろかなり良い。
「これで大丈夫」
と、ミリア。
「おお、名医だな」
「めーい!」
意味はたぶん分かっていない。でも得意げだ。可愛いので良し。
エレノアが薬の壺をクララ・ヴァイスへ返しながら言った。
「約束通り、少しだけ書庫へ行きましょうか」
「本当に?」
「ええ。朝の分はきちんと庭へ出たもの」
「母上、その言い方だと俺が普段あんまり出てないみたいだな」
「普段から庭には出ているわ。でも今日は“ちゃんと出た”顔だったもの」
「顔で判断される家だな」
「便利でしょう?」
もうそれでいいや。
書庫の扉は、思っていたより重かった。
クララ・ヴァイスが半分だけ開けてくれる。
中から、乾いた紙と革の匂いが流れてきた。
「うわ」
思わず声が出る。
高い棚。
ぎっしり並んだ本。
巻物。
地図。
薄い冊子。
分厚い辞典みたいなもの。
前世でたまに入った図書館の匂いに少し似ている。でももっと閉じていて、もっと静かだ。誰かのためじゃなく、この家の中に積まれた知識の匂いだった。
「そんなに?」
と、エレノア。
「多い」
「多いわね」
「母上、全部読んだ?」
「まさか」
「よかった」
「何が?」
「母上が全部読んでたら勝てる気がしない」
「勝つつもりなの?」
「ちょっとだけ」
そこで、書庫の奥から年配の男が現れた。灰色の髪。細い眼鏡。きっちりした身なり。屋敷の書庫番であり執事でもあるオズワルド・メインだ。
「おはようございます、エレノアさま。レオンさま」
「おはよう、オズワルド」
「少し本を見せてあげたいの」
「承知いたしました」
オズワルド・メインは俺を見て、目元を少しだけ和らげた。
「木剣のあとは書物でございますか」
「情報が早いな」
「屋敷で起こることは、だいたい耳に入ります」
「怖い」
「管理職ですので」
「それ言われると納得しかない」
オズワルド・メインが低い棚から何冊か本を抜き出す。
絵入りの文字本。
子ども向けの騎士物語。
簡単な地誌。
その中に、一冊だけ薄い青の表紙が混ざっていた。
目がそこへ行く。
いや、行くなと言われても無理だ。
青い表紙。
金の細い飾り文字。
しかも妙に薄い。
薄い本はいい。入口っぽいから。
エレノアがそれに気づいた。
「あら」
「いや」
「まだ何も言っていないわ」
「言ってないけど、顔が」
「ええ。かなり」
オズワルド・メインが青い本を一度見て、それから俺を見た。
「レオンさまは、こちらがお気になりで?」
「……少し」
「かなり、の間違いでは」
「いや、かなり」
観念してそう言うと、エレノアが笑う。
オズワルド・メインは青い表紙をそっと抜いた。表紙には、この世界の文字で題がある。まだ全部は一瞬で読めない。けれど、ゆっくり追えば分かった。
『初歩魔術・はじめの一冊』
うわ。
「母上」
「はい」
「これ」
「ええ」
「魔術?」
「そうよ」
「見ていい?」
「見たいのね」
「だって魔法だぞ」
口に出した瞬間、オズワルド・メインが咳払いで笑いを隠し、エレノアは完全に吹き出した。クララ・ヴァイスまで肩を揺らしている。
「レオンさま、その言い方は少し……」
と、クララ。
「何だよ」
「子どもらしいなと」
「子どもだよ」
「それはそうだ」
エレノアが冊子を開く。
火。
水。
風。
土。
属性の文字と、簡単な図。
しかも最初のページは、生活で使う小さな術から始まっている。
灯り。
浄水。
乾燥。
小さな風。
いきなり強そうな魔法じゃない。でも、そっちのほうがよかった。むしろ生活に混ざっている感じが、たまらなく異世界っぽい。戦いの中だけじゃなく、家の中にも魔法がある。この世界はそういう世界なんだと、ページを見ただけで分かる。
「見たい?」
と、エレノア。
「見る」
「どれを?」
「全部」
「欲張りね」
「だって魔法だぞ」
「二回言ったわね」
エレノアが笑いながら、人差し指を立てた。
何かを小さく唱える。
その瞬間。
指先に、ぽ、と光が灯った。
「うわ」
やっぱり声が出る。
小さい。
部屋全部を照らすほどじゃない。
でも確かにそこにある。
白い。丸い。揺れている。
前世で何度も絵や画面の中では見た。でも実物は別だ。しかも家の中で、母の指先に普通みたいな顔で乗っている。
ずるいな。
心からそう思う。
エレノアが光を消す。
「どう?」
「どうって、すごいに決まってる」
「そればっかりね」
「だってすごい」
「そうね。すごいわね」
その返し方がずるい。
ちゃんと子どもの興奮を笑わずに受けてくる。
そこへ、いつの間にか扉のところにガレス・アルヴェインが立っていた。
「……父上」
「本を見ていたか」
「うん」
「返事」
「見ていました」
父は青い冊子と俺の顔を交互に見る。
「興味があるのか」
「ある」
「なぜ」
「だって魔法だぞ」
三回目だった。
今度は、さすがにエレノアが声を上げて笑った。オズワルド・メインも眼鏡の奥で口元を緩め、クララ・ヴァイスは横を向いた。父だけが真顔だった。真顔だったが、ほんの少しだけ眉が動いた気がする。
「そうか」
「それで終わり?」
と、エレノア。
「悪くない理由だ」
と、ガレス。
うわ。
その返しはちょっと格好いいな。
父は短く続けた。
「読みたいなら読め」
「いいの?」
「まず文字だ」
「はい」
「剣もやる」
「それもセットなんだな」
「当たり前だ」
そう言い切られると、妙に安心する。
この人は本当にぶれない。
ぶれないから、こっちも迷いづらい。
エレノアが冊子を俺の前に置いた。
「今日はここまで」
「え」
「最初から全部は贅沢よ」
「うわ、良いところで止める」
「続きが気になるでしょう?」
「なる」
「なら、また明日」
その言い方に、少しだけわくわくした。
また明日。
昨日までの俺なら、その言葉に少し怯えたかもしれない。
今は違う。
明日には、朝の庭がある。
木剣がある。
そのあと、書庫がある。
魔法の本がある。
悪くない。
かなり悪くない。
俺は青い冊子を見下ろした。
木剣も重い。
本も気になる。
兄の背中は遠い。
でも、この家の朝はちゃんと前に続いている。
そのことが、少し嬉しかった。




