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Another Life 〜異世界で始まる二度目の人生〜  作者: 華詩手


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2/9

アルヴェイン家の赤子



俺は死んだはずだった。


まずそこから動かない。

動かないどころか、思考の最初に毎回それが浮かぶ。


車のブレーキ音。

赤い帽子。

小さな背中。

勝手に前へ出た足。

胸に来た衝撃。

アスファルト。

遠ざかる音。

母さんの「いってらっしゃい」。


そこまでは、本当だ。

夢じゃない。

あれはたしかに俺の最後だった。


なのに、今の俺は高い声で泣いている。


うるさい。

耳のすぐそばで響くその声が、自分のものだと理解するたびに少し腹が立つ。

いや、腹が立つとか言っている場合じゃない。

泣きたいのはこっちじゃない。

むしろ落ち着いて状況を整理したい。

したいのに、肺が小さすぎる。喉が細すぎる。息を吸うたびに勝手に「おぎゃあ」が出る。


情けないにもほどがある。


「おぎゃああっ」


また出た。


駄目だ。

全然止まらない。


何か柔らかいものに包まれている。

布だ。腕だ。人の体温だ。

頬に当たる感触がやけに近い。

甘い匂いがする。汗と薬草と乳の匂いも混ざっている。

その匂いの真ん中で、高い声が震えていた。


言葉は分からない。

意味は取れない。

でも、その声が俺に向いていることだけは分かる。


泣きそうで、笑いそうで、信じられないものを抱きしめている時の声だ。

俺が泣くたびに一緒に震える。

少し泣き止むと、声の奥に安堵が混ざる。


母親だ。

それは、もう疑いようがなかった。


前世の母さんとは違う匂いだ。

違う声だ。

違う腕だ。

なのに「母親だ」と分かるのが不思議だった。


前世の母さんの声を思い出す。


玄関。

朝の光。

由菜が直したネクタイ。

父さんの短い返事。

それから、あの一言。


いってらっしゃい。


あの声は、ちゃんと外へ出ていく二十五歳の俺に向けた声だった。

送り出す声だ。

相手を一人の人間として外へ押し出す時の声だ。


今、俺を包んでいるこの高い声は違う。

送り出すどころじゃない。

こっちがまだ何者でもない。

泣くことしかできないものに向かって、まるごと寄り添う声だ。


迎える声。

抱え込む声。

ここにいていい、と最初から言ってしまっている声。


その違いが、胸の奥に変なふうに刺さった。


「おぎゃっ、ああっ」


思い出したせいで余計に泣き声が大きくなる。

自分で自分の首を絞めている気がする。

すると、別の気配が近づいた。


低い声だ。


短い。

無駄がない。

それだけで周りの空気が少し変わる。


さっきまで俺の泣き声に合わせてわたわたしていた気配が、ほんの少しだけ整う。

誰かが道を開けるみたいに静かになる。

近くへ来たその人は、何かを一言だけ言った。


言葉は分からない。

でも、妙に落ち着く。


父親だ。

それもすぐに分かった。


理由はない。

ないけれど、そういうものは分かるらしい。


前世の父さんを思い出す。

相沢 恒一朗。

朝にはもうスーツ姿で、仕事へ行く人だった。

口数は多くない。

怒鳴るより、先に黙る。

俺が何も言わないでいると、その沈黙がどんどん重くなった。


今の低い声は、前世の父さんと同じじゃない。

同じじゃないのに、胸の奥で似た場所へ触れてくる。

たぶん、俺は「父親」というものの輪郭だけは身体で覚えているんだろう。


目を開けようとした。

けれど視界はまだ曖昧だった。

光が強い。輪郭が崩れる。色も分からない。

ただ、大きな影があることだけは分かった。


その影が近づく。

大きな手が、たぶん俺の頭か頬のあたりに触れた。

皮膚の感覚が頼りないから位置はよく分からない。

でも触れられた、ということだけは分かる。


その瞬間、泣き声がほんの少しだけ弱くなった。


「……あ」


声にならない。

でも頭の中では、かなり大きな「え?」が響いた。


何だこれ。

何でちょっと落ち着いてるんだ俺。

いや落ち着いてる場合じゃない。

死んだんだぞ。

たぶん。

いや間違いなく死んだ。

それでいま、赤ん坊だ。


赤ん坊。


思考がそこで一周して、また同じ結論へ戻る。


転生だ。


言ってしまえばそれが一番早い。

夢ではない。

悪夢でもない。

意識不明で見ている幻覚にしては、腕が短すぎるし、肺が小さすぎるし、なにより周りの音が生々しすぎる。

高い声。

低い声。

慌ただしい足音。

布の擦れる音。

どこかで金属が小さく鳴る音。

全部が「ここにある音」だ。


転生した。

たぶん。

いや、もう、それ以外ない。


「おぎゃあっ」


だから泣くなって。


心の中で突っ込んでも無意味だった。

赤ん坊の身体は遠慮がない。

考えたい時ほど、勝手に泣く。


そこへ新しい声が混ざった。


子どもの声だ。

高い。元気がいい。興奮している。

俺より少し大きいくらいの子どもだろうか。

何かを一生懸命言っている。

近づこうとして、誰かに止められた気配がする。

そのあとも、我慢できずにぴょこぴょこしている感じが音だけで分かった。


兄、か?


まだ顔は見えない。

見えないけれど、たぶんそうだ。


兄。

前世にはいなかった存在だ。


兄、かあ。

それだけで少しだけ可笑しくなった。

いや、可笑しいどころじゃないんだけど。

死んだと思ったら赤ん坊で、母親と父親がいて、その上たぶん兄までいる。

情報量が多すぎる。


泣き続けるのにも体力がいるらしい。

何度か大きく泣いたあと、俺の意識はふっと沈んだ。


次に目を覚ました時、部屋は少し暗かった。


昼なのか夕方なのか、まだ分からない。

ただ、さっきより光がやわらかい。

火の匂いが少しする。

暖炉か燭台か、そのへんだろう。

頬の下にはやわらかい布があって、身体はきちんと包まれていた。


泣いていない。


それだけでだいぶ楽だ。


小さな手を持ち上げてみる。

やっぱり小さい。

丸い。短い。頼りない。

でも見えるだけましだった。

夢ではないと、こういうくだらない確認を何度もしないと気が済まない。


部屋のどこかで、低い声と高い声が話していた。


父と母だろう。

言葉はまだ全部が音にしか聞こえない。

でも、会話の温度が分かる。

低い声は短く返す。

高い声は長めに続く。

そのたびに、空気が少しずつやわらかく変わる。


夫婦なんだろうな、と思う。


そのうち、さっきの子どもの声も混ざった。

今度は少し控えめだ。

何か訊いているらしい。

高い声が答える。

低い声が一言返す。

子どもの声が少しだけはしゃぐ。


その流れだけでも、何となく家の空気が見えた。


父は短い。

母はやわらかい。

兄は落ち着ききってはいない。


そういう家だ。


しばらくすると、抱き上げられた。


またあの匂い。

母親だ。

今度はさっきより少し落ち着いている。

それでも俺を抱く腕の力はかなり慎重だった。

落とすわけがないのに、落とすまいとしている力だ。


俺は薄く目を開けた。


まだぼやける。

それでも、前より少し見えた。


顔がある。

女の人の顔だ。

髪が長い。

色まではまだ分からない。

目元が少し赤い。

泣いたのかもしれない。

でも今は笑っていた。


綺麗かどうかは、正直よく分からない。

新生児の視力なんてそんなものらしい。

でも、その人が俺を見る時の目が、ひどくやわらかいことは分かった。


何かを話しかけてくる。

同じ音が何度か繰り返される。


レ、オン。

たぶん、そう聞こえた。


もう一度。


レオン。


俺の名前だ。


そう理解した瞬間、頭の中で何かがかちりとはまった。


相沢 恒一ではない名前。

でも呼ばれているのは確実に俺だ。


レオン。


変な感じだった。

前世の名前が消えたわけじゃない。

消えるどころか、さっきまで母さんの「いってらっしゃい」を反芻していたくらいだ。

でも今、目の前の母親が呼んでいるこの名も、現実に俺のものになっている。


レオン。


呼ばれるたび、周りの空気がやわらかくなる。

それが不思議で、少しだけ嬉しい。


そこへ、例の子どもが我慢できなくなったらしい。


小さな足音が近づいてくる。

視界の端に、もっと小さい影が飛び込んだ。

俺を抱いた母親が「待ちなさい」みたいな声を出す。

でも止まりきらない。


顔が近い。


男の子だ。

年は、三つか四つ上くらいだろうか。

髪の色も目の色もまだはっきりしない。

でも、目を丸くして俺を見ているのだけは分かる。


兄だ。


たぶん、本当に兄だ。


その子が、俺を指差して何か言った。

短い言葉だ。

たぶん俺のことを訊いている。

母親が答える。

またあの音だ。


レオン。


兄が真似する。


レオン。


なんかちょっと可笑しい。

兄に名前を真似されるって、こういう感じなのか。


そしてそこで、低い声が入る。


父親だ。


今度はその人の顔も少しだけ見えた。


大きい。

まずその印象が来る。

顔の細かい造りはまだ分からない。

けれど、輪郭がしっかりしていて、眉の位置が高くない。

表情は動きが少ない。

怖いといえば怖い。

でも、視線は俺から逸れなかった。


その人が手を伸ばす。

母親が一瞬だけ迷う。

でもすぐに俺を渡した。


移される。


腕が違う。


硬い。

大きい。

安定している。

慣れていない感じもある。

けれど落とさないようにしているのはすぐ分かる。


父親に抱かれている。


それを理解した途端、変な感覚が胸の奥に広がった。


前世の父さんにこうして抱かれた記憶は、かなり昔まで遡らないとない。

少なくとも、高校生以降はないはずだ。

そりゃそうだ。二十五の息子を抱き上げる親はいない。

だから今のこの感覚は、懐かしいというより新しい。


新しいのに、どこか落ち着く。


父親が何かを言った。


短い。低い。

さっきまで母親が何度も呼んでいた音とは違う。

もっとはっきりしている。

それでも最後に同じ音が入った。


レオン。


間違いない。

これは俺の名前だ。


父親の声で呼ばれると、同じ名前でも少し違って聞こえた。

母親の声は包む感じ。

父親の声は置く感じ。

雑にではない。

ただ、そこに置いて確定させるみたいな呼び方だった。


レオン。

それが俺だ。


兄がそこで我慢しきれずに何か言った。

父親が短く返す。

兄がむっとした声を出す。

母親が笑う。


家族だな、と思う。


たったそれだけのやり取りなのに、妙にそう感じた。


泣きたくなる。


でもさっきほどではない。

泣く代わりに、俺は父親の服を掴もうとした。

もちろん、そんなに器用に動けるわけがない。

指がもぞっと動いただけだ。

それでも、その動きに周りが反応した。


母親が息を呑む。

兄が「あっ」とでも言いたげな声を出す。

父親の腕がほんの少しだけ止まる。


たったそれだけで、空気が揺れる。


すごいな赤ん坊。

何もしてないのに周りがめちゃくちゃ反応する。


いや、何もしてないから、か。


そのうちまた眠くなった。

本当に容赦がない。

赤ん坊の身体は、考えたいことがいくらあっても平気で意識を落としてくる。


次に起きた時には、もう完全に夜だった。


暗い。

でも真っ暗ではない。

近くに燭台があるのか、小さな火の色が揺れている。

部屋は静かだ。

さっきまでいた父と兄の気配はない。

母親だけが近くにいるらしい。

何かを繕っているのか、布の擦れる音が規則的に聞こえる。


俺は泣かなかった。

たぶん、周りの空気を聞いていたかったからだ。


母親が小さく鼻歌みたいなものを口ずさむ。

言葉じゃない。

音だけだ。

それが妙に落ち着く。


前世の母さんは、鼻歌を歌う人じゃなかった。

少なくとも俺の記憶にはない。

テレビの歌を一緒に口ずさむことはあっても、こういう小さな鼻歌はなかった気がする。


違う人だ。

違う家だ。

違う世界だ。


その事実が、夜の静けさの中で少しずつ腹に落ちてくる。


転生した。

俺はたぶん、本当に。


だったら、どうする。


どうするも何も、今は泣くか寝るかしかできない。

でも、そのうち立つ時が来る。

歩く時が来る。

喋る時が来る。


その時、俺は何になるんだろう。


前世のまま、何かに怯えて止まるのか。

それとも、今度はちゃんと前へ行けるのか。


答えはまだ出ない。

出るわけがない。

新生児だし。


それでも、ひとつだけ分かることがあった。


前世の記憶を、失いたくない。


不思議だった。

あんなに情けなくて、失敗だらけで、家族に申し訳なくて、胸を張れることなんか何もなかった人生なのに、その記憶がなくなるのは嫌だった。


たぶん、最後の朝があったからだ。


母さんの「いってらっしゃい」。

由菜の手。

父さんの短い返事。

自分の足で外へ出たこと。

あの子どもを押し出したこと。

最後に「動けた」と思えたこと。


そこだけは、なくしたくない。


情けないままでも、最後の一歩だけは本物だった。

あれまで消えたら、俺は何を持って次の人生を始めればいいのか分からない。


だから覚えていたい。


相沢 恒一であったことも。

相沢 美奈の声も。

相沢 恒一朗の沈黙も。

相沢 由菜の「あとで聞く」も。


全部だ。


「……あ」


小さな声が勝手に漏れる。

母親がすぐ顔を上げた。

椅子が引かれる音がして、寝台のそばへ来る。


俺を覗き込む。

何か囁く。

また、あのやわらかい声だ。


レオン。

たぶんそう呼んだ。


俺は目を開ける。

まだぼやける。

でもその顔はちゃんと近くにあった。


新しい母親。

新しい家。

新しい名前。


怖くないわけじゃない。

でも、その全部が今は俺を拒んでいない。

それがありがたかった。


何日経ったのかは分からない。


赤ん坊の時間感覚はとにかくあてにならない。

起きる。泣く。飲む。眠る。

その繰り返しの中で、光の色や人の声の出入りだけが時間を教えてくれる。


ただ、何度も繰り返すうちに分かってきたことはある。


まず、この家はそこそこ広い。

天井が高い。

家具がしっかりしている。

使用人がいる。

たぶん貴族だ。


そして、母親の名はエレノア。

父親はガレス。

兄はユリウス。


これは何度も名前が飛び交ううちに分かった。


エレノア、と呼ばれると母親が振り向く。

ガレス、と呼ばれると低い声が返る。

ユリウス、と呼ばれるとあの元気な子どもがすぐ返事をする。


そしてレオン、と呼ばれるのは俺だ。


呼ばれるたび、自分の輪郭が少しずつ定まっていくのが分かる。


相沢 恒一だった俺は、どこにもいなくなったわけじゃない。

でも今はレオンとして抱き上げられ、揺られ、名前を呼ばれている。

その二つが同時にある感じは、やっぱりまだ不思議だった。


ユリウスはよく喋る。


落ち着きがないわけじゃない。

でも我慢がきかない。

俺の寝台の横まで何度も来る。

顔を覗き込む。

名前を呼ぶ。

母に止められる。

少しだけ不満そうにする。

でもまた来る。


「また来たわね」

という感じの母の声。

「だって」という感じの兄の声。

「静かにしろ」という感じの父の短い声。


もう、そのやり取りだけで誰が喋っているか何となく分かるようになってきた。


ある時、ユリウスが木でできた小さな馬を持ってきた。


いや、たぶん持ってきた。

視界がまだ怪しいから、形までは断言できない。

ただ、硬いものが寝台のそばへ置かれ、木の匂いがした。

兄の気配が得意げだった。


俺はそれを見ようとして目を寄せた。

当然、まだよく見えない。

でも兄は何かを説明している。

母は笑っている。

父は近くにはいないらしい。


そのまま眺めていると、兄の声が少しだけ不安になる。

たぶん「なんで反応しないんだ」みたいな感じだ。


いや反応したいよ。

でも見えてないんだよ、こっちは。


仕方なく、手をもぞもぞ動かした。

届くわけがない。

それでも兄の声は一気に明るくなった。


単純だな。

いや、子どもってそういうものか。


でも、その単純さが少し羨ましかった。

前世の俺は、何かしてもらっても反応する前にあれこれ考えすぎていた気がするからだ。


嬉しいなら嬉しい。

面白いなら面白い。

そういう反応が素直に出る人間は、見ていて気持ちがいい。

ユリウスはたぶんそういう兄なのだろう。


父、ガレスは逆だ。


とにかく短い。


でも不在ではない。

いる時は必ずいる。

部屋へ入ってくる。

エレノアと二、三言交わす。

俺を見る。

ときどき抱き上げる。

それで終わる。


その短さが、最初は少し怖かった。

前世の父さんを思い出すからだ。

でも、ガレスの短さには逃げがない。

見ないことで済ませる短さじゃない。

ちゃんと見たうえで、短い。


そこが全然違う。


ある日、ガレスに抱かれた時、俺はたまたま少し機嫌がよかった。


飲んだ直後で眠くもない。

腹も苦しくない。

ちょうどいいタイミングだった。


だから、なんとなく口がゆるんだ。


笑った、んだと思う。

まだ赤ん坊の笑顔なんて大したものじゃない。

せいぜい口元が少し動いたくらいだろう。

それでも、その場の空気は一気に変わった。


エレノアが息を呑む。

ユリウスが大きな声を上げる。

ガレスの腕が一瞬止まる。


そして、次の瞬間にはみんなして俺を見る。


なんだよ。

そんなにか。


でも、そういうものらしい。

赤ん坊が笑うと、周りの大人はやけに喜ぶ。

不思議な生き物だ。

しかも俺は中身が二十五歳なので、「そんなに?」と思う気持ちがどうしても先に来る。


そのくせ、悪い気はしなかった。


むしろ嬉しかった。

自分の小さな反応ひとつで、こんなに場が明るくなるのは、少しだけ癖になりそうだった。


「ずるいな、赤ん坊……」


もちろん口にはならない。

「うあ」みたいな音が出ただけだ。

でもエレノアはそれさえ喜んだ。


この家は、今の俺に甘い。


甘すぎる。

前世の俺なら、こういう優しさに勝手に追い詰められていたと思う。

今もその気配は少しある。

でも完全には同じじゃない。


今の俺は、本当に何もできない。

それを誤魔化す必要がない。

誤魔化せる余地がない。

それが、逆に楽だった。


やがて、俺は少しずつ音を音として覚え始めた。


意味までは遠い。

でも頻繁に聞く音は耳に残る。

エレノア。

ガレス。

ユリウス。

レオン。


名前から先に分かるのは不思議な感じだった。

言葉全体は霧の向こうなのに、名前だけが浮いて聞こえる。


それでも、そこから世界が少しずつ組み上がっていく。


ユリウスが呼ばれると元気な声が返る。

ガレスが呼ばれると短い返事が返る。

エレノアが呼ばれると空気が少しやわらかくなる。

レオンが呼ばれると、俺のほうへ視線が集まる。


その繰り返しの中で、俺は少しずつ確信していった。


ここは俺の家だ。


まだ借り物みたいな気分は抜けない。

抜けないけれど、少なくともここで俺は「いていい側」にいる。

それが大きい。


前世の家も、本当はそうだったのだと思う。

でも俺は途中から、自分でそこから外れた気分になっていた。

家族が拒絶したわけじゃない。

俺が勝手に、自分だけが外にいる気分になっていた。


今は違う。

最初から中だ。

泣けば来る。

呼ばれれば向けられる。

抱かれれば落ち着く。


こういう当たり前を、俺はたぶん一回失ってから、ようやくちゃんと受け取れている。


ある夜、エレノアに抱かれながら、俺はふと思った。


もしかしたら、これはご褒美じゃないのかもしれない。


都合よくやり直しを与えられた、というより。

前世で何もできなかった男が、今度は最初から家族の中に置かれて、ちゃんと育てと言われている感じ。


甘いだけじゃない。

逃げようのないやり直しだ。


だったら。


今度は、もう少しましに生きられるだろうか。


まだ分からない。

新生児の俺に分かることなんて限られている。

でも、分からないなりにひとつだけ決めていた。


前世の記憶は捨てない。


相沢 恒一だったことも。

あの朝に家を出たことも。

母さんの「いってらっしゃい」も。

由菜の「あとで聞く」も。

父さんの短い返事も。

全部、持っていく。


持ったまま、この家で生きる。


それが今の俺にできる、最初の約束だった。


数日たって、俺はもう一つ面白いことに気づいた。


赤ん坊は、意外と見られている。


家族だけじゃない。

使用人たちにも、かなり見られている。


ある朝、エレノアが少し疲れていたらしく、俺は侍女らしい若い女に抱かれていた。

手つきは丁寧だが、母ほど慣れてはいない。

たぶん、まだ俺に気を使っている。


「若様、よくご覧になりますねえ」


その女がぽつりと言った。


言葉はまだ全部は分からない。

でも「若様」はもう聞き覚えがある。

俺のことだ。


「普通の赤ちゃんって、もう少しぽやっとしてるものでは……?」


そこへ別の女が来る。


「マルタ、またそんなことを」

「だって、見てくださいよ。この目」

「目で判断しないの」

「でも見てますよ、すごく」

「見てるでしょうよ。目があるんだから」

「そういう話じゃなくてですね」


少し笑ってしまいそうになった。


外から見ると、俺はそんな感じらしい。

たしかに中身は二十五歳だ。

ぽやっとしていろというほうが無理である。

いや、見た目はかなりぽやっとしているはずなんだけど。


その時、マルタと呼ばれた侍女が、俺の目の前で指を左右に動かした。


「ほら、追ってます」

「ほんとね」

「やっぱりちょっと賢いのでは」

「親御様の前でそんなこと言うと大変よ」

「なぜ」

「期待されるから」

「期待くらい、よいことでは?」

「ほどほどが一番なの」


なるほど。

そういう考え方もあるのか。


たしかに前世の俺は、期待が怖くなった時期があった。

できると思われる。

その期待に応えられない。

勝手に失望される。

そういう流れに怯えていた。


けれど今の俺は、まだその手前にいる。

抱かれて、見られて、たまに「賢いかも」くらいのことを言われて終わる。

それくらいなら、悪くない。


しかもそのあと、マルタは少しだけ声を潜めて言った。


「でも、顔はかわいいですねえ」


それには少しだけ吹きそうになった。

顔、か。

そこは中身じゃどうにもならないから、正面から褒められると妙に照れる。


その日の夕方、ガレスが珍しく長く部屋にいた。


エレノアが椅子に座り、ユリウスがその膝に半分乗るみたいな格好で何か喋っている。

俺は寝台の中だ。

そこへガレスが近づき、俺を覗き込んだ。


低い声で、はっきりと言う。


「レオン・アルヴェイン」


フルネームだった。


一瞬で分かる。

これが、俺の今の名前だ。


レオン・アルヴェイン。


前世の名前は、相沢 恒一。

こっちは、レオン・アルヴェイン。


音の重さが全然違う。

けれど、どちらも俺のものだと思えた。


ガレスはもう一度だけ、今度は少し短く呼ぶ。


「レオン」


その呼び方に、エレノアが笑う。

ユリウスも真似をする。

「レオン!」

たぶん、俺の名前を呼ぶのが少し楽しいのだろう。


兄がそんな調子で何度も呼ぶものだから、俺はついそっちを見た。

するとユリウスは嬉しそうに何かを喋り始めた。

長い。すごく長い。

父は途中で短く止めた。

母は笑っている。


この流れも、だんだん見えてきた。


ユリウスは喋る。

ガレスは切る。

エレノアはつなぐ。


たぶん、そういう家だ。


そしてその時、俺ははっきり思った。


この家の中で、俺はもう「何か」になり始めている。


ただ泣く赤ん坊じゃなく、レオンとして呼ばれ、

ユリウスの弟として見られ、

ガレスとエレノアの子として抱かれている。


まだ何もできない。

立つことも、歩くことも、喋ることも。

それでももう、空っぽではない。


前世では、名前を呼ばれるたびに少しずつ空っぽになっていった。

今は逆だ。

呼ばれるたび、少しずつ中身が埋まっていく。


それが、少し嬉しかった。


だからたぶん、俺はこの時もう決めていたんだと思う。


今度は、ちゃんとこの名前で生きる。


相沢 恒一だったことを捨てずに。

それでもレオン・アルヴェインとして、ちゃんと前に進む。


最初の一歩は、たぶんまだずっと先だ。

でも、それでもいい。


この家の声を聞きながらなら、そこまで辿り着ける気がした。



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