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Another Life 〜異世界で始まる二度目の人生〜  作者: 華詩手


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1/9

行ってきますの、その先



今日こそ出る。


声にすると、やけに安っぽい決意だと思った。

昨日もその前も、似たようなことを考えた気がするからだ。

いや、昨日や一昨日どころじゃない。

数えるのも馬鹿らしいくらい前から、何度も思ってきた。


今日こそ。

明日こそ。

次こそ。


次は便利だ。

絶対に今日じゃなくていい時にだけ、やたら優しい顔でこっちを見てくる。


俺はベッドの上で膝を抱えたまま、部屋のカーテンの隙間を見た。

朝だった。

当たり前だ。

眩しくはない。曇っているらしい。空が白い。

それでも朝は朝で、胸の奥が少しだけざわつく。


机の上には、昨夜の俺が並べたものがそのまま残っていた。


財布。

スマホ。

家の鍵。

クリアファイル。

相談票。

筆記用具。

そして、書きかけの履歴書。


相沢 恒一。

二十五歳。

学歴。高校卒業。

職歴。なし。

資格。なし。


志望動機の欄は空白のままだった。


笑える。

いや、笑えない。

むしろ笑えるならまだ元気だ。


職歴なし。

資格なし。


書いてあるだけなのに、殴られたみたいに効く。

しかも自分の字だ。

自分で書いて、自分で勝手にへこんでいる。

朝から忙しい。


部屋は、世間が期待するほど終わっていない。

足の踏み場がないわけでもない。

コンビニ弁当の容器が山になっているわけでもない。

脱いだスウェットが椅子にかかっている。

飲みかけの水が一本。

本棚の隅に、高校の参考書がまだ数冊。

その横に、途中で読むのをやめた資格の本。

開いていない求人誌。

机の引き出しには、証明写真の余りが二枚。


全部、中途半端だ。


終わり切っていない。

でも始まってもいない。


俺の人生そのものみたいで、朝から嫌になる。


スマホの画面をつける。

七時十二分。

アラームはとっくに切ってある。切ったあと、十分くらい見ないふりをしていた。

検索履歴には、昨日の夜に開いたままの地図が残っていた。


ハローワーク。

初回相談。

九時半。


相談だ。

面接じゃない。

たったそれだけだ。


たったそれだけで、心臓がうるさい。


「……いや、相談が一番怖いまであるな」


誰もいない部屋で呟く。

返事はない。

当たり前だ。

でも声を出さないと、本当に朝が始まらない気がした。


相談って何だ。

何を言えばいいんだ。

「働きたいです」で済むのか。

済むわけがない。

「でも職歴ありません、資格もありません、しかも長いこと家から出てません」までセットだ。

相談員さんも大変だな。初対面でこんなのが来るのだから。


いや、他人事じゃない。

行くのは俺だ。


俺は深く息を吸った。

吸ったところで勇気は増えない。

でも少しだけ肺が痛くなって、ああ生きてるなと思う。

そこから先は、自分で動くしかない。


立ち上がる。


膝が少し笑った。

病気じゃない。ただの緊張だ。

ただの、で済ませるには何年も引きずりすぎた緊張だけど、それでも正体が分かっているだけ昔よりましだ。


洗面所へ行く。

鏡の中に、二十五歳の男がいる。

当たり前だ。

でも時々、それにびっくりする。


中身はもっと手前で止まっている気がするのに、顔だけは勝手に年を取っていく。

目の下に薄い影。

昨日剃ったはずの髭の青み。

寝癖。

情けない顔。


「いやまあ、今日はそんな顔にもなるか」


誰に言い訳してるんだろうな。


水で顔を洗う。

冷たい。

少しだけ目が覚める。

けど、劇的に人生が変わるほどの冷たさじゃない。

そんな便利な洗面台があったら苦労しない。


シャツを着る。

しわは昨日のうちに伸ばした。

スラックスを履く。

ベルトを締める。

ネクタイを手に取る。


ここで一度、手が止まった。


ネクタイなんて、前にまともに締めたのはいつだ。

高校の制服にはネクタイがあった。

そのあとは、冠婚葬祭で数回。

ハローワークの相談にネクタイが必要なのかは正直分からない。

でも、行くならちゃんとした格好で行きたかった。


たぶん、見栄だ。

でも見栄くらい張らせろと思う。

何年も部屋にいた人間が、ようやく外へ出る日に張る見栄くらい、誰にも迷惑はかからない。


動画で覚え直した結び方を思い出しながら、なんとか形にする。

鏡の前で一歩下がる。

サイズは少し合っていない気がする。

肩も微妙だ。

でも、思っていたよりは変じゃない。


「……いけるか?」


すぐには答えが出なかった。

いける、なんて言える顔じゃない。

でも、駄目だとも言いたくなかった。


高校二年の頃、俺は教室の前で何度も立ち止まった。

今でもたまに夢に見る。

廊下の白さ。

教室のざわつき。

先生の声。

誰かの笑い。

自分の席。

そこまで全部見えているのに、最後の一歩だけが出ない。


最初は一日だけだと思った。

ちょっと調子が悪い。

今日は無理。

明日なら行ける。

そんなふうに軽く考えていた。


明日が増えた。


一週間。

二週間。

一か月。

そのうち、教室に入れない自分のほうが本物になっていった。


理由を、今も上手く一つにできない。


誰かにいじめられたから、で全部済むならもっと楽だった。

はっきりした悪役がいれば、そのせいにもできた。

でも実際はもっとぬるい。

笑い声。

視線。

進路の話。

うまく言えない焦り。

教室の中にいると、自分だけが少しずつ遅れていく感じ。

たぶん、そういうのが積もった。

積もったところへ、何か小さいきっかけが刺さった。

それで終わった。


だから今でも、人の集まる場所へ行く前になると、胸の奥が少しずつ冷えていく。


鏡の前でネクタイを締めたまま、俺はしばらく動けなかった。


ここで脱いだら楽だろうな、と思う。

ベッドに戻ったら楽だろうな、とも思う。

今日は無理だった、で済ませたら、一日はたしかに静かに終わる。

でも、静かな終わり方を何年も続けた結果が今だ。


嫌だ。


嫌なのだ。

今のままが。

変わりたいとか、立派なことを言うつもりはない。

でも、このまま次も次もって延ばして、三十になって、三十五になって、それでも同じ部屋にいる未来だけは嫌だった。


それだけは、はっきりしている。


机に置いたクリアファイルを持つ。

財布をポケットへ。

スマホも入れる。

鍵を握る。


扉の前に立つ。


ここから先だ。


何回目かも分からない、人生でいちばん重いドアノブに手をかける。

ここで引き返したらたぶん今日は終わる。

そして「今日は終わる」をあと何回やるのかと考えた瞬間、少しだけ腹が立った。


自分にだ。


腹が立つくらいなら動けよ。

今だよ。

今日だよ。

次はもういいだろ。


扉を開ける。


廊下の空気は、部屋より少しだけ冷たかった。

家の匂いがする。

洗剤。

味噌汁。

焼いた魚の匂い。

朝の湿気。


リビングのほうから食器の音がした。


行きたくない。


本音はそれだ。

ここでまた「体調悪い」で逃げられたら楽だ。

父も母も、驚きはしても、もうそんなに大きくは責めないだろう。

妹はどう思うか分からない。分からないけど、昔みたいに真正面から怒ったりはしないと思う。

それが余計につらい。


リビングへ入る。


父の相沢 恒一朗がテーブルでスマホを見ていた。

スーツ姿だ。出勤前だろう。

母の相沢 美奈はシンクの前で皿を洗っている。

そして今日は、由菜もいた。


妹の相沢 由菜はパンをくわえたまま、こちらを見て固まった。


一番先に声を出したのは、由菜だった。


「……え」


声が小さい。

でも、それだけで十分だった。


見られた、と思う。

いや、家族なんだからそりゃ見られるだろう。

でも、由菜のその「え」は、俺のスーツ姿に対するかなり正直な反応だった。


「え、なに。どうしたの」

「どうしたの、じゃねえよ……」


つい口から出る。

この返しは完全に悪い兄のそれだ。

由菜が目をぱちぱちさせる。


「いや、だって。スーツ」

「見れば分かるだろ」

「いやそれは分かるけど、そうじゃなくて」


父がそこで初めて顔を上げた。

視線が俺に来る。

一瞬だけだ。

でも、その一瞬で体が固くなる。


「行くのか」

と、父。


それだけだ。


責める感じでも、期待する感じでもない。

確認だ。

ただの確認。

そのくせ、ものすごく重い。


「……うん。ハローワーク」

「返事」

「……行く。相談」

「そうか」


短い。

それで終わりだ。


前世の俺が一番苦しかったのは、父の沈黙だった。

でも今の父は、黙っているだけじゃない。

必要なことは言う。

短いけど。

短すぎるけど。


母がそこで手を拭きながら振り返った。


「朝ごはん、少し食べる?」

「無理」

「だと思った」


母はそこで、驚きも責めも大げさに出さなかった。

たぶん由菜ほどには驚いているはずだ。

でも顔にはほとんど出さない。

この人はそういう人だ。


「水だけでも持っていきなさい」

「うん」

「うんじゃない」

と、父。


反射で背筋が伸びる。


「……持っていきます」


由菜が、まだ半分だけぽかんとしたまま俺を見ていた。

俺はその視線に耐えきれず、先に口を開く。


「何だよ」

「いや……」

由菜がパンを皿に置く。

「本当に行くの?」

「行く」

「今日?」

「今日」

「……そっか」


その「そっか」が妙に刺さる。

昔、由菜はもっと感情をぶつけてきた。

お兄ちゃんどうするの、とか。

そのままでいいの、とか。

ちゃんとしたほうがいいよ、とか。

泣きながら怒ったこともある。


今は、そういうのがない。


たぶん、疲れたのだ。

何年も同じところで止まっている兄に、毎回同じ熱量でぶつかるのはしんどい。

だから今の由菜は、驚いても少し引いたところで受ける。


それが優しさでもあり、距離でもあった。


「何時?」

と、由菜。

「九時半」

「じゃあ、まあ、余裕あるじゃん」

「あるようでない」

「駅まで何分だっけ」

「十一」

「微妙だな」

「微妙なんだよ」

「じゃあ行けるね」

「その言い方はちょっと腹立つ」

「なんで」

「普通の人っぽいから」

「普通の人だけど?」


ぐうの音も出ない。

母が吹き出しそうになっている。

父だけが変わらず黙っていたが、わずかに視線が下がった。笑ったのかもしれない。たぶん気のせいじゃない。


「ネクタイ、曲がってる」

と、由菜。


「え」


慌てて触る。

本当だ。少しだけ中心がずれている。

鏡の前では分からなかったのに、他人の目って腹立つくらい正確だ。


由菜が椅子から立ち上がった。


「じっとして」


「いや、自分で」

「いいから」


そう言って、妹は俺の前に立った。

背はもうそんなに変わらない。

少し前まで、小さいなと思っていたのに。

いつの間にか、こうして俺のネクタイを直せるくらいには並んでいる。


「……由菜」

「何」

「ごめん」

「何に対して?」


手が止まる。


しまった、と思った。

今これを言うのは違う。

違うけど、口から出た。


由菜は俺の目を見なかった。

ネクタイの結び目を整えながら、小さく言う。


「今の“ごめん”は、あとで」

「……ああ」

「今日の分は、帰ってきてから聞く」

「帰ってきたら?」

「聞く」

「帰ってこなかったら?」

「最悪」


それはそうだ。

でも、少しだけ笑えた。


由菜が結び目を整え終える。

一歩下がって見る。

それから、うん、と頷いた。


「たぶん大丈夫」

「たぶんかよ」

「兄ちゃん相手だから保証はできない」

「ひど」

「でも、前よりちゃんとしてる」

「……そっか」


母が小さなペットボトルの水をテーブルに置いた。


「これ持っていきなさい」

「うん」

「返事」

と、父の声がリビングから飛んでくる。


「……持っていきます」

「よろしい」

と、母。


この二人、たまに連携が怖い。


玄関へ向かう。


革靴は昨日のうちに拭いた。新品みたいにはならない。けど、見られて恥ずかしいほどでもない。

靴べらを使う手が少し震える。

呼吸が浅い。

鍵の感触がやけに強い。


ここで止まるな。


また言う。

ここで止まるな。

さっき扉は開けた。

リビングにも入った。

家族とも話した。

もう半分以上は済んでいる。

ここまで来て、最後だけやめるとか、さすがに格好悪すぎる。


背中に、母の足音がした。


振り返らない。

振り返ったら、ちょっと危ない気がした。

たぶん情けない顔をしている。


「恒一」


母が名前を呼ぶ。


前世で自分の名前を呼ばれるたび、少しずつ重くなっていった。

家の中で呼ばれる恒一は、返事を待たせる名前になった。

学校で呼ばれる恒一は、教室の外で固まる名前になった。

履歴書に書く恒一は、空白だらけの紙に乗る名前だった。


でも今、母に呼ばれたその名前だけは、そんなに悪いものに聞こえなかった。


「気をつけてね」

「うん」

「ちゃんと返事」

と、父の声がリビングから飛んでくる。


「……行ってきます」


少しだけ声が震えた。

でも言えた。


その直後に、母が言う。


「いってらっしゃい」


その一言が、やけに真っ直ぐ入ってきた。


前に何度も聞いたはずなのに、こんなふうに聞こえたことはなかった。

送り出す声だった。

期待でも失望でもない。

ただ、行っておいで、という声。


帰ってくる前提の声。


その前提を、自分で何度裏切ってきたか分からない。

それでもなお、この人は言うのだ。

いってらっしゃい、と。


扉を開ける。


外の空気が顔に触れた。


冷たい。

少し湿っている。

住宅街の朝の匂い。

どこかで自転車のブレーキが鳴り、新聞受けに新聞が落ちる音がして、遠くで車が走っていく。


普通の朝だ。


世界は普通に動いている。

俺が何年止まっていたかなんて知りもしない顔で。


一歩、外へ出る。

鍵を閉める。

その金属音が妙に大きい。


もう戻れない。

いや、戻ろうと思えば戻れる。

でも、それを今日やったらたぶんきつい。

今日の「無理だった」は、今までのどの「無理だった」より効く。


歩き出す。


最初の数歩だけ、身体が借り物みたいだった。

スーツの布が擦れる。

革靴が地面を叩く。

右足、左足。

そのたびに、ちゃんと外へ出ているのだと思い知らされる。


道は知っている。

知らないわけがない。

この家から駅までの道なんて、昔は何百回も歩いた。

それでも今は少し違って見える。

角の家の植木。

小さい公園のブランコ。

閉まったままのクリーニング屋。

神社の赤い鳥居。

見覚えがあるはずなのに、何年もまともに見ていなかったものばかりだ。


途中で、小学生の集団とすれ違う。


その瞬間だけ、喉の奥がひゅっと狭くなった。


制服。

笑い声。

ランドセル。

なんでもない朝の風景。


でも俺の中では、そこからすぐ教室の記憶に繋がる。

誰かの椅子を引く音。

教室の前で固まった足。

教卓の前に立つ担任。

笑い声。


駄目だ。

まだ少し早い。

心が勝手に昔へ飛ぶ。


「……違う、違う」


小さく声に出す。

今は駅へ向かっているだけだ。

教室じゃない。

誰も俺の席を見ていない。

誰も俺に何かを言っていない。

勝手にびびるな。


深呼吸する。

少しだけましになる。


コンビニの前まで来た。


ここだ。

一度、ここで駄目だった。

高校生の集団を見ただけで、脇道に逃げて吐いた。

何も食べていなかったから苦しかっただけで、吐いても何も変わらなかった。

そのあと家へ戻って、「ちょっと腹が」とか何とか言った。

母は何も言わなかった。

父もたぶん分かっていた。

由菜だけが、夕方まで妙に優しかった。


あの日の俺より、今の俺は一歩だけましであってほしい。


コンビニを通り過ぎる。


よし。


ただ通り過ぎただけだ。

でも、それだけで少しだけ呼吸が楽になる。


駅前のロータリーが見えてきた。

バスが一台、低く音を立てて曲がる。

自転車の高校生。

イヤホンをした会社員。

小走りの女の人。

みんな勝手に朝をやっている。


俺もその中へ入る。


違和感はある。

あるけど、完全に異物ってほどでもない。

たぶん、世界は俺が思っているほど俺に興味がない。


それは少し寂しくて、かなりありがたい。


信号待ちの列に混ざる。


ここで一度、帰ろうと思った。


いや、正確には「今なら帰れる」と考えた。

相談票を捨てなくてもいい。

今日は下見だったことにすればいい。

駅前まで来た。

十分偉い。

それで終わっても、少なくとも一歩は出たことになる。

明日につなげればいい。


次だ。


また次が出てきた。


その瞬間、少しだけ笑いそうになった。

お前まだ言うのか、次。

ここまで来てまだ言うのか。

どんだけ甘いんだよ。

いや甘いのか?

優しいのか?

違うな、怠け癖と恐怖心が手を組んで“合理的な撤退”の顔をしてるだけだ。


ふざけるな、と思った。


青信号になる。


列が動く。

俺も動く。


その時だった。


車道の向こうから、小さな赤い帽子が飛び出した。


一瞬、理解が遅れた。


赤い帽子。

小さい背中。

子ども。

車道。

白い軽自動車。

ブレーキ音。


そこまでが、ほとんど同時だった。


誰かが叫ぶ。

母親らしい高い声。

「危ない!」


その声で、身体が勝手に動いた。


考えるより先に。

本当に、考えるより先に。


やめろとか、危ないとか、俺が行ってどうなるとか、そういうのが何も挟まらなかった。

ただ見えた。

赤い帽子が。

軽自動車が。

その間の距離が。


走る。


スーツが邪魔だとか、革靴が滑るとか、そんなことも考えなかった。

子どもの肩に手が届く。

軽い。

押したのか、抱えたのか、自分でも分からない。

ただ、自分の腕がその小さな身体を車道の外へずらした感触だけは、妙にはっきりあった。


次の瞬間、衝撃が来た。


胸のあたりを強く打たれる。

息が一気に抜ける。

視界が跳ねる。


あ、と思った。


空が見えた。

曇り空だ。

さっき部屋から見た白い空より、少しだけ明るい。

変なところでそんなことを思った。


地面が近づく。

アスファルトの灰色。

耳鳴り。

遠くで悲鳴。

自分の体がどこからどこまであるのか、一瞬よく分からなくなる。


痛い。


でも、それより先に来たのは、妙な静けさだった。


動けた。


その感覚だけが、やけにはっきりしている。


俺は動けた。

最後まで、また動けなかった、で終わると思っていた。

でも今、体は勝手に前へ出た。


それだけで、何かが少し違った。


頬に冷たい地面の感触。

鉄の味がする。口の中かもしれない。

息がうまく入らない。

遠くで、人が集まってくる音がする。


「大丈夫ですか!」

知らない声。

「救急車!」

別の声。

子どもの泣き声。


ああ、生きてる。


赤い帽子の子どもが泣いている。

良かった。

本当に良かった。


視界の端で、女の人が子どもを抱きしめているのが見える。

たぶん母親だ。

その顔はよく見えない。

でも泣いているのは分かった。


俺は少しだけ笑おうとした。

笑えていたかは分からない。


体が冷える。

音が遠くなる。


そこで、ふいに家の玄関が頭に浮かんだ。


母さんの手。

由菜が直したネクタイ。

父の「返事」。

それから、あの一言。


いってらっしゃい。


ああ、って思った。


あれは、ちゃんと外へ出る俺に向けた声だった。

子どもじゃない。

何もできない赤ん坊でもない。

情けないところだらけでも、今日の朝、自分の足で家を出た俺に向けた声だった。


行く側と、送り出す側。

ちゃんと別々に立ったまま交わされた言葉だった。


だから、嬉しかったんだ。


やっと分かった気がした。


俺はその一言を受け取って、外へ出た。

そして今、たぶん死ぬ。


最悪だ。


やっと外へ出た日に死ぬとか、出来すぎだろ。

人生、最後くらいもう少し空気読めよ。

せめて相談終わってからにしてくれよ。

でも今さらそんな文句を言っても遅い。


悔しい。


ものすごく悔しい。

やっとだったのに。

本当にやっと、一歩目だったのに。


でも、空っぽではない。


今日の朝、俺はちゃんと出た。

ネクタイを締めた。

家族と話した。

コンビニの前も越えた。

信号も渡った。

最後に体が動いた。


全部が立派じゃなくても、ゼロではない。


それが、どうしようもなく救いだった。


暗くなる。


音が遠い。

痛みも遠い。

光も薄い。


落ちていく。

深いところへ。


そのはずだった。


なのに、その暗さの底で、妙な音がした。


最初は誰かの泣き声だと思った。


高い。

細い。

必死で、情けなくて、生きている音。


近い。

いや、近いどころじゃない。

耳の外からじゃない。

もっと内側から響いている。


暗い。


狭い。


温かい。


息が苦しい。

肺が小さすぎる。

胸が勝手に縮む。

喉の奥が熱い。


何だこれ。


何だこれ、何だこれ、いや待て、待て待て待て。


思考だけが先に走る。

体はまるでついてこない。

手を動かそうとしても、短い何かがびくっと跳ねるだけだ。

足も同じ。

首は重い。

視界は曖昧。

光は膜の向こうみたいに滲んでいる。


その上、俺は泣いていた。


勝手に。


止めようとしても止まらない。

泣き声が高い。

自分のものじゃないみたいだ。

でも自分の中から出ている。


「は、はあ!?」


と叫んだつもりだった。


実際には、

「おぎゃあ」

になった。


一瞬、頭の中が真っ白になった。


いやいやいやいや。

待て。

このパターンは知ってる。

知ってるけど、知ってるからって自分がなると思わないだろ普通。


死んだ。

暗くなった。

気づいたら高い声で泣いてる。

体が小さい。

言葉にならない。

目もろくに見えない。


これ、まさか。


転生か?


結論だけが、変に早く出た。


だってそれ以外に説明がつかない。

夢にしては痛みも息苦しさも生々しすぎる。

事故のあと昏睡状態で見てる夢にしては、身体の小ささが具体的すぎる。

そもそも「おぎゃあ」って何だ。

自分の人生でそんな声、出した覚えがない。


本当に、赤ん坊になってるのか。


そう思った瞬間、何か大きなものに抱き上げられた。


柔らかい布。

温かい腕。

頬に触れる肌。

甘い匂い。

少しだけ汗と、薬草みたいな香り。

それと、震えるような高い声。


意味は分からない。

言葉が分からない。


でも、その声が俺に向いていることだけは、はっきり分かった。


泣きそうで、笑いそうで、崩れそうな声だった。

ものすごく大事なものに触るみたいに、俺を呼んでいる。


母親だ。


理由もなく、そう思った。


その瞬間、前世の母の顔が一緒に浮かぶ。


玄関。

朝。

「いってらっしゃい」


あの声は、外へ出る二十五歳の俺に向けた声だった。

今のこの声は違う。

送り出す声じゃない。

迎える声だ。

ようやくここへ来たものを、丸ごと抱きしめる声だった。


胸の奥が変なふうに痛んだ。


前世の母を思い出しているのに、今の腕の中の温かさもちゃんと感じる。

別々なのに、どっちも本物だ。


泣き声がまた大きくなる。


すると、今度は低い声が近づいた。


短い。

低い。

それだけで、周りの空気が少し変わる。


誰か大人の男だ。

父親だ、とすぐ分かった。


視界の向こうに大きな影がある。

顔までは見えない。

でもその人が近くへ来るだけで、周りの気配が少し整う。

そんな感じだった。


その低い声が何かを言う。


意味は分からない。

でも、不思議と怖くない。


前世の父、相沢 恒一朗を思い出す。


朝、仕事へ行く背中。

短い言葉。

黙った顔。

あの人とは最後までちゃんと話せなかった。

俺が勝手に沈黙へ逃げたせいでもある。

それでも今、この低い声を聞いていると、少しだけ胸が静かになる。


この人は俺の過去を知らない。

何もできなかった二十五歳の俺を知らない。

今ここで泣いている小さな何かとしてしか、俺を見ていない。


それが、少し救いだった。


「おぎゃあ!」


泣き声がまた響く。


うるさい。

自分で出してるくせにうるさい。

でも止められない。


その時、別の高い声が混ざった。


子どもの声だ。


元気で、少し跳ねていて、抑えきれていない感じのする声。

何かを一生懸命言っている。

興奮しているのが分かる。


兄か?


まだ分からない。

でも、近くにもう一人子どもがいるらしい。


暗い。

狭い。

苦しい。

それでも、この声たちの中にいるのは、嫌じゃなかった。


前世の俺は、自分の名前を呼ばれるたび少しずつ重くなっていった。

家でも学校でも、返せない名前になっていた。


でも今はまだ違う。

まだ何も返せない。

泣くことしかできない。

それなのに、周りはそのまま受け止めている。


何もしていないのに。

いや、何もできないからこそ、か。


だったら。


今度は、どうなるんだろう。


暗闇の底で、俺は高い声で泣きながら、そんなことを思った。


この泣き声が、自分のものだと認めるしかなかった。



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はじめまして サイレントLV0と申します 小説を読んだのですが、面白いと思いました お互い頑張っていきましょう
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