第十六話
大陸は北の大地に広がる魔法王国ウォルド。そのウォルド王国の中でも北部地方にあたるキャメロット公爵領の冬は、他の公爵領に比べ、ことさら厳しい。馬上で半日も過ごせば、外套の下に毛織物の衣服を着込んでいるとはいえ、身体は五臓六腑が冷えきっているはずであった。しかし、夕暮れに差しかかったころ、町のとある宿屋に到着したエリーゼは、暖かい室内に入って初めて、自分の身体が覚悟していたほど冷えていなかったことに気付いた。馬酔いのため薬で眠っている間ずっと、カリアルードが自身の外套の懐で抱きとめてくれていたのだ。
宿屋の主に話しかけている二人の美しい妖精騎士の背中を見ながら、いまだ己の失態にもんどり打つような思いが鎮まらないエリーゼは、目を覚まして顔を上げた瞬間の、あのカリアルードの銀色がかった水色の瞳に困惑の色が強く浮かんだのをまたもや思い出し、頭を横に振った。
「エリーゼ、大丈夫かい。食事よりも休んだほうが良ければ、そうしてもいいんだよ」
挙動がおかしい少女を振り返った淡い金色の髪の騎士・シャルディンが優しく問うたが、エリーゼはとんでもない、と慌てて口を開いた。
「これ以上ご迷惑をおかけするわけにはまいりません。どうぞ、騎士様の良きようにお運びくださいませ」
顔を上げて二人の騎士を見てはいたものの、若干声が震えているエリーゼを見て、少しの間無言で何かを考えていたシャルディンが、突然にこりと笑って大股で歩み寄ってきた。
「あ、あの……」
平均身長が人間よりも高い妖精族である騎士を間近にし、エリーゼは緊張の面持ちで顔を上げた。そして思わず半歩後ずさったが、すらりと長いシャルディンの右腕が伸ばされると、肩を掴まれてしっかりと抱き寄せられてしまった。
「エリーゼ、きみ、裁縫が得意なんだって? 侍女頭のメリィサに聞いたよ」
唐突な質問に、エリーゼはわけが分からず頷くしかなかった。
「そう。じゃあ、悪いけれど、僕たちの外套の繕いものを頼まれてくれないかな。都からの長旅で所々傷んでいるから」
「外套……ですか? もちろん、わたくしでお役に立てるなら」
「ありがとう、助かるよ。僕たちはしばらく出かけてくるから、きみはゆっくりするといい。外套の件はひと息ついてからでいいからね」
「待て、シャルディン。私たちの外套は――」
「さて、カリアルード。僕らは出かけるとしよう。そんなに心配しなくても大丈夫だよ。すぐそこの酒屋に行くだけだから」
眉をひそめたカリアルードに皆まで言わせなかったシャルディンは、エリーゼに外套を預けると、カリアルードを手招きしつつ、さっさと宿屋から出て行ってしまった。
黒妖精族の騎士の外套を預かったエリーゼは、友の強引な行動に納得できず宿屋の入り口に向かって渋面を作っている白妖精族の騎士に恐る恐る声をかけた。
「カリアルード様、その……シャルディン様がお待ちなのでは」
「エリーゼ」
「は、はい」
「シャルディンの頼み事は無視しても構わない。きみは休んでいていい」
不服そうにそう言うカリアルードに、エリーゼは彼なりの気遣いなのだと思い、微笑んで騎士に手を差し出した。
「お役に立てることがあれば、ぜひわたくしにお申し付けください。外套をお預かりいたします」
「きみは私たちの侍女ではないのだから、無理をする必要はない」
「ありがとうございます。ですが、お二人のお役に立ちたいのです」
「見かけによらず頑固だな」
「……申し訳ございません。出過ぎたことを申しました」
少し解けかけたエリーゼの緊張が再び元に戻ってしまうと、ため息をついた黒髪の美しい騎士が、自分の外套を少女に預けた。
大の男二人分、しかも、人間よりも平均身長が高い妖精族の騎士の外套だ。前が見えなくなりそうなほど嵩のある深草色のそれを、両腕で精いっぱい抱えたエリーゼは、カリアルードの背中が宿屋の入り口の扉の向こうへ見えなくなると、ほっと一息ついた。
「さぁ、しっかりお役に立たなくては」
「お嬢さん」
ふと、繕いものをしようと二階の部屋へ行こうとしていたエリーゼに声をかけてきたのは、騎士二人がいなくなるのを見計らっていた宿屋の主だった。
「一晩お世話になりますね」
エリーゼがにこやかに挨拶をすると、筋肉質でがっしりとした体型をした、宿屋というよりは鍛冶屋か木こりといった風情の中年男が、少女の腕に余っている外套をひょいと持ち上げた。
「部屋まで運んでやろう。それはそうと、あんた、あの妖精族の騎士たちとはどういう関係なんだい?」
「あの、ご主人」
立派な顎髭がまるで熊のような宿屋の主人の唐突な行動に驚いたエリーゼがしどろもどろしていると、熊男が笑いながら謝罪した。
「悪いね、突然。いやなに、あのお二人には何度かうちを使ってもらっているが、初めて人間の女の子を連れてきたから、ちょっと興味がわいてね。護衛かい? となると、あんた、領主様んとこの人だろう――ああ、あんたの部屋はこっちだよ」
少女の答えも聞かずしゃべり続ける宿屋の主人は、しかし、しっかりと部屋へ案内しながら続けた。
「妖精族ってだけでも俺ら人間には近寄りがたいものがあるのに、あの二人は外見が外見だろう? それに、あの兄さんたち――ああ、といっても百年生きているけどな。あの人たちは身分が高いから、仕えている公爵様以外の護衛はしないと思っていたけど、あんた特別なんだな」
「百歳……」
妖精騎士たちの年齢を呆然と呟いたエリーゼは、宿屋の主人に大笑されて我に返った。
「私がお仕えしている方が特別なんです。道中はなんのお役にも立てませんので、この繕いものだけでもきちんとしないと」
宿屋の主人が寝台に置いてくれた二着の外套にそっと手を触れたエリーゼは、荷物から銀の裁縫箱を取り出し、自らも寝台に腰かけた。
すると、エリーゼが手にした美しい裁縫箱に目を見張った宿屋の主人が、顎鬚をさすりながら感嘆の声を上げた。
「ほぉ。素晴らしい細工の裁縫箱だな。それに、あんたが手にしたとたん、輝きが増したような感じがしないか? すごいな。その外套は妖精布だから、繕うのも特別な針と糸で、ってわけか」
「え、これはそんなに特別な素材のものだったんですか」
膝の上に置いた外套が、おいそれとお目にかかれない代物であったことが判り、エリーゼの心臓が早鐘を打った。
「わ、私、そんなものだなんて知らなくて。どうしよう、とんでもないことを引き受けてしまったのかしら」
「心配するこたぁない! あんた、その裁縫道具にきちんと認められているんだ。いつもどおり繕ってやればいいじゃないか」
「ご主人……」
エリーゼは、自分の小さな背中を大きな手のひらで優しく叩いてくれた宿屋の主人をありがたく見上げ、ふと、不思議に思ったことを問うた。
「あの、ご主人。色々なことを御存じなのですね。この裁縫道具のことや、妖精布のことだって」
「まぁな。こんな商売してると、色んなものを見る機会があるもんだ。そうだ、あとで何か温かいものをご馳走しよう。珍しいものを見せてもらったお礼だと思ってくれ」
「嬉しいです。ありがとうございます」
物知りな宿屋の主人に誤魔化されたような、少々腑に落ちないものがあったが、それ以上の追及はせず、エリーゼは清浄な輝きを優しく放つ裁縫道具を手に、気合を入れて繕いものに集中し始めたのであった。