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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
最終章 【画霊】 がれい
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■第58話「消えないと思った線」


 風が吹いた。

 河川敷の展望ベンチのまわりは静かで、川の音と、たまに遠くを走る車の音しかしない。朝の光が水面のきらめきを細かく砕いて、草の上にまだ淡い影を落としている。


 初狩は俺の右腕を取ったまま、少し眉を寄せた。


「じっとしててください」


 ペン先が皮膚に触れている。ボールペンの球がほんの少し食い込んで、そこから青い線が生まれる。


「動かれると、変な狐になります」

「もともと変な狐だろ」

「描く側からすると違うんです」


 そのやり取りで、空気がほんの少しだけゆるんだ。

 ゆるんだ、と言っても、ここ数日の重さが消えたわけではない。初狩の左腕にはまだボールペンの下絵が残っていて、ビニール袋の中の針はベンチの横に置かれたままだ。何も解決していない。

 だが、少なくとも今、初狩の手は自分の腕ではなく俺の腕に向いている。それだけで、呼吸が一つ分だけ楽になった。


 初狩は慎重に線を置いていく。

 耳の輪郭。額から鼻先への曲線。ひねくれた目元。

 ボールペンの先端が皮膚を擦るたびに、かすかな摩擦が伝わってくる。痛くはない。だが妙に緊張する。自分の身体の上に、他人の線が乗っていく——その感覚が思ったより生々しい。紙の上の絵とは違う。体温がある。脈がある。皮膚が少し動くだけでラインが歪む。


「高尾クン、その狐、耳はもっと尖ってるんですか」

「いや、そこまで凶悪じゃない」

「目つきは?」

「悪い」

「それはもう描いてます」


 思わず笑いかけた。だがすぐに真顔に戻った。

 今の笑いは安堵ではない。「少しだけ戻ってきた」と感じてしまって、逆に怖くなるくらいのものだ。ここで安心したら、また見誤る。


 初狩は描きながら、ぽつりと言った。


「……ほんとに、いいんですか」


 手は止まらない。ペンは動いたまま、声だけが低くなった。


「わたし、たぶん今、まともじゃないです」


 知ってる、と思った。

 知っている。だから来た。

 そのまま口にする。


「知ってる」

「…………」

「だから来た」


 短かった。

 だが、長い言葉で誤魔化すよりはいい。初狩は何も返さなかった。ペンだけが動いている。


**


 初狩が線に集中し始めたあたりで、片手でスマホを出した。


「ちょっと待て。……いや、続けていい」


 初狩が怪訝そうにこちらを見たが、手は止めなかった。狐の頬のラインを引いている最中だ。集中が切れたくないのだろう。


 片手で、笹子先輩にLINEを打った。


「今すぐ来てください」

「例のペン持ってきて」

「急ぎ」


 さらに位置情報も送信して、スマホをポケットに戻す。


 「例のペン」というのは、どっぺるさんのクエストの時に笹子先輩が話題にしていたものだ。


 植物由来のインクで肌に描けて、見た目は入れ墨に近いが、二週間ほどで自然に消える。被服部にはコスプレ用の道具が一通り揃っていて、ジャグアのペンも何本かストックがあるらしい。

 気になって検索したことがあるが、その知識が今役立つとは。


 俺は、ここで本物の入れ墨をさせる気はない。

 ……いや、差し出した時は半分本気だった。あのままでも止まるなら、それでいいと思った。けれど、正気に戻しかけている今の初狩に、本物の傷だけは残させたくなかった。


 理由は三つある。


 一つ。俺の腕に本物を入れて、後で消したくなった時——初狩は自分がやったことごと後悔する。自分の絵を守るために他人の身体を傷つけた、という記憶が残る。

 二つ。素人彫りで感染症が起きたら、後悔では済まない。

 三つ。初狩を「自分を壊した人」にも「他人を傷つけた人」にもしたくない。


 だから、消えるインクで描かせる。

 止めるために、騙す。

 ずるいのは、わかっている。

 でも今は、それしか思いつかない。


**


 初狩の手が、少しずつ変わっていくのがわかった。


 最初はためらいがちだった線が、途中からは迷いなくつながっていく。狐の額。目元の皺。頬を覆う毛並み。尻尾の付け根から先端への流れ。


 完全に元通りの初狩の線ではない。以前の、滑らかで自信に満ちた筆致とは少し違う。だが「自分に閉じるための線」ではなくなっている。誰かの腕の上に、誰かへ渡すつもりで引かれている線だ。


 この線は、自傷ではない。


 久しぶりに、ちゃんと他者へ向いた絵だ。


「高尾クンの説明、変でしたけど」


 初狩が、目を腕に落としたまま言った。


「描いてるうちに、なんとなくわかってきました」


 ペンが尻尾の先端に差しかかっている。


「こういう顔で、人を小馬鹿にする狐なんですね」

「だいたい合ってる」

「だいたいなんですね」

「完璧に合ってたら、あいつに失礼だろ」

「失礼ってことは、やっぱり性格悪い狐じゃないですか」


 会話が、ほんの少しだけ日常に近づいている。

 まだ遠い。まだ全然足りない。だが、数日前まで「帰ってください」しか言わなかった人間が、こうして軽口めいたものを返している。その事実だけが、今は頼りだ。


 土手の下から、足音が聞こえた。

 草を踏む音。息を切らしている。


 初狩の手が一瞬だけ止まった。


 顔を上げて、土手のほうを見る。目を細めた。


「……玲先輩」


 小さく呟いて、それだけだった。なぜここにいるのか、誰が呼んだのか、訊かなかった。


 視線はすぐに俺の腕に戻った。狐の頬のラインを引いている途中だ。今はそっちのほうが大事らしい。


 笹子先輩が土手を上がりきって、状況を見ている。一瞬だけ目を丸くした。俺の腕を取って絵を描いている初狩。河川敷のベンチ。脇に置かれたビニール袋。


 だが、空気を壊さなかった。


 笹子先輩は事情を察するのが早い。何が起きているか、何が起きかけていたか、才がなぜ自分を呼んだか——それを数秒で飲み込んで、余計な言葉を飲み込んだ。


 静かに近づいてきて、初狩から死角になる側で俺の隣にしゃがんだ。ポーチから細いペンを一本取り出し、俺の手に押し込む。目だけで「これやろ」と言っている。


 ジャグアタトゥーペン。頼んでおいたものだ。

 俺は小さくうなずいて、初狩に渡した。


「仕上げ、これで」


 初狩が少しだけ眉を動かした。


「……何でですか。わたしの道具があるのに」

「素人がかき集めた道具だろ。インクの成分もわからない。針も滅菌処理がきちんとされているかもわからない。さっき言ったこと、もう忘れたか」


 感染症の話だ。さっき自分で言った。針の消毒、インクの成分、腫れるリスク。あの話の続きとして、道具の信頼性を突く。筋は通っている。


「笹子先輩が信頼の出来る知り合いから借りてきたものだ。少なくとも素性のわからない道具よりはマシだろ」


 ……もちろん嘘だ。被服部づてに持ち出したものだと正直に言えば、消えるだけの代用品だと初狩に勘づかれる。


 初狩は俺の顔を見て、それからペンを見た。

 数秒。


 反論しなかった。自分がかき集めた道具に不安がなかったわけではないのだろう。自分でも「素人でも入れ墨を入れられる道具」を検索していた人間だ。その検索をしている時点で、プロの道具が手に入らないことは知っていたはずだ。


 キャップを外して、穂先を見た。一瞬だけ何か考える顔をして——それから、俺の腕に目を落とした。下描きの狐の輪郭に、意識が戻っていく。


 ジャグアの濃い茶色が、ボールペンの青い下描きの上に乗っていく。線が太くなり、色が変わり、狐の輪郭が少しずつはっきりしていく。


 初狩は黙って描いている。俺も黙っている。


 河川敷の風と、ペン先が肌を擦る小さな音だけが、二人のあいだにある。

 しばらくして、口が勝手に動いた。


「……俺の小説、誰も読んでない」


 なぜ今この話をするのか、自分でもわからなかった。初狩の手が俺の腕の上で動いているのを見ているうちに、ずっと胸の底に沈めていたものが浮いてきた。


「閲覧数は50。感想は0。ブックマークは——最近やっと1つ付いた」


 初狩は手を止めなかった。だがペンの運びが、ほんの少しだけゆっくりになった。


「AIに頼めば、たぶん俺より上手い小説が出てくる。構成も、伏線も、文体もきれいに整った、読まれやすいやつが」


 自嘲が混じった。


「でもさ、AIは——自分から書こうとはしないんだよ」


 言いながら、自分でもまだ掴みきれていない。言葉が足りない。だが止まれなかった。


「命令すれば出てくる。精度も速度も俺の百倍ある。けど、あいつらは『これを誰かに読んでほしい』とは思わない。そもそも、誰にも頼まれてないのに書き始めたりしない」


 初狩の手が、ほんの一瞬だけ遅くなった。


「俺が書いてるのは——たぶん、届くかもしれないっていう、ほとんど根拠のない期待のためだ」


 口にしてみると、笑えるほど弱い理由だった。


「効率で言えば最悪だ。例えば50人にしか見られなくて、50人のうち29人は途中で閉じてる。それでも書いてるのは……なんだろうな。届くかどうかわからないのに、手を伸ばしてる感じ、としか言えない」


 うまく言えなかった。もっとちゃんとした言葉があるはずだ。だが今の俺には、これが限界だった。


「……祈り、に近いのかもしれない。祈りって、届くかどうかわからないから祈りなんだろ」


 最後の一文は、自分でも意外だった。考えて出した言葉ではない。口が先に動いた。

 初狩は何も返さなかった。

 ただ、狐の目元を描く線が、少しだけ丁寧になった気がした。

 それからしばらく、また沈黙が続いた。ペン先の音と、風と、遠くの川の音。初狩の手が腕の上を移動していくのを、じっと見ていた。


 やがて、絵が完成した。


 俺の右腕の内側——肘から手首にかけて、白い狐が一匹、横たわるように描かれていた。

 耳は少しだけ尖っていて、目元にはひねくれた皺がある。尻尾は太くてふわふわしていて、全体的に偉そうなくせにどこか胡散臭い。

 オボロだ。

 俺にしか見えないはずの狐が、初狩の手で、俺の皮膚の上に実体を与えられている。


 初狩は一歩だけ引いて、自分の仕事を見た。

 しばらく黙っていた。

 それから、ぽつりとこぼした。


「……高尾クンの腕に、わたしの世界を刻んじゃった」


 「描いた」ではなく、「刻んだ」と言った。

 その言葉の重さが、初狩自身にも返っていくのが見えた。目の奥に、何かが揺れている。


「後悔してるのか?」


 静かに訊いた。


 初狩はすぐには答えなかった。

 俺の腕の狐を見たまま、数秒かけて、ようやく声を絞り出した。


「ちょっと……」


 声が震えている。


「わたし、どうかしてたのかも」


 小さな声だった。


「自分の絵にこだわりすぎて……取り返しのつかないこと、しちゃったのかも」


 初狩がようやく、自分の行動を少しだけ外から見ている。

 説得で止まったのではない。描き終えたことで初めて、他人の身体に残る重さを実感したのだ。自分に閉じるはずだった線が、目の前の人間の腕に乗っている。消えない色で。


 自分の執着が、自分以外の誰かに跡を残した。

 その手触りが、初狩を正気に引き戻しかけている。


 笹子先輩は少し離れた場所に立ったまま、ずっと黙って見ていた。腕を組んで、何も言わず、初狩が描き終わるまで待っていた。

 その笹子先輩が、口を開く。


「才くん、言わんでええの?」


 表情は穏やかだが、目だけが「もういいだろう」と言っている。

 向き直った。

 初狩の顔を、まっすぐ見た。


「実はな」


 初狩の肩がわずかに強張った。何を言われるのか。怒られるのか。それとも——もっと重い何かを突きつけられるのか。覚悟を決めるように、唇を引き結んでいる。


「それ、二週間くらいで消えるんだよ」

「……!」


 初狩の目が、一瞬だけ止まった。


「まあ……入れ墨じゃないんだけどな」


 意味がわからない、という顔。

 それから理解が追いついて、怒りの形を作ろうとする。眉が寄って、口が開きかけて——。

 だが、その怒りは最後まで形にならなかった。


 ストン、と。

 腰が抜けたみたいに、初狩がベンチの端に座り込んだ。膝の力が抜けて、そのまま背もたれに体重を預ける。


「許さない……じゃなくて」


 声が途切れた。

 肩が小さく震えている。


「良かったぁ……」


 泣いていた。

 大泣きではない。肩の力が抜けた拍子に、目の端から涙が一筋だけ落ちた。それを拭おうとして、手が間に合わなくて、制服の袖口に染みを作った。


「わたし、とんでもないことしちゃったと思いましたよ」


 その声で、わかった。

 初狩は本当はずっと怖かったのだ。「盗まれない絵」に執着していた一方で、ほんとうに取り返しのつかないことをするのは怖かった。でも追いつめられて、他に方法がないと思い込んで、ここまで来てしまった。

 だから——騙されてよかった。

 消えるインクで描いたと知って、怒りより先に安堵が来た。それが、初狩の本当の気持ちなのだろう。


「騙してごめんな」


 素直に言った。


 初狩は泣きながら、少しだけ笑った。笑いと涙が混じって、ぐしゃぐしゃの顔になっている。


「でも、騙されて良かったのかも……」


 鼻を啜って、続ける。


「本当に高尾クンの腕にわたしを刻んじゃったら、責任取らなきゃいけないから……」

「責任?」


 本気でわからなかった。何の責任だ。


 後ろで笹子先輩が、少しだけ笑う気配がした。


「そやなぁ」


 笹子先輩の声が、空気を少しだけ軽くした。


「才くんを彼氏にするには、いろいろ問題ありそうやしな」

「は?」


 意味がわからない。何を言っているんだこの先輩は。


 初狩が、そこでようやく——ちゃんと笑った。

 大爆笑ではない。沈黙の底からやっと浮き上がった、小さな笑い。まだ目は赤いし、鼻も啜っている。でも、口元がちゃんと上がっている。


 何日ぶりだろう、この顔を見たのは。



**


 しばらく、三人とも何も言わなかった。


 風が吹いている。河川敷の草が揺れる。川面が秋の日差しを反射して、白く光っている。ベンチの影が足元に短く落ちて、三人の影が寄り添うように重なっている。


 初狩が、俺の腕のオボロをもう一度見た。

 消えるインク。二週間で消える絵。

 でも——ちゃんと「誰かに渡した絵」だった。自分の腕に閉じ込めるために描いたものではなく、目の前の人間の皮膚の上に、届けるために置いた線だった。


 それから、初狩は河川敷の向こうへ目を向けた。

 水面。草の揺れ。ベンチの影。遠くの橋。空の色。

 さっきまで、それらは初狩の視界に入っていなかったはずだ。自分の腕と、針と、消えない絵のことだけで頭がいっぱいだった。


「……久しぶりに、ちゃんと描きたい景色があるかもしれない」


 小さな声だった。

 独り言に近い。俺に向けたのか、自分に向けたのか、わからない。


 その一言を、聞き逃さなかった。

 聞き返さなかった。


 ただ、腕に残った狐の線を見て——ほんの少しだけ、息を吐いた。


 河川敷の風が、三人のあいだを抜けていく。

 朝の光は少しずつ輪郭を増して、水面の白さを静かに押し広げていた。


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