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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
最終章 【画霊】 がれい
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■第57話「お前に向ける線」


 土手の斜面を駆け上がる足が、何度も滑った。

 草の根が靴底を掴んで、離して、また掴む。秋の枯れかけた草は思ったより滑りやすくて、二度ほど膝をつきかけた。息が切れている。運動が苦手な身体に、全力疾走は応える。肺の奥がひりつく。

 それでも止まれなかった。


 堤防の上に出た瞬間、河川敷が一望できた。

 十月の朝の光が、川面に散っている。対岸の住宅地がまだ朝靄の中にぼんやり沈んでいて、空だけが高く、薄い青に染まりかけている。風が冷たい。草が一斉に傾いて、ざわざわと音を立てる。その音の中に、自分の荒い呼吸が混じっている。


 見晴らしの張り出し。展望ベンチ。


 そこに、初狩がいた。


 ベンチの端に座っている。小さな背中が、朝の光の中にぽつんとある。

 手元にスケッチブック。だが開かれたページは白紙に近い。何本か線を引いた痕跡はあるが、絵と呼べるものにはなっていない。

 その代わり——左腕の内側に、ボールペンで描きかけの下絵があった。

 初狩の座るベンチの傍らに、ビニール袋。口が開いている。中身が少し見える。縫い針。小さなインク瓶。ガーゼ。消毒液。

 全部、家から持ち出してきたものだろう。裁縫箱の針。画材棚のインク。救急箱のガーゼと消毒液。ネットで調べた手順を、手元にあるもので再現しようとしている。

 プロの道具は一つもない。滅菌された針でもなければ、肌に安全なインクでもない。消毒液で針を拭いただけで、あの腕に刺すつもりだったのか。


 背筋が冷えた。感染症どころの話じゃない。


 だが、まだ針は使われていない。

 ペンの下絵は完成していない。

 腕の上に青いインクの線が走っているだけで、皮膚に穴は開いていない。


 ギリギリ、間に合った。


 数歩手前で立ち止まった。

 足音で気づかれているはずだ。土手を駆け上がる音を、この距離で聞き逃すほど初狩の耳は鈍くない。

 だが初狩は振り向かない。ベンチに座ったまま、左腕の下絵に目を落としている。


 息を整えた。

 整えきれなかった。


 ためらいが、一瞬だけあった。

 ここで声をかけたら、また「帰ってください」と言われるかもしれない。今度はもっと深い場所から遮断されるかもしれない。

 だが、黙って立っているわけにはいかない。


「……初狩」




**



 初狩は振り向かなかった。

 肩が少しだけ動いた。こちらに気づいている。だが、顔は自分の腕に向いたままだ。


「よくわたしの場所がわかりましたね……そういやストーカーの気がありましたっけ」


 皮肉だった。だが、皮肉が出るうちはまだいい。


 数歩だけ近づいた。

 まだ隣には座らない。距離は詰めすぎない。


「何してるんだ?」


 聞いた。

 わかっていて、聞いた。自分の口からではなく、初狩の口から言わせる必要があった。


 初狩は自分の左腕を見たまま、答えた。


「下絵を描いてるんです」


 少し間があった。


「誰にも盗まれない、わたしだけの絵を描くために」


 その声には、理屈ではなく執着があった。なぜそうするのかを説明する気はない。技術論でも防衛策でもない。ただ、「奪われないものが欲しい」という一点だけが、声の芯に通っている。


 一拍置いて、本質を突いた。


「……入れ墨か?」


 初狩が、初めてちゃんとこちらを見た。

 驚いた顔だった。目が少し開いて、口が半分開いて、すぐに閉じた。

 それから、低い声で返した。


「なんでわかったんですか?」


 検索履歴のことも、ねむの分析のことも、説明しなかった。

 ここで全部を説明するのは、才らしくない。


「探したからだよ」


 短く言った。


「お前がどこに行くかも、何考えてるかも」


 不器用だ。自分でもわかっている。だが、今はこれしか出てこなかった。


 初狩は笑い損ねた。唇の端が動きかけて、途中で止まった。苦い顔。


「高尾クンって、そういう時だけ当ててきますよね」


 言葉で押し返してくる力が、まだある。

 沈黙の底まで落ちきった人間は、皮肉を言わない。返す言葉があるということは、まだここにいるということだ。

 そこが、救いだった。



**



 正論では止められない。

 頭の中で、言うべきことと言ってはいけないことが高速で分かれていく。


 入れ墨を入れた高校生がどう見られるか。校則違反で停学か退学か。就職や進学に響くか。親にバレたらどうなるか。初狩の家は、絵を描くことすら禁じた父親がいる家だ。


 全部、正しい。正しいが、今ここでそれを並べたら、初狩は「やっぱりそういう話か」と閉じる。社会がどう思うかで止めようとする人間の言葉は、社会に削られてここまで来た初狩には届かない。


 なら、先に自分の中身を差し出すしかない。


 展望ベンチの端に腰を下ろした。

 初狩と同じ方向を向いて座る。対面ではなく、並ぶ形。説得する側とされる側ではなく、同じ景色を見ている二人。このほうが、俺たちには合っている。


 そして、話し始めた。

 時間稼ぎでもあり、本気でもあった。


「俺、小学生の時いじめられてたんだよ」


 ぶっきらぼうだった。前置きも文脈もなく、いきなりだった。

 自分でも唐突だと思った。だが、切り出し方を選んでいる余裕はなかった。初狩の左腕の下絵は、もう八割がた完成に近づいている。


「……何の話ですか」


 初狩が怪訝な声を出した。だが手は止めていない。ペンが腕の上を滑る音が、小さく続いている。


「小学校の五年生の時だ。毎日殴られて、ノートを破られて、教室の隅で——まあ、そういうやつだった」


 言い方が雑だ。自分の過去なのに、他人事みたいに聞こえる。でもそれは、他人事みたいに語らないと今の俺には喋れないからだ。


「その時、俺の中に——狐が出てきた」


 初狩のペンが、一瞬だけ止まった。


「白い毛の、偉そうな狐。オボロって名前の。俺にしか見えないやつ」

「……そういえば高尾クンって、時々『誰か』と話してましたよね」

「そう。あいつだ」


 そこからは、初狩にもわかる言葉を選びながら話した。

 つっかえた。言い直した。自嘲が混じった。論文みたいに整理された説明にはならなかった。それでいい。


 オボロは本物の怪異じゃなかった。俺が作り出したイマジナリーフレンドだった。

 俺は異常なほど記憶してしまう人間で、見たもの聞いたもの全部が消えない。嫌な記憶も、痛い言葉も、全部残る。そのままだと壊れるから、オボロに記憶の一部を預けるみたいな形で、なんとか「忘れっぽく」生きてきた。

 クエストメールも——あの差出人不明のメールも、外から来てたんじゃない。俺が、俺自身に送ってた。深夜に、たぶん半分眠ったまま、REXのPCで下書きを書いて、自動送信を仕込んでた。

 見過ごせない誰かの痛みを、そのまま抱え込んだら俺が壊れるから、「クエスト」って形に変えた。課題にしたら、観測してるだけじゃなくて動けたから。

 オボロも、クエストも、全部——俺が壊れないための安全装置だった。


 話し終わるまでに、どのくらいかかったかわからない。


 初狩は途中から黙って聞いていた。

 最初は怪訝な顔をしていたが、クエストが自作自演だったくだりで、ほんの少しだけ表情が動いた。


「……じゃあ、あれ全部」


 声が小さかった。


「高尾クンが?」


 うなずいた。


「俺宛てだったんだよ。俺が俺に送ってた」


 少し間を置いて、付け足す。


「多重人格とか、そういうんじゃないと思うけど」


 さらに続ける。


「でも、そうしないと、たぶん俺は——そのまま壊れていくだけだった」


 言ってから、自分の言葉の重さに気づいた。

 初狩は今、自分を壊してでも自分の絵を守ろうとしている。

 俺は昔、自分が壊れないために安全装置を作った。

 方向は逆だ。でも、どちらも「生き延びるための歪んだ工夫」だ。

 その一点で、俺たちは似ている。



**



 俺が話しているあいだも、初狩の手は止まっていなかった。

 聞きながらも、左腕の上でペンが動いている。下絵がほぼ完成しようとしている。曲線が閉じかけて、輪郭が形になろうとしている。

 それを見て、時間がないと悟った。


 ここから先は、創作論ではなく、身体の話をしなければならない。


「入れ墨が自己表現の一つなのは、わかってる」


 声を落として言った。


「他人が頭ごなしに止めるもんでもないと思ってる」


 初狩はこちらを見ない。でも、聞いている。耳が向いている。


「でも、素人彫りは感染症がある。針の消毒が不十分なら、肝炎のリスクもある。インクの成分が肌に合わなくて腫れることもある」


 淡々と言う。

 説教ではなく、事実として。


「後から消したくなっても、消えない。レーザーで除去しても跡が残る。今のお前は——」


 一拍、息を吸った。


「決めたんじゃなくて、壊れた勢いでそこまで行こうとしてるように見える」


 初狩の手が、止まった。

 完全に、止まった。


「俺はもう、お前にこれ以上壊れてほしくない」


 その一言が出た時、自分でも驚いた。

 綺麗な言葉でも、論理的な説得でもない。ただの——懇願だ。


 初狩は黙っていた。

 視線を落としている。下絵のほぼ完成した自分の腕と、ビニール袋の中の針と、朝の穏やかな河川敷。その全部を見ているようで、何も見ていないような顔。


 止めるだけでは、足りない。

 「やめろ」だけでは、何も変わらない。初狩がここに来た理由——奪われないもの、消えないもの、自分だけの絵——その渇望自体は、否定できない。否定したら、初狩は閉じる。


 だから、代わりのものを差し出すしかない。


「……だから、俺に描け」


 風が、一瞬だけ止まった気がした。


 初狩が顔を上げた。

 本気で驚いている。目が大きく開いて、口が半開きになって、理解が追いついていない顔。


「は?」

「自分に入れるな」


 自分の右腕の袖を、左手でまくった。肘の内側まで出して、初狩のほうへ差し出す。


「彫るなら、俺に描け」

「何言ってるんですか?」

「聞こえてるだろ」

「意味わかんないです」

「わかんなくていい」

「なんでそうなるんですか?」


 初狩の声が上ずっている。困惑と怒りと、それから——何か別のものが混じっている。


「俺の自作自演のクエストに付き合ってくれた、せめてもの詫びだ」


 理屈として完璧ではない。自分でもわかっている。

 だが、完璧じゃないから本気に聞こえる——そう信じるしかなかった。


 初狩は黙った。

 自分の腕の下絵と、差し出された俺の腕を、交互に見ている。

 数秒。

 十秒。


 風が吹いて、スケッチブックの白紙が音を立てた。


「……ほんと、ずるいです」


 小さな声だった。

 怒りでも諦めでもなく、「その手で来るのか」という——自分を止めるために自分の身体を差し出してくる人間への、どうしようもない脱力。


「今さらですよ」


 初狩の声が、少しだけ震えた。


「高尾クン、ずっとあっち向いてたじゃないですか」


 あっち。

 一瞬、何のことかわからなかった。だがすぐに、わかった。

 真白のことだ。空席のクエストで、俺は真白を探して、真白を被服部へつないで、真白の言葉を受け取って——その間ずっと、初狩は隣にいた。隣にいて、絵が変わって、通知を隠すようになって、それでも俺は「まだ大丈夫だろう」と思っていた。


「わたし、待ってたんですよ」


 声は小さかった。責めているのではない。責める気力すら残っていない声だった。


「高尾クンが気づいてくれるの、ずっと待ってた。でも来なかった。来なかったから——自分でやるしかないって、思ったんです」


 胸の底が、抉られた。

 知っていた。知っていたはずだ。「遠くの声は拾えたのに、隣の沈黙を聞き逃した」と、自分でそう思っていたではないか。


 だが初狩の口から聞くと、痛みの形が違う。俺の後悔と、初狩の失望は、同じ出来事の裏表だった。

 返す言葉がなかった。

 言い訳はできない。事実だから。


「……ごめん」


 それだけ言った。それしか言えなかった。

 初狩はしばらく黙っていた。

 それから、少しだけ視線を落とした。

 自分の左腕を見た。ほぼ完成した下絵を見た。

 それから、俺の腕を見た。

 差し出された腕。さっき、小学校のいじめもオボロもクエストの自作自演も、全部さらけ出した人間の腕。正論で武装した手ではなく、自分と同じように壊れかけている人間の手。

「……描くだけですよ」

 声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「まだ、彫りませんから」


 その一言で、ビニール袋の中の針が、一歩だけ遠くなった。


「何がいいんですか」


 初狩が訊いた。ペンを持ち直している。さっきまで自分の腕に向けていたペン先が、今は宙に浮いている。


「花とか、模様とか、文字とか」


 一瞬、つまった。

 何を描いてもらうか、考えていなかった。ここまで走ってきて、「自分に描け」とまでは言えたのに、「何を」の部分が抜けていた。

 だが、出てくるべき名前は一つしかなかった。


「オボロ」


 間。


「狐の、あいつ」


 初狩が少しだけ呆れた顔をした。


「変なところでブレないですね」

「描けるか?」

「見たことないですけど」

「今から説明する」


 説明した。

 白い毛。細い目。少しひねくれた口元。偉そうな顔。でも、たまに妙に優しいことを言う。耳は三角で、先が少し反ってる。尻尾は太くて、根元がふわっとしてる。全体的に、妖狐っぽいくせにどこか胡散臭い感じ。


「それ、かわいい狐じゃなくて、性格悪い狐では?」

「同じだろ」

「違います」


 その短い応酬の間に、初狩の手つきが変わったのがわかった。

 さっきまでの手——自分の腕に閉じた線を刻んでいた手つき——とは、何かが違う。ペンを持つ角度が少しだけ開いている。自分に向けるための線ではなく、誰かへ渡すための線を引こうとする手だ。


「じゃあ、描きます」


 そう言って、初狩は俺の右腕を取った。

 指先が触れた。冷たかった。俺の手も冷たかったから、どちらが冷たいのかわからなかった。


 ペン先が、腕の内側に触れる。

 白い狐の、耳の先端から。

 最初の一本が引かれた。


 ほんの少しだけ、肩が震えた。

 痛みではない。くすぐったさでもない。ただ、自分の皮膚の上に、初狩の線が乗った。その感触が、思ったより——生々しかった。


「……失敗しても、知りませんよ」


 初狩が小さく言った。

 声は低い。だがさっきまでの、感情を封じた声とは違っていた。少しだけ、ほんの少しだけ、線を引く人間の声に戻っている。


 俺は腕を引かなかった。


 河川敷の風が、二人のあいだを抜けていく。

 朝の光が、まだ斜めに差している。川面は白く光って、風に揺れるたび、薄い青の上に細かい銀を散らしていた。


 自分へ向けるはずだった線が、初めて別の誰かへ向けて置かれる。


 ——まだ、間に合うかもしれない。



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