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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
最終章 【画霊】 がれい
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■第56話「最後のキャンバス」


 夜が明けても、既読はつかなかった。


 朝の教室。いつも通りの始業前の騒がしさ。椅子を引く音、鞄を机に置く音、誰かの笑い声。十月の朝日が窓から差し込んで、床に四角い光を落としている。


 初狩の席は、今日も空いていた。


 見ないようにした。見ないようにして、失敗した。見ないようにすればするほど、あの空席が視界の中で大きくなる。安住先生は今日も淡々と出欠を取り、「初狩さん、体調不良」とだけ言って次の名前に移った。


 クラスの誰も、もう気にしていない。

 「いないこと」が景色になりかけている。新しい席順に慣れるように、新しい時間割に慣れるように、一人の不在に慣れていく。その速度が、たまらなく嫌だった。


 一限目。二限目。

 授業の内容が頭に入らない。ノートを取る手だけが動いていて、中身が追いついていない。板書を写しているのに、目は初狩の席のほうへ流れる。

 三限目の途中で、腹が決まった。


 昼休み。

 廊下の窓際でスマホを開いた。

 画面にはLINEのトーク一覧が表示されている。初狩の名前の横に「既読」の二文字はない。昨夜送った「どれかわからなくてもいい。話したい」は、まだ宙に浮いたままだ。


 その下に並ぶ名前を、目が追う。

 ねむ。笹子先輩。


 昨夜、この名前を開いて閉じた。開いて閉じて、何も送れなかった。

 あの時は膝が重すぎた。「助けてくれ」と言えなかった。一人じゃ無理だと認められなかった。


 今も重い。

 だが、一晩かけてわかったことがある。

 重いまま動かないと、初狩の空席がこのまま景色になる。教室と同じだ。誰も気にしなくなる。俺だけが気にしていても、一人では何も変わらない。


 スマホを握り直す。

 ねむのDMを開いた。

 指が動く。今度は、閉じない。


 「頼みがある」

 「初狩を探したい」

 「一人じゃ無理だ」


 三行。

 最後の一行を打つ時、指がほんの少しだけ震えた。

 自分の限界を、文字にしたのは初めてだった。



**



 昼休み、被服部の扉を開けた。


 布とミシン油の匂いは変わらない。窓際のテーブルに広がった型紙。壁に画鋲で留められた蝶子の衣装デザイン画。だが今はミシンも止まっていて、部室には昼休みの弛んだ空気が流れている。


 笹子先輩がテーブルの一角でコンビニのおにぎりを広げていて、山田先輩はその向かいでパックのサラダをつついていた。二人とも制服のまま、型紙を端に寄せて昼食のスペースを確保している。


 入るなり、俺はぶっきらぼうに切り出した。


「笹子先輩、山田先輩。頼みがあります」


 笹子先輩がおにぎりを置いた。山田先輩がフォークを止めて、こちらを見た。


「初狩を探してます。もう何日も学校に来てない。LINEも既読つかない」


 一気に言った。言い方を選ぶ余裕がなかった。選んでいたら、また閉じてしまいそうだった。


「笹子先輩には、初狩の交友関係で最近見かけた人がいないか当たってほしいです」


 笹子先輩は軽口を挟まなかった。普段なら「大ごとやん」くらいは言う人間だが、今は俺の顔を見て、それだけで空気を読んだらしい。


「わかった。うちの知ってる子らにも聞いとく」


 短い。だがその短さが、今は一番ありがたかった。


 山田先輩にも向き直る。


「山田先輩には、上の学年とか部活経由で、初狩の居場所を知ってそうな人がいないか見てもらえませんか」


 山田先輩はサラダのパックを閉じた。


「手がかりゼロじゃ厳しいけど、聞くだけ聞くよ」


 少し間を置いて、付け足した。


「ただし、変に『騒ぎ』にはしない。いい?」

「……はい。それは、お願いします」


 山田先輩の判断は正しい。初狩は今、追い詰められている。善意だろうと、大勢が一斉に動いたら、それ自体が包囲網になる。静かに、少人数で、本人に気づかれないように探す。そのほうがいい。


 被服部を出ようとした時、背中に声がかかった。


「あ、高尾くん」


 振り返ると、部室の隅——普段は真白が座っている椅子のあたりから、小さな声が聞こえた。真白がいた。さっきは気づかなかった。膝の上にお弁当箱を広げたまま、こちらを見る。


「私も、時雨さんを探します」


 声は小さかった。だがはっきりしていた。


「同じ部活の仲間だし……探し回ることはできます」


 一瞬、断ろうとした。反射的に「いや、無理しなくていい」という言葉が喉まで来た。

 真白は、少しだけ食い気味に言った。


「無理してませんからね」


 そこで少し間を置いて、視線を落とした。


「見つけてもらった側なので」


 その一言に、返す言葉がなかった。

 白花神社で俺に見つけてもらった子が、今度は誰かを探す側に回ろうとしている。


「……ありがとう」


 それだけ言って、被服部を出た。



**



 篠原先輩には、遠回しにしなかった。


 渡り廊下の途中で見つけて、呼び止めた。副会長の腕章をつけたまま、何かの書類を抱えて歩いていたところだった。


「篠原先輩、初狩を探したいんです。手伝ってくれますか」


 先輩は足を止めて、こちらを見た。

 事情を聞き返さなかった。理由も訊かなかった。数秒だけ俺の顔を見て、それから小さくうなずいた。


「わかった」


 それだけだった。

 「正しいから」手伝うのではなく、俺がそう頼んだから動く。篠原先輩のその距離感が、今はありがたかった。



**



 午後の授業は、ほとんど上の空だった。


 ねむからはまだ返事が来ない。依頼を受けてくれたのかどうかもわからない。だが送ったものは取り消せない。


 五限目が終わった。六限目が終わった。放課後になった瞬間、鞄を掴んで教室を出た。


 笹子先輩からLINEが来たのは、校門を出たあたりだった。「今んとこ手がかりなし。もうちょい当たるわ」。

 山田先輩からは「上の学年は空振り。部活関係ももう少しかかる」。

 篠原先輩からは何も来ない。来ないということは、まだ見つかっていないということだ。

 真白からは「白花駅の南口と、学校裏の通りを歩きました。いませんでした。ごめんなさい」。


 みんなが動いてくれている。感謝しかない。


 俺自身も動いた。

 学校の帰り道。商店街。REXの周辺。白花駅の構内。コンビニ。初狩が普段立ち寄りそうな場所を、一つずつ回った。

 いない。

 どこにもいない。

 コンビニの店員に「最近、こういう女の子来ましたか」と訊いても、首を傾げられるだけだった。商店街の理容店のおじいさんは「最近は若い子、あんまり来ないねぇ」と言った。


 結局、全員が空振り。足で探して見つかる相手ではない——頭ではわかっている。だが動かずにいることのほうが、今は無理だった。



**



 日が傾き始めた頃、REXに入った。


 扉を上げて、鍵を回して、中に入る。カビと埃と古い配線のにおい。ポータブル電源の緑のLEDが暗がりの中で点滅している。


 スマホを確認するとねむからDMが来た。


 長文だった。

 ねむにしては珍しく、箇条書きではなく、文章の形で送られてきている。


『時雨の最近の投稿と、REXのPCに残ってた下描きデータ、それからブラウザのブックマークを見比べた』

『傾向は出てる』


 読む。


『まず、最近の絵はモチーフが変わってきてる。風景や全身構図が減って、腕や首筋や鎖骨まわりのクローズアップが増えてる。肌の描き込みも異常に細かくなってて、毛穴とか産毛の影とか、普通のイラストなら省略するような部分をやたら丁寧に拾ってる』

『次に、反復されるモチーフ。針。刺す。残る。消えない。このあたりの連想が、最近の絵のタイトルやタグに散ってる』

『あと、保存画像と閲覧傾向の中に、入れ墨やタトゥー関連の資料がかなり混じってた』


 一文一文が、胸に刺さる。

 だがまだ、確信には至らない。ねむも同じらしい。


『彫り師に興味を持った可能性もあるけど、断定はできない』

『これは傾向だから。答えじゃない』


 入れ墨。タトゥー。

 最初に浮かんだのは、初狩が誰かに彫る側に回ろうとしているのではないか、という読みだった。彫り師に憧れた。消えない表現に惹かれた。それなら、まだ理解できる。


 だが——違和感がある。

 今の初狩は、他人に向いていない。学校に来ず、既読もつけず、SNSも沈黙し、自分の輪郭だけを守ろうとしている。そんな人間が、誰かのために彫る側に急に回るか?


 REXのデスクトップPCを起動した。

 前に下書きフォルダを掘った時と同じ画面が立ち上がる。今度はブラウザを開いた。履歴を辿る。


 検索履歴に残っていた文字列を、一行ずつ読んでいく。


『入れ墨 入れ方』

『入れ墨 痛い?』

『素人でも入れ墨を入れられる道具』

『タトゥー 自作』

『針 墨 代用』

『消えない絵 方法』


 一瞬、息が止まった。

 画面の文字列が、ただの検索ワードではなく、初狩の思考の足跡として読めてしまう。一行一行に、彼女の指先が触れた痕跡がある。


『自作』

『素人でも』


 これは、誰かにやってもらう側の検索ではない。自分でやる方法を探している。


 だが——自分に? それとも——。


 もう一度、ねむの分析を読み返す。


『腕や首筋のクローズアップが増えてる』

『肌の描き込みが異常に細かくなってる』


 検索履歴と並べると、線がつながる。初狩は絵の「対象」を風景やキャラクターから身体そのものへ移していた。


 初狩の変質した絵を思い出す。あの露悪的な色彩、わざと不快にねじ曲げた構図。あれは反応を取りに行くためじゃなかった。自分の元の画風を真似されないために、自分から壊しに行った結果だった。

 つまり初狩が求めていたのは、最初から「評価」ではない。

 「奪われないもの」だ。


 ネットに上げなくていい。

 誰にもコピーされない。

 絶対に消せない。

 完全に自分だけの——。


「……そうか」


 声が出た。


「誰かに彫るんじゃない」


 REXの暗がりの中で、自分の声だけが響く。


「初狩は、自分の身体を——」


 そこで口が止まった。

 言い切るのが怖かった。自分の口から出す言葉が、事実を確定させてしまう気がして。


 だが、考えは止まらなかった。

 初狩は、自分の身体を最後のキャンバスにする気だ。


 ネットには上げない。AIにも学習されない。誰にも模倣されない。消えない。奪われない。

 自分の皮膚の上に、自分の手で、自分だけの絵を刻む。

 それが初狩の出した答えだ。


 椅子の背もたれを、両手で握った。

 指が白くなるまで力が入った。


 だが——まだ「いつ」と「どこで」がわからない。

 通販で道具を取り寄せているなら、届くまでには数日かかる。もう届いたのか、まだなのか。それすらわからない。


 ねむに連絡した。検索履歴の内容と、俺が辿り着いた推理を全部送った。

 返事は、数分後に来た。


『わかった。検索履歴の時系列と、最近の投稿の傾向を突き合わせる』

『あと、絵のモチーフの変化もちゃんと追う』

『時間かかる。朝までに出す』



 朝まで。

 それまで、俺にできることは何もない。

 足で探しても見つからなかった。仲間に頼んでも見つからなかった。今夜は、待つしかない。


 もう夜も遅い。家に戻るのも面倒なので、商店街にあるコンビニで夕食を買ってくる。

 母親は叔父の件で現地で後処理を行っていると言うことなので、今日も家にはいない。このままREXに居ても大丈夫だろう。


 俺は椅子に座ったまま、天井を見上げた。

 暗い。古い配線が蜘蛛の巣みたいに張り巡らされている。その向こうは闇で、何も見えない。


 初狩がどこにいるのか、わからない。

 何をしようとしているかは、もうわかった。

 でも、止める手段がない。居場所もわからない。


 検索履歴の最後の日付を確認した。「タトゥー 道具 通販」の検索が三日前。一般的な通販なら、注文から到着まで二日か三日。

 もう届いているかもしれない。

 明日届くのかもしれない。

 その境目に、今いる。


**


 眠れなかった。


 店内のソファーに横になっても、天井の染みが模様に見え始めた頃にはもう深夜二時を回っていた。スマホの画面を点ける。初狩のトーク画面。既読なし。消灯。また点灯。既読なし。ねむのDM。まだ来ていない。


 三時半。四時。五時。


 時計を見るたびに、時間が進んでいるのか止まっているのかわからなくなる。

 うとうとしては目が覚めてを繰り返しているうちに、窓の外が白んできた。

 六時半。スマホが震えた。

 DiscordのDM。ねむからだ。


 長文だった。

 ねむにしては珍しく、箇条書きではなく、文章の形で送られてきている。


『昨日の分析の続き。場所の手がかりを探した。それからブラウザのブックマークを見比べた』

『ヒントは見つかった』


 急いで読む。


『場所までは断定できないけど、最近の絵の背景とか保存画像に近い風景を拾えた』

『候補、四つ送る』


 画像が四枚、連続で送られてくる。

 河川敷の展望ベンチ。駅裏の歩道橋。古い公園の見晴らし台。町外れの空き地脇のフェンス。

 どれも「人が少なくて、少し景色が見える場所」だった。一人でいても不自然じゃない、けれど完全に人目がないわけでもない。そういう場所。


『この中のどれかに寄ってる気がするけど、絞れなかった』

『ここまでが僕の限界』


 スマホの画面を、一枚ずつ見比べた。

 歩道橋。公園。空き地。

 どれも、あり得る。初狩が行きそうな場所だと言われれば、否定はできない。


 だが。

 一枚だけ、指が止まった。


 河川敷の展望ベンチ。


 決め手は景色全体ではなかった。

 ベンチ脇に落ちた影の歪み。手すりの塗装の剥がれ方。その下の草の揺れ方。

 そして——あの日のことを、超記憶が引きずり出してきた。


 以前、あのベンチで初狩と並んで座ったことがある。初狩がスケッチブックを開いて、何かを描き始めた。俺はその横で、ぼんやり川を見ていた。

 初狩の手元を見た時、意外なことに気づいた。

 彼女は川や空から描き始めなかった。

 最初にペンを落としたのは、ベンチの影だった。塗装が剥がれた手すりの角。地面に伸びた歪な影。そこから入って、少しずつ周囲へ広げていった。


 それと——もう一つ。


 初狩が以前、ぽつりと言ったことがある。「うまく描けなくなった時って、たぶん人は"好きだったもの"の場所に戻るんだと思います」。何気ない一言だった。いつ言ったかも、どういう文脈だったかも、正確に覚えている。だが当時はそれほど気に留めなかった。


 今、その言葉が戻ってくる。

 好きだったものの場所に、戻る。

 描けなくなった人間が、最後に向かう場所。


 他の三つの候補を、頭の中から消した。


「……ここだ」


 推理ではなかった。

 初狩の見方を知っていたから、わかった。あいつがどこから絵を描き始めるか。何を最初に見るか。それを覚えている人間は、たぶん俺しかいない。


 七時を過ぎていた。

 窓の外はもう明るい。十月の朝の光が、住宅地の屋根を照らしている。


 ソファーから跳ね起きた。

 上着を羽織る。鞄を掴む。


 スマホを握ったまま、ねむに一言だけ返す。


 「河川敷のベンチだ。ありがとう」


 ねむの返事はすぐに来た。


 「根拠は」


 「初狩の描き方を知ってる。あいつはあの場所から描き始める」


 数秒の間。


 「わかった。気をつけて」


 玄関を出た。

 十月の朝の空気が冷たい。まだ日は昇りきっていない。東の空が白みかけているだけで、住宅地の屋根はまだ影の中にある。

 走った。

 坂を下り、住宅地を抜け、河川敷の方角へ。

 風が冷たい。朝の空気が、走る身体にぶつかってくる。


 初狩は、誰かに彫るんじゃない。

 自分に入れる気だ。

 だから、戻るなら——あそこしかない。


 鞄の紐が肩から落ちかけるのを、手で押さえた。

 息が切れる。足が痛い。運動は苦手だ。昔からそうだ。

 それでも止まれなかった。



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