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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
最終章 【画霊】 がれい
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■第59話「震える線は、届こうとしている」


 河川敷の一件から数日が経った。


 朝の教室。いつものように少し早めに入って、反射的に初狩の席を見てしまう。もうここ何日もの癖だ。見ないようにする、という努力すら忘れて、自動的に視線がそちらへ向く。


 今日は、鞄があった。


 席についているわけではない。椅子はまだ引かれたままだ。でも、机の横のフックにちゃんと鞄が掛かっている。見覚えのある、少しくたびれた紺のトートバッグ。

 それだけで、胸の奥が変にざわついた。安心とも緊張とも違う、どちらにも振れきれない感覚が、みぞおちのあたりで揺れている。


 教室の前の扉が開いた。

 初狩が入ってくる。


 派手な演出はなかった。誰かが大声で「おーい、初狩じゃん」と叫ぶこともない。何人かがちらっとそちらを見て、すぐに視線を戻した。あとは朝の教室のいつもの音——鞄を開ける音、スマホの通知音、椅子を引く音——が続くだけ。


 初狩は少しだけ顔色が悪かった。

 でも、前とは違う。あの何日も学校に来なかった頃の、壊れた静けさではない。

 今日の静けさは、ただの緊張に見えた。久しぶりに来た場所の空気に慣れようとしている人間の、ぎこちない沈黙——たぶん、そういうものだ。


 自分の席に座った初狩の横を通りすぎる時、声をかけた。


「おはよう」


 少し、ぎこちなかった。


「……おはようございます」


 初狩も、ぎこちなかった。

 それだけだ。

 それだけで十分だった。戻ってきたこと自体が、もう大きい。



**



 授業中、初狩はちゃんとノートを取っていた。

 ただ、時々ぼんやり窓の外を見る。休み時間も、自分から誰かの輪に入る感じではない。隣の席の女子が話しかけて、初狩が短く返して、それで終わる。

 完全に馴染んではいない。

 だが、前と決定的に違うのは、逃げていないことだ。そこに座っている。ここにいることを、やめていない。


 放課後、初狩と一緒に被服部へ顔を出した。

 旧館の二階。扉を開けると、布とミシン油の匂い。窓際のテーブルに広がった型紙。蝶子の新しい衣装デザインが壁に貼られている。


 笹子先輩がミシンの前から顔を上げた。

 一瞬、軽口を言いかけて——少しだけやめた。口の端が上がりかけて、戻って、それからあえて軽く言い直した。


「お、復活やん」


 間を一つ置いて。


「まあ、無理はしたらあかんけど」


 山田先輩はテーブルの端でアイロンを握ったまま、振り返りもせずに言った。


「来たなら座りなよ」


 それだけ。過剰に感動しない。大騒ぎしない。そのほうが、初狩には優しい。


 部室の隅で、真白がスケッチブックを膝に載せたまま、こちらを見ていた。少し迷っている顔。何か言おうとして、言葉を選んでいる。

 やがて、小さな声で言った。


「おかえりなさい」


 初狩が、ほんの少しだけ目を伏せた。

 「ただいま」とは返さなかった。でも、肩の力がかすかに抜けた。それが返事の代わりだった。



**



 放課後、久しぶりに二人でREXへ行った。


 扉を開けて、鍵を回して、中に入る。

 カビと埃と古い配線のにおい。いつもの、この店の匂い。ポータブル電源の緑のLEDが暗がりの中で点滅している。


 右腕の袖口を、無意識に引っ張った。ジャグアの線はまだ濃い。冬服の長袖が、ちょうどいい隠れ蓑になっている。体育の着替えだけが少し面倒だが、内腕を壁側に向ければ済む話だ。


 デスクトップPCの前に座った。

 電源を入れる。ファンが回り始める。モニターが青白く立ち上がる。

 見慣れた画面。フォルダ。メールソフト。ブラウザ。


 だが——何も来ない。


 新着メールはゼロだ。差出人不明のクエストは、もう届かない。下書きフォルダも、ただのフォルダとして静かに在るだけだ。オボロの声も聞こえない。薄暗い店内のどこにも、白い狐の影は見えない。


 PCはただの機械の顔に戻っていた。

 もう外から指示が来ることはない。


 初狩は、俺の横に立ってモニターを見ていた。見慣れたはずの画面を、少しだけ遠い目で見ている。


「……久しぶりですね、この画面」


 小さな声だった。

 初狩の手が、ペンタブレットの上に伸びかけた。指先がタブレットの表面に触れて——止まった。触れただけで、持ち上げなかった。


 何百枚もこの上で描いてきた手だ。画風を壊していく過程も、全部この上だった。

 今ここでペンを取ったら、何が出てくるかわからない。あの壊れた絵が出てくるかもしれない。戻れたと思った線が、また歪むかもしれない。

 その怖さが、彼女の指先の躊躇に見えた。


「まだ、ここでは描かなくてもいいです」


 俺が言ったのではない。初狩が、自分に向かって呟いた。


「先に、外で描きたいものを見つけてからにします」


 ペンタブレットから手を離した。

 静かだった。

 何も言わずに、モニターの電源を切った。画面が暗くなる。ファンの音だけが残って、それもすぐに静かになった。


「出よう」

「はい」


 扉を閉める時、初狩が一度だけ振り返った。

 暗い店内を、数秒だけ見ていた。古い筐体のシルエット。消えたモニター。ペンタブレットの上に置かれたままのペン。


 何かを言いかけて、やめた。


 扉が閉まる。金属の音が商店街に響いて、すぐに消えた。

 初狩は前を向いた。俺も前を向いた。


 十月の午後の光が、商店街の入り口まで差し込んでいた。



**



 白花センター通り商店街を、二人で歩いた。


 シャッターの下りた店が連なっている。色褪せた看板。閉店したまま剥がされずに残っている何かのイベントのポスター。アーケードの骨組みの隙間から、夕方の光が斜めに差し込んでいる。

 人通りは多くない。酒屋のおじさんが店先で煙草を吸っていて、コンビニの自動ドアが開閉する音が遠くで聞こえる。

 完全に死んでいるわけではない。生活の残り火みたいなものが、通りのあちこちに散っている。


 初狩が、途中で立ち止まった。

 商店街の少し開けた一角。使われなくなった文房具屋の前だった。

 シャッターは半分だけ下りていた。もう何年も前に閉店したはずなのに、その隙間からは奥の暗がりが見える。

 店先に残った「閉店のお知らせ」の紙が、風で端だけ揺れている。

 夕方の光が、シャッターの表面に斜めの影を落としていた。


「……ここ、ちょっと描いてもいいですか」


 少しだけ驚いた。

 さっきREXで、ペンタブレットに手を伸ばして止まった人間だ。「まだここでは描かなくていい」と自分に言い聞かせて、手を引いた。あれから三十分も経っていない。

 それが今、自分から「描いていいですか」と言っている。


「いいけど」


 初狩は鞄からスケッチブックを取り出した。

 鉛筆を握る。

 だが、ファーストタッチがすぐには出なかった。

 白い紙面を前に、少し迷っている。以前の初狩なら、迷いなく線が出ていた。自動運転みたいな滑らかさで、手が勝手に動いていた。


 今は違う。「ここをどう描こうか」と立ち止まっている。迷いがある。

 だがその迷いは、壊れる前の迷いとは質が違った。選んでいるのだ。どの線を最初に置くかを、自分の目で見て、自分の頭で選ぼうとしている。


 初狩は手元を見ながら、ぽつりと話し始めた。


「この前、高尾クンの腕に描いた時……ちょっとわかった気がしたんです」


 口を挟まなかった。

 ここは、聞く番だ。


「AIって、たぶん、すごいんです」


 鉛筆が紙の上で止まっている。まだ線は引かれていない。


「上手いし、早いし、たぶんわたしよりずっと正しい絵も出せる」

「百万通りの正解を並べることも、できるのかもしれない」


 そこで一拍、間が空いた。

 風が吹いて、閉店のお知らせの紙が小さく音を立てた。


「でも……あいつら、誰にも頼まれてないのに」


 声が少しだけ低くなった。


「"これを届けたい"って、勝手に叫び出したりはしないんですよね」


 その言葉が、商店街の静かな空気の中に落ちた。

 説教ではない。批評でもない。初狩が、自分の手と、自分の記憶と、この数日の経験から辿り着いた——たぶん、ずっと見失いかけていたものの輪郭。


「この前、描いてる時、手が震えてたんです」


 初狩は鉛筆を少しだけ回した。指先の動きを確かめるように。


「高尾クンの腕に変な線引いたらどうしようって、怖かったから」


 初狩は少しだけ間を置いた。自分の言葉を確かめるように、鉛筆の軸を指先で転がしている。


「でも、たぶん、それだけじゃなくて……届いてほしいって思ってたから、震えてたんだと思います」


 俺は黙って聞いていた。

 初狩の声は静かだ。でも、言葉の一つ一つが、自分の中から掘り出したばかりの鉱石みたいに——まだ角が取れていなくて、少しだけ光っている。


「AIには、あれはたぶん、ただのノイズです」


 視線が手元に落ちた。自分の指先を見ている。河川敷で才の腕に線を引いた、あの指を。


「でも、人が描く時の震えって……たぶん、そうじゃない。届かないかもしれない誰かに、手を伸ばしてる時の震えなんです」


 返す言葉を探した。

 だが、ここで気の利いたことを言ったら、初狩の場を奪ってしまう。


「……そうだな」


 それだけ返した。

 短すぎるかもしれない。でも、今はこれでいい。


 初狩は少し恥ずかしそうに目を伏せた。自分が思ったより多く喋ってしまったことに、今さら気づいたような顔。


「だから、たぶん」

「上手くなくても、完璧じゃなくても、いいんですよね」


 その一言に、何も返せなかった。

 返せなかったのは、言葉がなかったからではない。

 嬉しかったからだ。


 あの河川敷で、自分の身体に消えない線を刻もうとしていた人間が、「上手くなくても、完璧じゃなくてもいい」と自分の口で言った。それがどれだけ大きな一歩か、たぶん本人にはまだわかっていないだろう。



**



 初狩が、スケッチブックに最初の線を引いた。


 空や遠景ではなかった。

 シャッターのへこんだ線。小さなへこみが作る影の形を、鉛筆の先で丁寧になぞっている。

 次に、店先に残った古い貼り紙の端。紙が反り返って、角がめくれている。その微細な曲線を拾っている。

 看板の塗装の剥がれ。夕方の斜めの影。路面のひび割れ。


 細部から入っている。

 河川敷でベンチの影から描き始めた時と、同じだ。川や空より先に、欠けたものの輪郭を拾う。初狩の「見方」が、戻ってきている。


 戻ってきたのは、「絵が上手かった初狩」ではない。

 「自分の目を持っている初狩」だ。

 うまいかどうかは、今の俺には判断できない。速いかどうかもわからない。

 ただ、その線が——いまここにある景色と、隣に立っている俺に向かって伸びていること。それだけがわかる。

 それが、嬉しい。


 鉛筆が紙を擦る音が続いている。

 商店街の夕暮れの中で、初狩の手が動いている。まだ迷いはある。線が止まることもある。でも、止まったあとで、また動き出す。


 その音を聞きながら、ふとREXのある方角を見た。

 商店街の奥。細い横道の向こう。あの古い建物の中に、もう沈黙したPCがある。

 差出人不明のメールは、もう来ない。

 クエストの指示は、もう降ってこない。

 けれどその静けさは、終わりというより——。


 「次は自分で書け」


 そう告げられているように、思えた。

 まだ言葉にはならない。予感だけだ。

 だが予感は、確かにそこにあった。


 初狩の鉛筆が、商店街の最初の影をなぞっている。

 その音だけが、十月の夕暮れに残っていた。



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