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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
最終章 【画霊】 がれい
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■第50話「七日間の宣告」


 あのメールを、何度思い出したかわからない。


 《クエストNo.0006『塵塚の空席』|任務失敗》


 声なき声は、まだ拾われていない。

 見えなかった「ひとり」は、元の場所へ戻らなかった。

 捨てられた言葉は、別の空席を満たし続けている。


 昨夜REXのモニターで見た文面が、頭の中で何度も再生される。消えない記憶のせいで、一字一句そのまま残っている。目を閉じても開いても、同じ言葉が同じ順番で並んでいる。


 わかりきったことなのに、確認せずにいられない。たぶん俺は、もう一度開いたら文面が変わっていてくれないかと、どこかで期待している。

 馬鹿げている。自分でもわかっている。


 放課後の教室に残っていた理由は、特にない。

 帰る気力がなかっただけだ。五限が終わって、六限が終わって、終礼が終わって、椅子を引く音が教室中で鳴って、それがやんでからもう二十分は経つ。窓際の席で、何をするでもなくぼんやりしている自分がいるだけだ。


 窓の外では秋の日が傾き始めている。教室の蛍光灯は半分だけ点いていて、机の影が廊下側まで長く伸びていた。空気が冷え始めている。制服のシャツ越しに、肩甲骨のあたりがうっすら冷たい。


 任務失敗のメールのすぐ下に、もう一通あった。昨夜、存在に気づいていたのに開けなかったメール。新しいクエスト。


 失敗の直後に届いた次のクエストは、これまでのどの案件よりも嫌な予感がした。だから蓋をしていた。まだ前の傷が乾いていないのに、次の切り口を見るのが怖かった。


 けれど蓋をしたままでは、いつまで経っても蓋のままだ。


 椅子を立つ。鞄を掴む。足が勝手に決めていた。REXへ行く。あのメールを開く。


**


 学校の裏門を出ると、十月の風が首筋を掠めた。

 商店街までの道は、いつもの道だ。坂を下り、住宅地を抜け、白花駅前のアーケードの骨組みが見えてくるまで、およそ十五分。

 白花センター通り商店街は、今日も半分死んでいた。

 シャッターの下りた店が連なり、営業しているのはコンビニとファストフードと老舗の和菓子屋くらいだ。アーケードの鉄骨は錆びて、屋根のない部分から夕陽がまっすぐ路面を照らしている。人通りはほとんどない。遠くでカラスが鳴いた。


 夕方の光だけが、妙にきれいだった。

 シャッターの表面を赤く染めて、剥がれかけた店名看板の文字に影をつけて、誰もいない通りをまるで舞台みたいに照らしている。

 ふと思う。

 こういう、なくなりかけのものばかり見ているな、と。

 この商店街も。REXも。オボロも。

 そして——。


 考えかけて、やめた。

 名前をつけるにはまだ早い。まだ間に合うのかどうかも、わからない。


**


 REXに入ると、筐体の音はしていなかった。


 カビと埃と古い配線のにおいに混じって、かすかにインクの匂いがした。


 初狩がいるのかもしれない。だが先に、やることがある。


 デスクトップPCの前に座った。モニターの電源を入れる。メールソフトを開く。

 昨夜の任務失敗メールの下に、未開封が一通。


 親指がマウスに触れる。

 クリックする。


────────────────────────────

差出人:不明

件名:クエストNo.0007『画霊の消失』

本文:

【ミッション】ここに残る「魂の宿った絵」を見つけろ。


画霊は、絵に宿る魂のことだ。

だが最近、この町ではそれが静かに剥がれ落ちている。


絵は残る。線も色も残る。

だが、そこにあった“誰かの祈り”だけが消えていく。


画霊は、観測されなければ存在できない。

忘れられた瞬間、それは名もなく失われる。


七日後までに見つからなければ、

おまえの大切な者は完全に消えるだろう。

────────────────────────────


 読み終えて、すぐには意味を理解できなかった。

 画霊。魂の宿った絵。七日。大切な者。

 単語が順番に脳の中へ落ちてくるのに、つながらない。古い言い回しが妙に耳についた。まるで昔話みたいな文体で、それがどこかオボロの声に似ていて——苛立った。


 苛立ちの矛先は、メールの文面ではない。

 自分だ。

 初狩を助けられなかったのは、俺だ。彼女の絵が変わっていることに気づいていたのに、「まだ大丈夫だろう」と思ってしまったのは、他でもない俺自身だ。


『おまえの大切な者は完全に消えるだろう』


 その一文を読み直したとき、胸の底が重くなった。

 すぐに「初狩のことだ」と断定はしたくない。

 したくないが、頭のどこかではもう答えが出ている。前回のクエストの"空席"の正体が、教室の机ではなく初狩時雨の心だったことを、俺はもう知ってしまっている。


 俺は静かにメールを閉じた。


**


 次の日もREXへと寄る。


 店に入ると、筐体の音はしていなかった。

 いつもなら、どれか一台くらいは電源を入れっぱなしにしてある。雷電の基板が待機画面を流している低い音や、メダルゲーム機の微かな電子音が、この店の生命維持装置みたいな役目を果たしていた。

 だが今日はそれがない。

 代わりに聞こえるのは、PCのファン音だけだ。叔父が残したデスクトップ機の、回転する冷却ファンのうなり。それが薄暗い店内でやけに大きく響いている。

 カビと埃と古い配線のにおいに混じって、かすかにインクの匂いがした。


 奥へ進む。

 初狩がいた。

 モニターの前に座って、ペンタブレットの上に手を置いている。イヤホンは片耳だけ。姿勢がいつもよりも低い。背中が丸まっていて、画面に覆いかぶさるような格好だった。


 最初、俺は自分の絵に加筆しているのだと思った。

 イラスト投稿界隈では、下絵に自分の線を重ねて『完成品』として仕上げるやり方もある。最初、俺はそういう加筆作業をしているのだと思った。


 だが、よく見ると違った。


 画面に並んでいる絵は、以前の初狩の画風ではなかった。

 また画風を変えている。


 PCには複数のウインドウが開いていて、それぞれに描きかけの絵が表示されている。どれも初狩の筆致だ。だがどれも、これまでの初狩とは別物だった。

 露骨な肉体の誇張。意図的に不快感を煽る色彩。皮膚の質感をわざと崩した塗り方。SNSで切り抜かれやすい部分だけを強調した構図。視線が勝手に引き寄せられる——しかし引き寄せられた先にあるのは美しさではなく、生々しい嫌悪感だった。


 本来なら初狩時雨は、こんな絵を描かない。

 少女の横顔、光の射し込む窓辺、猫の毛並み。静かで繊細で、見る人間の呼吸を少しだけ止めるような絵が、初狩の世界だった。


 これは——。


 少し遅れて、理解が追いついた。

 迎合じゃない。

 抵抗だ。

 ただし、あまりにも自傷的な。


 「初狩っぽい」と真似されることから逃げるために、初狩自身が自分の画風を壊しにかかっている。元の自分の絵からわざと遠ざかることで、模倣される領域そのものを消し去ろうとしている。

 壊されるくらいなら、自分で壊す。

 そういうことだ。


 初狩は振り向かなかった。

 モニターの光が横顔を青白く照らしている。イヤホンの片耳からかすかに音楽が漏れている。俺が来たことには気づいているはずだ。

 わかっていて、振り向かない。


「最近、こういうのの方が反応いいんですよ」


 声が、思ったより平坦だった。

 画面を見たまま、まるで天気の話でもするみたいに言う。


「"わたしっぽい"って真似されないし」


 ペンがモニターの上を滑る音。小さな摩擦音が、静かなREXの中で妙にはっきり聞こえる。


「気持ち悪いでしょ。でも、気持ち悪いほうが盗まれにくいんです」


 開き直りとは違う。

 この声には、怒りも、悲しみも、諦めすらも薄い。

 追いつめられた人間が、最後に見つけた理屈をただ並べている

 ——そんなふうに聞こえた。


 初狩の中では、たぶん筋が通っているのだろう。不快な絵をわざわざ真似したがる人間は少ない。だから、似せて遊ぶ側にも拾われにくい——少なくとも初狩は、そう考えたのだ。


 けれど、それが正しいかどうかは、今の俺にはどうでもいい。


 モニターに映った絵を、もう一度見た。

 初狩の手で、初狩時雨を殺すような絵が、そこにあった。


「……それが、お前の描きたい絵なのかよ」


 口をついて出た言葉は、自分で思っていたよりきつかった。

 心配しているのは本当だ。だがそれと同じくらい、怒っている。"自分の絵を守る"ために"自分が描きたいもの"まで捨てるのは、本末転倒だと感じるからだ。守るべきものを壊して、それで何が残る。


 綺麗事だ、と頭のどこかで思う。

 綺麗事だとわかっている。模倣される苦しみを知らない人間が言う言葉だ。

 それでも、黙って見ていることはできなかった。


 初狩は、そこで初めて俺のほうを見た。


 目の下にうっすらと隈があった。

 でも泣いてはいない。

 目は乾いていて、表情は妙に静かで、教室で真白の空席を見つめている時のクラスメイトみたいに——感情がひとつ、凪いでいた。

 その静けさが、泣き顔よりよほど怖い。


「……それ、高尾クンにはわからないですよ」


 淡々とした声だった。


「自分の作品を模倣されない人には」


 一瞬、何か返そうとした。

 口が開きかけて、閉じた。

 なぜなら、それはずっと俺の胸に刺さっていた棘そのものだったからだ。


 "似られる苦しみ"は知らない。


 俺が知っているのは"誰にも注目されず、誰にも真似されない苦しみ"のほうだ。閲覧数の少ない投稿ページ、感想ゼロのブックマーク欄、「模倣される」以前に「存在を認知されない」側の痛み。

 けれど今ここでそれを言っても、比較にしかならない。お前のほうがましだ、いや俺のほうが——そういう話じゃない。


 初狩は続けた。


「真似されるって、褒め言葉みたいに言う人もいます」


 ペンタブレットの上に置いた手が、無意識に握りしめられていく。


「でも、違うんです」


 言葉を選んでいるのではなく、言葉が勝手に出てきている感じだった。堰を切ったというほど激しくはない。静かに、でも止まらない。


「削られてるんですよ。少しずつ」


 モニターの光が初狩の指先を照らしている。その手は小さくて、ペンだこが中指の内側にある。何千枚も描いてきた手だ。


「昨日まで自分だった線が、今日には"よくある感じ"になってる」


 声が少しだけ低くなった。


「それがどんな気持ちか、高尾クンにはわからない」


 返す言葉を、探した。

 正論を組み立てようとして、やめた。

 代わりに、嘘のないことだけ言う。


「……わからない」


 それは認めるしかなかった。


「けど、わからないから黙って見てていいとも思わない」


 初狩の目が、ほんの少しだけ揺れた。

 揺れて、すぐに戻った。


「壊されるのと、自分で壊すのは、同じじゃないだろ」


 その言葉に、初狩は小さく笑った。

 笑いというより、自嘲だった。唇の端がわずかに上がっただけの、温度のない表情。


「壊されるくらいなら、自分で壊したほうがましなんですよ」


 その一言が、REXの空気を重くした。

 古い筐体も、剥がれた床も、カビた壁も、全部がその言葉を吸い込んで黙り込んだように感じた。


 俺は言葉を失った。

 初狩はまだ泣いていない。助けを求めてもいない。

 自分が間違っているとは、たぶん思っていない。

 だからこそ、厄介だとわかる。

 これは崩壊の途中ではない。崩壊を"方法"として受け入れ始めた人間の顔だ。


 空気を切り替えたのは、店の奥から聞こえた物音だった。


 古い筐体の隙間——暗がりの中で、何かが動いた気がした。

 振り返る。

 白い影が、薄闇の中に滲んでいた。


 オボロだ。

 いつものように、この店の暗い場所から姿を現す。妖狐の白い毛並みが、モニターの逆光で縁取られている。

 ただ、何かが違った。


 輪郭が、薄い。

 照明のせいだと思いたかった。REXの中はいつだって暗いし、ポータブル電源の出力が落ちれば蛍光灯の明るさだって変わる。

 だが、それにしても——前より存在感が弱い。以前ならもっとはっきり見えていた白い毛並みが、今日は暗がりに溶けかけている。まるで、薄い紙を一枚、光に透かしているみたいに。


(……お前、薄くなってないか?)


『気のせいじゃ』


 オボロはいつもの調子で返した。皮肉っぽくて、少し偉そうな声。


『店が暗いだけじゃろ。お主(ぬし)の目が腐っておる』


 軽口だ。

 いつもの軽口のはずだ。

 だが、その軽さの裏に何かが透けている気がして、俺は目を細めた。


『今はそちらを見よ』


 オボロの視線が、初狩のほうへ動いた。


『狐より、人間のほうがよほど消えやすい』


 その言葉に、胸が詰まった。

 見透かされたように、初狩のほうへ視線を戻す。

 引っかかりはある。オボロの薄さも、あの言い方も、どこかおかしい。

 だが今は——今は、初狩のほうが優先だ。


 初狩は、もう話す気をなくしていた。

 再びモニターに向き直り、ペンを動かし始めている。背中が壁を作っている。俺が見ていることは知っているだろうに、その壁を崩す気はないらしい。


「今日は一人にさせてください」


 静かな声だった。

 拒絶ではなく、遮断だ。感情ごとシャッターを下ろすような、冷たく乾いた言い方。


 俺は立ち去れなかった。

 だが、残っても今の自分の言葉では届かないとわかっている。「わからない」と認めた時点で、俺の手持ちの言葉はほとんど使い切っていた。ここから先、何を重ねても正論にしかならない。正論で人を止められるなら、世の中はもっと簡単にできている。


 帰り際、モニターに表示された投稿画面がちらりと目に入った。

 タイトル欄の下に、タグがひとつだけ入力されている。


  #これはわたしの絵です


 たった、それだけ。

 所有宣言だ。「これは誰かに真似されたものではなく、わたし自身が描いたものだ」と刻みつけるための、最後の一行。

 だがその一文は、同時に悲鳴にも見えた。

 「わたしの絵がわからなくなりそうだ」と叫んでいるように。


 目を逸らして、REXを出た。


**


 商店街を歩きながら、スマホを開いた。


 Xの通知が溜まっていた。初狩の作品用アカウントからだ。


 REXを出てからの数分で、また新しい絵が上がっている。さっきモニターで見たものより、さらに一段きつい。もう変化の速度が日単位ではなく時間単位に変わっている。


 コメント欄は、前と同じだった。


 善意の言葉。肯定のリプライ。壊れていくことが「進化」として受け入れられている、あの構造。

 もう見慣れた。見慣れたことが、いちばん嫌だった。


 投稿一覧を少し遡る。

 更新は途切れていない。むしろ、止まっていないことのほうが不気味だった。絵だけが、休まず外へ出続けている。


 なのに——と、指が止まる。

 作品用ではないほうの初狩は、どうなっている。


 ふと、インスタのほうを開いた。


 初狩は作品用のアカウントとは別に、ごく少人数しかフォローを許可していない鍵アカウントを持っている。本人いわく「落書きとか、どうでもいい独り言用」。ずっと前に相互になったきりで、普段はほとんど更新されない。

 その鍵アカウントのストーリーに、一文だけ上がっていた。

 二十四時間で消える設定の、誰かに見せるつもりがあるのかもわからない投稿。

 そこに書かれていたのは——


 「壊れたほうが、わたしだってわかってもらえる」


 足が止まった。

 商店街の真ん中で、立ったまま動けなくなった。

 夕陽はもう建物の向こうに沈みかけていて、地面には薄い影だけが伸びている。カラスの鳴き声が遠くなっていく。空気が急に冷えた気がした。


 頭の中で、クエストメールの文面が重なる。


 七日後までに見つからなければ、大切な者は完全に消えるだろう。


 消える。


 初狩時雨という人間がそこにいるのに、彼女の絵が消える。外側の形は残ったまま、中身だけが入れ替わっていく。それは死ぬこととは違う。もっと静かで、もっと見えにくくて、もっと——誰にも気づかれないまま終わる消え方だ。


 七日。

 たった七日で、何ができる。


 前回のクエストを失敗した俺に、今度は何ができる。


 スマホの画面が暗転する。

 自分の顔が、黒い液晶に薄く映っていた。

 情けない顔だ、と思った。

 思って、鞄の持ち手を握り直した。


 まだ、わからない。

 けれど「わからない」で止まるのは、もうやめると決めたはずだ。初狩を助けられなかったと思った時、そう決めたはずだった。


 商店街を抜ける。

 坂を上る。

 十月の夜が、静かに落ちてくる。



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