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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
最終章 【画霊】 がれい
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■第51話「消えゆく声」


 翌朝、教室に入る前から、もうわかっていた。

 わかってしまう自分に腹が立つ。


 扉を引いた瞬間、視界の隅が勝手に初狩の席を捉えた。

 空いている。

 鞄もない。椅子の引き方が昨日のまま——正確には一昨日のままだ。初狩が最後にこの椅子から立ち上がった時の角度で、誰にも触れられないまま残っている。

 ただの欠席なら、ここまで正確にはわからない。だが、俺にはわかる。

 これは"今日来るつもりがなかった空席"に見える。


 昨日も教室では姿を見ていない。なのに、放課後のREXにはいた。あのずれがあるから、今朝の空席はただの欠席よりずっと嫌なものに見えた。


 朝起きて、制服に袖を通そうとして、やめた——そんな種類の不在のように思えた。

 なぜそこまでわかるかは、自分でもうまく説明できない。椅子の角度と、机の上の何もなさと、窓からの光の当たり方が、ただの不在とは違う情報を伝えてくる。


 自分の席に座る。

 初狩の席を見ないようにする。

 見ないと決めたのに、ホームルームが始まるまでの五分間で三回、視線がそちらへ流れた。三回目で、もう数えるのをやめた。


 チャイムが鳴る。安住先生が教壇に立ち、出欠を取り始める。

 名簿順に名前が呼ばれ、返事が教室を埋めていく。小さな声、大きな声、欠伸混じりの声。いつもの朝の、いつもの音。


「初狩」


 返事はない。


 先生は空席を確認すると、次の名前に移った。

 クラスは特に騒がない。

 その静けさが逆に不気味だった。つい先月まで、雪花《ゆきはな》真白《ましろ》の空席にクラス全員が慣れきっていた。机の落書きが発見された日でさえ、一週間もすればほとんどの人間がそのことを忘れかけていた。


 教室という場所は、誰かが一人いなくなることに、妙に順応が早い。


 椅子が引かれ、教科書が開き、秋の日差しが窓から差し込んで、何事もなかったかのように一限目が始まる。黒板のチョークの音。シャーペンが紙を擦る音。空調の低いうなり。

 全部がいつも通りで、だからこそ一つだけ欠けたものが際立つ。


 授業中、何度か初狩の席を見そうになって、そのたびに視線を手元に戻した。

 見ると、駄目だ。

 見ると、昨日REXで見た絵が脳の裏に浮かぶ。あの露悪的な色彩。初狩の手で描かれた、初狩らしくない絵。それとクエストの文面が重なり、さらにその上に「自分の作品を模倣されない高尾クンにはわからない」という声が被さってくる。


 ノートの上でシャーペンが止まる。先端が紙に食い込んで、小さな穴が開いた。


 昼休みになって、スマホを開いた。

 LINEのトーク画面。初狩との履歴は、ここ数日ほとんど動いていない。最後のやり取りは、たしか先週の軽い事務連絡だった。

 短く打つ。


 「来てないけど大丈夫か?」


 送信。

 既読はつかない。

 画面を見つめて、自分の文面が妙に他人行儀なことに気づいた。「大丈夫か」。大丈夫じゃないことはわかっている。わかっていてこの文面しか出てこない自分が嫌になる。


 電話をかけようかと思った。親指が通話ボタンの上で止まった。

 出なかったら、終わりだ。

 出なかったという事実が確定するのが怖い。臆病だ。わかっている。だが今の俺は、まだ「助ける側の顔」を作れていない。昨日あれだけ突き放されて、今日いきなり電話をかけるほどの覚悟が、どこにもない。


 スマホをポケットに戻す。

 午後の授業のチャイムが鳴った。



**



 放課後、俺は被服部へ向かった。

 理由は単純だ。初狩のことを話せる相手で、なおかつ余計な正論を言わない人間が、あの部室にいるからだ。

 少し前に雪花真白をつないだ場所が、今度は初狩時雨の不在を受け止める場所になる。考えてみれば、被服部はいつもそういう場所だった。問題を解決してくれるわけではない。ただ、問題を抱えた人間が座っていても追い出されない場所。それだけで十分な場所というのが、世の中にはある。


 旧館の二階、奥から二番目の部室。

 扉を開けると、ミシンの匂いと布の匂いが混じった空気がふわりと流れてきた。窓際のテーブルに生地の裁断が広がっていて、壁には蝶子のイベント衣装の型紙が画鋲で留められている。


 笹子先輩が奥のミシンの前に座っていた。山田先輩はテーブルの端で、何かの帳簿を広げている。真白の姿は——今日はないようだった。


「おや」


 笹子先輩がこちらを見た。いつもの柔らかい笑顔。だが俺の顔を一瞬見て、笑みが少しだけ薄くなった。空気を読むのが異常に早い人間は、こういう時に便利であり、同時に厄介でもある。


「初狩、今日来てない」


 前置きも挨拶もなく、ぶっきらぼうに言った。

 我ながら愛想がない。だが今は体裁を整える余裕がなかった。


「LINEも既読つかない」


 ミシンの音が止まった。

 笹子先輩はペダルから足を外し、こちらへ身体を向けた。軽口が消えている。


「……いつから?」

「昨日からです」


 笹子先輩は少しだけ困った顔になった。眉の間にうっすらと皺が寄っている。普段ならこのくらいのことで深刻にはならない人間だが、初狩の名前と「既読がつかない」の組み合わせが、何かを引っかけたらしい。


「喧嘩した?」


 山田先輩が帳簿から顔を上げた。問い詰めるような声ではない。事実確認に近い、乾いたトーンだった。


「まあ……した、みたいなもんです」


 否定しきれなかった。喧嘩という言葉が正確かはわからない。俺が一方的に正論を投げて、初狩が静かに突き返して、最後は「帰ってください」で終わった。あれは喧嘩より、もっと悪い何かだった気がする。


「何があったん?」


 笹子先輩がミシンの椅子ごとこちらに向き直った。軽口のトーンではない。聞くべきだと判断した声だった。

 少し迷ってから、最低限だけ話した。


 初狩の家のことも、模倣アカウントのことも、前に断片的には話してある。だから今回は、昨日REXで何があったかだけを繋げればよかった。


 彼女の絵が変わっていること。わざと画風を壊しにかかっていること。それを指摘したら「高尾クンにはわからない」と返されて、最後は一人にしてくれと遮断されたこと。


 模倣アカウントの件は、二人とも前から知っている。だから「なぜ画風を壊しているか」の背景まで、長く説明し直す必要はなかった。


 笹子先輩は少しだけ眉を下げた。


「……それは、喧嘩ちゃうな」


 山田先輩は帳簿を閉じた。


「絵のことで詰まってるなら、家のほうも関係あるかもね」


 初狩の家庭環境については、笹子先輩も山田先輩もある程度知っている。父親が絵に対して否定的なこと、家でPCを没収されたこと。表面的な事情だけだが、それでも「学校を休む理由」として成立する程度には知っている。


「けど、連絡つかないのは、ちょっと嫌だね」


 山田先輩の「嫌」は、心配を圧縮した言い方だ。「危ない」とも「やばい」とも言わない。ただ「嫌だ」と言う。その距離感が、山田先輩らしい。


 笹子先輩がスマホを取り出して、何かを確認していた。画面をスクロールしながら、声のトーンを落とす。


「時雨ちゃんのアカウント、投稿止まってるんよ」


 知っている。昨日の夜に確認した。


「でもな、模倣アカウントのほうは動いてるねん」


 それも知っている。初狩が沈黙している間も、初狩の画風を真似たアカウントは通常営業を続けている。


「前やったら、嫌なことあっても絵だけは上げてた子やろ」


 笹子先輩の声が少しだけ硬くなった。


「今回は、その"絵の反応"自体が傷になっとるんちゃうかな」


 その一言が、妙に正確だった。

 模倣されることで自分の絵が「よくある感じ」に見えてしまう。だから描けば描くほど自分が削られる。かといって描かなければ、今度は存在そのものが消えていく。

 初狩は、描くことと描かないことの両方に追い詰められている。


 俺は黙ったまま、窓の外を見た。

 旧館の窓から見える校庭の隅に、もう誰もいないベンチがある。秋の日は短い。四時半なのに、もう影が長い。


 ふと、数ヶ月前のことを思い出した。


 REXが初狩にとって唯一の創作拠点だったこと。家でも学校でも絵を描けなかった初狩が、あの薄暗いゲーセンの中で初めてPCを開いた日のこと。


 学校に来ないのは、まだわかる。

 だがREXにも来ていないとしたら——それは、描く場所そのものを手放したということだ。

 その可能性のほうが、ずっと怖い。


「初狩のこと、何かわかったら連絡します」


 それだけ言って、被服部を出た。

 背中で扉が閉まる音がした。笹子先輩が何か言いかけた気がしたが、振り返らなかった。




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