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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第6章 【塵塚怪王】 ちりづかかいおう
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■第48話「声なき声」


 一週間が経っていた。


 被服部の部室には、もう雪花《ゆきはな》の定位置ができている。窓際の椅子。山田先輩の裁断台と、笹子《ささご》先輩のアイロン台のあいだの、少し奥まった場所。雪花はそこに座って、本を読んだり、スマホで設定資料を見比べたり、たまに笹子先輩の衣装制作にコメントを出したりしている。


 別人のように明るくなったわけではない。

 声は相変わらず小さいし、自分から話題を振ることはほとんどない。会話の中心にいることは一度もない。「すみません」と「ありがとうございます」は今でも多い。


 でも、「ここに居ていいですか?」と全身で怯えてはいなかった。


 笹子先輩が蝶子の衣装パーツの角度で困ると、雪花が設定資料集の記憶を頼りに助言する。山田先輩の隣で黙って布を見ている時間も、居心地悪そうではない。初狩《はつかり》のラフスケッチが視界に入ると、少しだけ身を乗り出す。


 怪異に喩えられるような『空席の人』ではなくなった。

 しかしながら、問題が解決したわけではない。居場所がゼロではなくなっただけだ。その小ささが、今の雪花にはちょうどいいのだと思う。


**


 その日の放課後、部室には俺と雪花と初狩がいた。笹子先輩と山田先輩は、手芸店に材料の買い出しに行っていて不在だった。


 初狩は部室の隅でスケッチブックに向かっている。イヤホンをつけているので、こちらの会話は聞こえていないだろう。蝶子の立ち絵のラフが見えた。線が動いていない。描いているようで、描けていない。


 雪花が、ためらいがちに口を開いた。


「……高尾さん」

「ん」

「ここに来て、少しだけわかったことがあります」


 雪花は膝の上で指を組み、視線を落としたまま話し始めた。


「被服部の人たちは、私に『大丈夫?』って聞きませんでした」


 声は静かだった。怒りも悲しみもほとんど含まない、観察に近い温度。


「教室では、みんな聞いてくれました。『困ったことない?』『なじめそう?』って。……でも、ここに来て気づいたんです。あの言葉は、私が大丈夫かどうかを知りたかったんじゃなくて」


 少し間を置く。


「……『大丈夫って言ってもらえたら安心できる』から、聞いてたんだと思います」


 断罪ではなかった。


 クラスメイトを責める声ではない。被服部で「聞かれなかった」ことの楽さを知ったからこそ、教室の善意の輪郭が初めて見えた——そういう順番の言葉だった。


 天板の五十三の落書き。教室の歓迎。昼休みの善意。あの「大丈夫?」と「困ったことあったら言ってね」の全部が、同じ構造の上にあった。悪意がないからこそ、傷を説明しにくい。「いじめられた」とは言えない。「嫌だった」とも言いにくい。でも確かに削られていた。


 雪花の言葉で、ようやく腑に落ちた。


 このクエストの意味が、見えた——気がした。


 「声なき声を拾え」。

 それは、机の落書きの犯人を突き止めろという意味じゃなかった。善意の形をした無関心、その構造そのものを見ろという意味だった。

 雪花はそれを、難しい言葉にせずに言っただけだ。自分が楽だったことと、苦しかったことを並べて。たったそれだけで、見え方が変わった。


 ——これで、クエストの意味も見えたのかもしれない。


 そう思った。一瞬だけ、息をつけた気がした。


 雪花はしばらく黙っていた。

 何かを言い終えた後の沈黙ではなく、もう一つ先に言葉がある人間の黙り方だった。指先が制服のスカートの裾を小さく摘んでいる。


「……もうひとつだけ」


 声は、さっきの観察の温度とは少し違っていた。


「教室の『大丈夫?』は、私のためじゃなかったって——さっき言いました」

「ああ」

「でも、入院してたとき。誰にも会えなくて、教室がどんな場所かもわからなくて。……あの小説だけは、違いました」


 俺は少し身構えた。笹子先輩にばらされたあの日の気まずさがよみがえる。


「高尾さん、前に『自己満だ』って言ってましたけど」


 雪花は視線を落としたまま、慎重に言葉を選んでいた。


「自己満だったとしても、私には届いてたので」


 さっきの「善意の構造」の話と、つながっていた。

 教室の善意は、相手が安心するために差し出されたもので、雪花には届いていなかった。でも俺の小説は、誰かに届けるためにすら書かれていなかったのに、届いていた。

 雪花が言おうとしていたのは、たぶんその対比だ。


「……自己満で書いたものが届くなら。それって、たぶん、いいってことだと思います」


 大人びた名言じゃなかった。「それだけで十分」というきれいな結論でもなかった。ただ、入院中にあの小説を読んでいた子が、作者本人の前で、自分の言葉で「いい」と言った。それだけだ。

 それだけのことが、きつかった。


「……なんだそれ」


 そっけなく返した。受け止めきれなかったからだ。雪花の言葉を正面から受け取ったら、小五の冬のことまで一緒に引っ張り出される気がした。あの回想はまだ、蓋を戻しきれていない。


 雪花は小さく「すみません」と言いかけて、今度は飲み込んだ。


 少しだけ、笑ったように見えた。笑顔というには小さすぎるが、教室で見た彼女の顔とは違う。自分の言葉を、雑に踏まれなかった人間の顔だった。


**


 部室の反対側で、初狩がスケッチブックを閉じた。


 パタン、という軽い音。いつもなら、作業が一段落したときの自然な動作だ。でも今日は、閉じ方が少し乱暴だった。苛立ちとまでは言わないが、「もういい」という感じの、途中で投げ出す手つき。


 スマホの通知が鳴った。初狩はイヤホンを外して画面を見た。

 一瞬だけ顔が固まって、すぐに画面を伏せた。


 俺はそれを見ていた。


 いつもの違和感。でも、今日の初狩はいつもより静かだった。いつもより、反応が遅かった。笹子先輩が不在だから、絵の話を振る人間がいない。俺が何か言うべきなのかもしれない。でも、一週間前に「前の絵の方がお前っぽかった」と言ったとき、初狩は「"わたしっぽい"って便利な言葉ですね」と返した。あの声のトーンが、まだ耳に残っている。


 スケッチブックを開く時間が短くなっている。通知を見てもすぐ伏せる。笹子先輩に色味を褒められても、嬉しそうではない。新しい絵は上手い。でも、もう「初狩時雨の絵」には見えない。


 違和感は、ある。

 でも——まだ大丈夫だろう。


 模索中なのだ。画風を変えるのはクリエイターにとって普通のことだ。伸びる前にはこういう揺れもある。向上心の表れだ。


 ——そう解釈した。

 解釈して、保留した。


 初狩が鞄を持って立ち上がった。


「お先に失礼します」


 声はいつもの丁寧語だった。おかしなところはない。


「おう」

「……おつかれさまです」


 最後の一言だけ、少しだけ間があった。でも、それだけだった。初狩は部室を出て行った。足音が廊下の向こうに消えた。


 雪花がこちらを見ていた。何か言いたそうにしていたが、言わなかった。


 俺も、何も言わなかった。



**



 帰りにREXへ寄った。


 ルーティンのように扉を開けて、ポータブル電源で最低限の照明をつける。九月の夜の廃墟は、昼間の蒸し暑さが壁に残っていて、空気が重い。古いゲーム筐体が薄闇の中にシルエットを作っている。


 椅子に座って、天井を見上げた。


 雪花の件に、ひとまず区切りがついた感覚があった。完全解決ではない。教室の空気が一朝一夕に変わるわけでもない。あの机の五十三件の落書きは消えたが、それで彼女の傷が消えるわけではない。


 でも、見えなかった「ひとり」は少しだけ元の場所へ戻り始めた。元の場所は教室の席ではないかもしれない。でも被服部に、雪花がいてもいい場所ができた。それだけで——今は、それだけでいい。


 クエストの完了メールが来るだろう、と思った。

 いつものように、PCのモニターが明滅して、差出人不明のメールが届く。「任務完了」の四文字。そして次のクエストが始まる。いつもの流れだ。


 古いデスクトップPCのモニターが、ちかりと光った。


 メールソフトの受信トレイに、新着が一件。


 差出人:不明。


 件名を見た瞬間、空気が変わった。


────────────────────────────

差出人:不明

件名:クエストNo.0006『塵塚の空席』任務失敗

────────────────────────────


 ——失敗。


 目が文字を追ったまま、意味が頭に入るのが遅れた。任務完了ではない。任務失敗。今まで五回のクエストで、一度も見たことのない言葉だった。


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