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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第6章 【塵塚怪王】 ちりづかかいおう
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■第47話「小学五年の冬と、白い狐」


 被服部の解散は、いつも自然に起きる。山田先輩が「そろそろ閉めるか」と言い、笹子先輩が道具を片づけ、それぞれが帰り支度を始める。今日もそうだった。


 笹子先輩と山田先輩が先に部室を出て、廊下の向こうに歩いていった。初狩《はつかり》はそれより前に「お先に失礼します」と帰っている。スケッチブックを鞄にしまう手つきが妙に素早かった。


 部室には俺と雪花《ゆきはな》だけが残った。


 雪花は窓際の椅子から立ち上がりかけて、止まった。

 鞄の持ち手を両手で握ったまま、少し迷うように俯いている。


「……あの小説」


 唐突だった。

 いや、唐突に聞こえたのは俺の方の問題だ。雪花の中では、作者バレからずっと言葉の置き場所を探していたのかもしれない。


「いじめられるところ、ちょっと苦しかったです」


 声は小さかった。でも、言葉は明瞭だった。


「……あれ、作り話ですか」


 即答だった。


「フィクションだ」


 考えてから答えたのではない。反射だった。問いが届いた瞬間に、体が勝手に蓋を閉めた。


 雪花はそれ以上踏み込まなかった。

 「すみません」と言いかけて、それも途中で飲み込んだ。追及しないまま、小さく頭を下げて部室を出ていった。


 足音が廊下の向こうに消えた。


 俺は部室に一人で立っていた。

 窓から差し込む夕日が、ミシンの上の生地を橙色に染めている。それだけの、何でもない放課後の風景だ。


 ——あれ、作り話ですか。


 雪花の声が消えない。


 消えないのは、いつものことだ。一度聞いた声は消えない。一度見た文字は消えない。昨夜、ねむに指摘された。「キミ、自分が思ってるより、ずっと異常だよ」。そしてオボロは、沈黙していた。


 三つのことが、同時に頭の中にある。


 雪花の問い。

 ねむの言葉。

 オボロの沈黙。


 その三つが重なった瞬間に、蓋がずれた。


**


 帰り道の記憶はない。


 嘘だ。記憶はある。あるに決まっている。渡り廊下を抜けて、校門を出て、坂を下り、白花駅の方へ歩いた。


 商店街に入り、REXの前まで来る。

 隣のファストフード店から、油と甘いソースの匂いが流れてきた。


 脇の通路へ回り、裏手の搬入口の前で鍵を出しかけて——やめた。


 今日はREXに入りたくなかった。あの薄暗い店内で、古いPCのモニターの前に座ったら、何かが勝手に始まりそうだった。


 だから自室に帰った。ベッドに座って、鞄を床に置いて、靴下を脱いで、それからどうしたのか——


 ——あれ、作り話ですか。


 雪花の声が、頭の中で反響した。


 その反響に引きずられるように、別のものが来た。


 温度。

 冬の、十二月の、教室の温度。暖房が効かない端の席の、底冷えする足元。給食の牛乳パックの匂い。黒板に書かれた五時間目の時間割。白いチョークの粉が右端に溜まっている。壁に貼られた学級目標、「笑顔であいさつ」の模造紙の角が少し剥がれている。


 思い出そうとしたのではない。

 勝手に、再生された。


**


 小学五年の冬だった。


 俺は「モブ」と呼ばれていた。


 きっかけは、たぶん些細なことだ。朝のホームルームで出席確認のとき、担任の吉村先生が出席簿から顔を上げてこちらを見て、「ああ、いたのか?」と言った。悪意じゃなかったと思う。本気で見落としていただけだ。でも教室のどこかで、誰かが笑った。その笑いは次の日も、その次の日も続いた。「モブ」という呼び名がいつ定着したのかは覚えていない。嘘だ。覚えている。十一月の第二週の木曜日だ。田所が昼休みに「おい、モブ」と呼んだのが最初だ。


 田所拓真。岸田隼人。松永瑛太。三人組だった。


 最初は、ただの悪ふざけだった。


 消しゴムを隠す。給食の牛乳を取る。体育の時間にわざと組ませない。やられるたびに腹は立った。でも、その場で怒鳴るほどのことでもない、という顔を周りがしていた。田所たちも、周りも、たぶん教師も。


 先生の「ああ、いたの?」から始まった。

 誰かが笑った。

 次の日には田所が「おい、モブ」と呼んだ。

 岸田と松永がそれに乗った。

 誰も訂正しなかった。


 たったそれだけで、教室の中に線が引かれた。


 こいつは、少しくらい雑に扱ってもいい。

 笑ってもいい。

 見落としてもいい。

 わざわざ庇うほどの相手じゃない。


 そんなもの、口に出して確認したわけじゃない。けれど空気はそうなった。三人の「いじり」は、教室じゅうの黙認に守られて、毎日の習慣になった。


 その頃にはもう、俺も反撃することを考えなくなっていた。

 考えなくなったというより、最初からそんな役は自分にはないと思い込んでいた。


**


 放課後。

 五年前の十二月の十七日だった。


 教室には俺しか残っていなかった。そう思っていた。


 机の上に広げたノート。二百四十ページの大学ノートの、百三十二ページ目まで書き進めていた。タイトルはなかった。物語だった。魔法使いの少年が、誰にも見えない世界を旅する話。少年は透明で、誰にも気づかれない。でもその透明さのおかげで、他の人間には見えないものが見える。隠された扉。忘れられた道。閉じられた本の中の言葉。


 今思えば、露骨すぎるほど自分の話だった。でも十一歳の俺には、それを客観視する力がなかった。ただ、書いているあいだだけは息ができた。教室の端で、放課後の光の中で、ノートの上にだけ存在する世界に潜っているあいだだけは、「モブ」じゃなかった。


「何書いてんの」


 声がした。振り向いたときには遅かった。


 田所がノートを引っつかんでいた。岸田と松永がその後ろにいる。三人とも、授業が終わってから教室を出ていたはずだった。戻ってきたのだ。


「返せ」

「は? 何だよこれ。小説? お前が?」


 田所がページをめくる。声を出して読み始めた。抑揚をつけて、わざと間違った読み方をして、笑いを取るような読み方。岸田と松永が笑う。


「"少年は透明だった"だって。うわ、きっしょ」

「モブが小説書いてるんだけど」

「お前の話なんて、誰も読みたくねえんだよ」


 語彙は貧しかった。

 罵倒に技術はなかった。

 でも、子供の残酷さは語彙の貧しさの中にこそある。「きっしょ」。「誰も読みたくねえ」。それだけの言葉が、百三十二ページ分の時間を、一瞬で無価値にした。


 田所がノートを床に叩きつけた。


 ページが開いた状態で、リノリウムの床に落ちた。岸田がそれを蹴った。ノートが滑って、机の脚にぶつかった。松永が踏んだ。背表紙が折れて、ページが何枚か破れた。


 俺は動けなかった。


 動けなかったのは、殴られたからじゃない。体は自由だった。でも、足が動かなかった。目の前で自分のノートが蹴られて、踏まれて、破られていくのを、ただ見ていた。


 俺にとっては、自分そのものが踏みにじられていた。——いや違う。あのときの俺は、そんな分析をしていなかった。ただ、音が遠くなっていた。田所たちの笑い声が水の底から聞こえるみたいに歪んでいた。


「おまえなんか死ねばいいのに」


 松永が言った。笑いながら。たぶん、本気の殺意じゃない。小学生が吐く「死ね」は、「消えろ」とほぼ同義の、使い古された呪詛だ。でも、そのとき俺の中で何かが切れた。


 切れたのは怒りじゃなかった。

 もっと手前の、もっと根本的な糸だ。ここにいる意味。明日学校に来る理由。ノートに物語を書く理由。全部がまとめて切れて、頭の中が真っ白になった。


 田所たちが教室を出ていく。

 笑い声が廊下に遠ざかっていく。


 俺は机の横に立ったまま、右手をポケットに入れた。


 指先に、冷たい金属が触れた。


 カッターナイフ。

 図工の授業のあと、筆箱に戻し忘れたのをポケットに入れたままだった。護身用として持ち歩いていたわけではない。ただ、そこにあった。


 でもその瞬間、それは図工の道具ではなくなった。


 親指が刃を出すスライダーに触れる。まだ押し出してはいない。でも、押し出せる位置に指がある。


 追いかけるのか。それとも、自分に使うのか。

 その区別がつかなかった。怒りで燃えているのでもない。全部を終わらせたいだけだった。自分を終わらせるのか、相手を終わらせるのか、その境目が曖昧で、どちらでもいいとすら思った。


 そのとき——


『やめておけ』


 声がした。


 教室には、俺しかいないはずだった。田所たちは出ていった。他に誰も残っていない。


 なのに、声がした。低くて、少し掠れていて、古い時代劇の登場人物みたいな口調の声。


 顔を上げた。


 教室の窓際に、白い獣がいた。


 狐だった。白い毛並みが冬の夕日を反射して、ほんのりと金色に光っている。大きさは大型犬くらい。尾が一本、ゆるく揺れている。目は金色で、俺をまっすぐに見ていた。


 怖くなかった。

 不思議なくらい、怖くなかった。初めて見るはずなのに、ずっと前からそこにいたような気がした。


『もう一度言う。やめておけ』


 白い狐がもう一度言った。口が動いているように見えたが、確信はない。声は耳から聞こえたのか、頭の中で鳴ったのか、その区別もつかなかった。


『そんな姑息な手段をとったところで、お主(ぬし)が損をするだけだ』


 優しい声ではなかった。

 慰めの言葉でもなかった。冷たくて、的確で、俺の中にある衝動を感情ではなく損得の言語で切り捨てた。


「……誰だよ」

『我か?』


 白い狐は、首をわずかに傾げた。


『お主が求めたものよ』


 間。


『我はオボロだ』


 廊下の向こうで、田所たちの笑い声がまだかすかに聞こえていた。あいつらには、この狐が見えていない。それは確信としてわかった。見えていたら、あの場で悲鳴を上げていたはずだ。


 俺にしか見えない。

 俺のためだけに、ここにいる。


 カッターナイフから指を離した。ポケットの中で手を開いて、金属の冷たさから離れた。指先が少し震えていた。


 吐き気がこみ上げた。

 教室の隅にしゃがみ込んで、何度か深呼吸した。涙は出なかった。出るほどの感情が、まだ形にならなかった。体だけが反応していて、心が追いついていない。感情が凍っている——小五の俺には、それを表す言葉がなかった。


 しばらくそうしていてから、立ち上がった。


 床に散らばったノートのページが目に入った。

 背表紙が折れて、何枚かが破れて、開いたページには靴の跡がついていた。百三十二ページ分の物語。魔法使いの少年の話。誰にも見えない世界を旅する、透明な少年の話。


 全部を拾うことはできなかった。

 破れて読めなくなった部分もあった。でも、読めるページをいくつか拾い集めた。皺を伸ばして、重ねて、ノートの残骸に挟んだ。


 読まれなくても。

 笑われても。

 踏みにじられても。


 書くことを、やめなかった。


 それは、勇気でも強さでもなかった。ただ、他にできることがなかっただけだ。殴り返す力もない。逃げる場所もない。ノートの上にだけ、自分がいてもいい世界があった。それを手放したら、本当に何もなくなると思った。


 白い狐——オボロは、教室の窓際からじっと俺を見ていた。何も言わなかった。ただ、そこにいた。


**


 目を開けた。


 天井が見えた。自室の天井。蛍光灯は消えていて、カーテンの隙間から街灯の光が細く入っている。


 ベッドの上にいた。制服のまま横になっていたらしい。スマホの画面は暗くなっている。何時間経ったのかわからない。


 体が重かった。まるで長い距離を走った後みたいに消耗している。でも走っていない。ただ、記憶が再生されただけだ。


 ——記憶が再生された「だけ」。


 それが、普通のことなのかどうか。昨夜のねむの言葉が浮かぶ。超記憶症候群。忘れられない人間。


 小五の十二月十七日の教室が、まだ頭の中にある。暖房の温度。牛乳パックの匂い。ノートが床に叩きつけられた音。靴の跡。カッターナイフの金属の冷たさ。全部が鮮明で、色褪せていなくて、五年前のことなのに昨日のことのように——いや、昨日のことよりも鮮明だった。


 思い出したんじゃない。

 最初から忘れていなかった。ただ蓋をしていただけで、中身はずっとそのまま保存されていた。そしてその蓋を、今日——雪花の問いが、ずらした。


 ——あれ、作り話ですか。


 雪花の声が、また頭の中で鳴った。


 俺が「フィクションだ」と即答したのは、嘘だからじゃない。

 本当だと認めた瞬間に、小五の冬の自分が——ノートを踏みにじられて、カッターナイフに手を伸ばした十二歳の自分が——今の俺と一緒に露出してしまうからだ。


 あの日、オボロが現れた。

 白い狐は俺にしか見えなかった。俺のためだけにそこにいた。「お主(ぬし)が求めたものよ」と言った。


 だからあのとき——REXで初めてオボロを見たとき、怖くなかったのか。初めてじゃなかったからだ。体は覚えていたのに、記憶だけが蓋をされていた。


 五年間、忘れていた。あの白い狐のことを。


 あれは怪異だったのか。

 それとも——


 部屋の隅に、オボロがいた。今のオボロ。白い毛並みが暗がりの中でぼんやりと光っている。小五の教室で初めて見たときと、見た目は何も変わっていない。


 俺は言った。


『お前は、あの日からずっと、ここにいたのか』


 オボロは答えなかった。

 金色の目がこちらを見ているだけだった。沈黙が、肯定に聞こえた。


 あの日、オボロが「教えた」情報はなかった。カッターナイフを止めただけだ。でも、それ以降、こいつは俺にいろんなものを「見せて」きた。電話番号。賞状の文面。過去のログ。全部が、俺の記憶の中にあったものだ。


 オボロは外から情報を持ってくる怪異じゃない。

 俺の中にあるものを、引きずり出す存在だ。


 だとしたら——こいつは何者だ。


 なぜ忘れていた?


 その問いの答えを、今の俺はまだ持っていない。


**


 スマホを取り上げた。画面が点いて、明るさに目が痛んだ。


 時刻は夜の十一時過ぎ。投稿サイトの通知が一件来ていた。

 初狩のアカウントからだ。新しい絵が投稿されている。


 開いた。

 昨日と同じ違和感が、もう一段はっきりしていた。上手い。でも、初狩時雨の絵じゃない。表面の鮮やかさと、奥の空洞。器用さだけが残って、何かが抜け落ちている。


 コメント欄には、新しいコメントが並んでいた。


 ——「方向性変わったね」

 ——「最近の初狩さん、ちょっと迷ってる感じする」

 ——「個人的には前の方が好き」


 薄い言葉が、また積もっている。


 雪花の天板と同じ構造だ。一つ一つは悪意とは呼べない。でも、誰も「初狩時雨の絵」に何が起きているのかを見ようとしていない。


 俺も——見ていなかった。違和感は、ずっと前からあった。夏休み明けから。いや、もしかしたらもっと前から。


 でも、「まだ大丈夫だろう」と思った。模索中なんだろう。伸びる前にはこういう揺れもある。そう解釈して、保留した。


 雪花には手を伸ばせた。

 初狩には、まだ何もできていない。


 雪花に「フィクションだ」と返せなかった答え。

 初狩に「前の絵の方がお前っぽかった」と言ってしまった軽さ。


 どっちも、ちゃんと向き合えていない。


 スマホを閉じた。

 暗い部屋で、天井を見上げた。


 忘れていたんじゃない。

 最初から、忘れられなかった。

 ノートを踏みにじられた日も。カッターナイフに触れた指の冷たさも。オボロが初めて現れた瞬間も。全部が、五年間ずっと、そのまま残っている。


 雪花に返せなかった答えは、小学五年の冬から、まだ一度も言葉になっていなかった。



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