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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第6章 【塵塚怪王】 ちりづかかいおう
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■第46話「点と点」


 被服部の空気がやわらいだころ、雪花がためらいがちにスマホを取り出した。


 蝶子の話から、入院中に読んでいたものの話に流れたのだ。雪花は好きなものの話になると少しだけ口数が増える。それでも、自分から切り出すときは必ず一拍の躊躇がある。


「入院してるあいだ、ずっと読んでた小説があって……」


 笹子先輩が何気なくスマホの画面を覗き込んだ。

 以前、初狩が勝手に投稿ページを開いたせいで、俺が小説を書いていることはこの部でも知られている。


「あ、これ才くんのやつやん」


 時間が止まった。

 いや、止まったのは雪花の動きだ。


「……え」


 ゆっくりと、雪花の視線が俺に向いた。

 俺は一瞬だけ目を合わせて、すぐに逸らした。


「……高尾さん、なんですか?」


 雪花の声は平坦だったが、わずかに揺れていた。


「これ、書いてるの」

「……まあ、一応」


 雪花が固まった。

 スマホを引っ込めようとして、でも引っ込めきれない。さっきまで設定資料集の話で少しだけ前に出ていた雪花が、急に言葉の置き場をなくしている。


「……すみません」


 笹子先輩が首を傾げた。


「なんで謝るん」

「その……知らないで、言ってたので。昨日の、その……好き、とか」


 雪花の声がどんどん小さくなる。派手に赤くなったりはしない。でも、目を合わせられなくなっているのがわかる。昨日の白花神社で、あの子は俺の小説を「好きでした」と言った。「勇気をもらった」と。目の前にいるのが作者本人だと知らずに。


「……忘れてください」


 俺は返事に困った。何か言おうとして、うまく言葉にならない。


 少しだけ沈黙が落ちた。


 雪花は俯いたまま、観念したみたいに小さく続けた。


「……でも、好きだったのは本当です。入院してるとき、あれ読むの、けっこう楽しみだったので」


 きれいな感謝の言葉じゃなかった。気恥ずかしさで逃げたいのに、本音だけは嘘にできない——そういう声だった。


 俺は、それをまともに受け止められなかった。


「……」


 言葉が出てこなかった。


「すみません……」

「いや、謝る必要はないって……」


 自分が書いたものが、目の前の子の支えになっていた。その重さを受け止めるには、俺はまだ不器用すぎた。ごまかすみたいに、ぶっきらぼうに続ける。


「別に、大したもんじゃないし。あんなの、ただの自己満だよ。それに書くのは止められない。中途半端にやめられないから苦労はしてるんだよ」


 雪花はそれを否定しなかった。

 でも、少しだけ困った顔でこちらを見た。せっかく出した本音を、自分から遠ざけられたみたいな——そんな空気になった。


 そこで山田先輩が、手元の裁断を止めもせずに口を挟んだ。


「自己満であそこまで書けるなら、まあ十分じゃない。読みにくいとこはあるけど」

「褒めてるんですか?」

「褒めてるよ」


 山田先輩は布に視線を落としたまま続けた。


「少なくとも、"誰にも読まれてない"はないでしょ。ここに一人いるじゃん」


 笹子先輩が吹き出した。


「ほんまやなぁ」

「うるさいです」

「あと、褒められて露骨に逃げるのやめなよ。見てるこっちが気まずいから」


 山田先輩の声はいつも通り簡潔で、容赦がない。


「……逃げてませんよ」

「逃げてるよ」


 山田先輩のツッコミに、笹子先輩がけらけら笑った。

 その笑い声で、張っていた空気がようやく少し緩んだ。


 雪花はまだ居心地悪そうにしていた。でもそれは、教室で感じたあの息苦しさとは違っていた。自分の言葉を、雑に踏み潰されなかったあとの沈黙——に見えた。恥ずかしそうだが、壊されてはいない。


 たぶん、そういう種類の沈黙だ。


 真正面からは言えなかった。

 「ありがとう」とも「嬉しい」とも、俺は言えなかった。

 でも、雪花をここに連れてきた判断は、たぶん間違っていなかった。


**


 夜。


 自室のベッドに寝転がって、スマホの画面を見ていた。

 ねむとのチャットが開いている。


『そういえば、あの文』


 ねむのメッセージだった。雪花が机に残した四行の断片の話だ。


『キミ、写真じゃなくて打ち込んで送ってきたよね』

『見たまま送っただけだ。短いし、それくらい覚えられるだろ』


 何でもないことのように返した。実際、何でもないことだと思っていた。


『短文だけならね』


 ねむの返信に、わずかな間があった。


『でも、あれ、改行も順番もかなり正確だった。しかもキミ、あの天板の落書きのことも、ずいぶん細かく覚えてたよね』


 画面を見つめたまま、指が止まった。


『もうひとつ確認していい? あの天板、何十個もの落書きがランダムにバラバラの位置に書いてあった。向きも大きさもインクの色も全部違う。そこに翌朝、雪花さんが薄いシャーペンで五行だけ書き加えた。——キミ、一目で気づいたんだよね』

『……たまたまだよ。掃除で天板を拭いてたから、嫌でも全部見る羽目になっただけだ』

『たまたまで五十三件の位置を全部覚える人間はいないよ。僕も画像見たけど、あの天板の写真、ごちゃごちゃすぎて何がどこにあるか把握するだけで大変だった。それを才は全部記憶して、翌日に"これは昨日なかった"って判別した。それ、記憶力がいいって話じゃない』


 数秒の間。


『あの五十三の落書き、全部思い出せるんじゃないの? 位置も含めて』


 その言葉で、俺は初めて意識して試した。


 左上の隅。「英語p.32〜36」。鉛筆。少し右上がりの字。

 その右下、斜め。赤ボールペン。「明日体育ないってマジ?」。疑問符の丸が潰れている。

 天板の左端中ほど、青ペン。波線が二本。意味のない落書き。

 引き出しの手前——


 止まらない。

 思い出そうとしなくても、次が勝手に出てくる。位置、向き、文字の色、インクの濃さ、筆圧の違い。読めなかった字の場所まで、天板の地図のように浮かんでくる。


 十個目。二十個目。三十個目。


 ——止まらない。


『なぜだ?』


 自分で打ったその三文字が、何に対して向けられた言葉なのかわからなかった。思い出せたことに対してか。それを今まで普通だと思っていたことに対してか。


 ねむの返信は、少しだけ踏み込んだものだった。


『それ、たぶん"記憶力がいい"で済む話じゃない』

『どういうことだ?』

『ハイパーサイメシアって症例がある。超記憶症候群。断定はできないけど、挙動はかなり近い』


 否定しようとした。だが、否定する言葉が出てこなかった。


 ねむは追い詰める口調ではなかった。チャットの文面はいつもの整った文体のまま、ただ見たことをそのまま置いているだけだ。


『才。キミは自分が思ってるより、ずっと異常だよ』


 視界の端で、オボロが揺れた。

 何か言いかけて、やめた。あの妖狐が軽口を飲み込むのは珍しい。


 俺はもう一度だけ、あの天板の落書きを頭の中でなぞった。

 やめようとしても、続きが勝手に再生される。中央やや右寄りの「死ね」の二文字が、他の落書きと同じ温度で浮かんでくる。消せない。消し方を知らない。


 記憶力がいいんじゃない。

 忘れられないだけなのかもしれない。


 スマホを置いて、天井を見た。


**


 チャットを閉じてから、何となく投稿サイトを開いた。

 初狩のアカウントを見る。


 新しい絵が上がっていた。

 昼間、被服部で見たのとは別の絵だ。完成版。SNS向けに仕上げたもの。


 上手い。

 構図も色も整っている。破綻はどこにもない。


 でも——最初に初狩時雨の絵を見たときの、あの感覚が来ない。


 色の温度が違う。線の呼吸が違う。いつもの初狩の絵には、薄い層を何枚も重ねたような透明感があった。見ていると、絵の奥に光が透けているような気がした。それが、ない。代わりに、表面だけが鮮やかで、奥行きがない。


 コメント欄を見た。大炎上ではない。でも、嫌な種が並んでいる。


——「雰囲気変わった?」

——「流行り寄せた?」

——「なんか別人っぽい」

——「AIっぽい」

——「前の作風の方が好きかも」



 どれも薄い。悪意を断定できない。「好みの違い」で片付く程度のコメント。

 でも、薄いからこそ積もる。


 雪花の机と同じだ。教室の歓迎と同じだ。悪意を名指しできない言葉が、少しずつ堆積していく。


 そこで、夏休み中に見た「あのアカウント」を思い出した。

 初狩の画風に酷似した絵を投稿していた、名前の知らないアカウント。あのとき俺は「大した問題じゃない」と押しやった。


 今、点がつながる。


 初狩は、真似される前に画風を変えたんじゃない。

 真似されるから、もう変え始めていたのだ。


 昼間の台詞がよみがえる。


——「"わたしっぽい"って、便利な言葉ですね」

——「そのせいで、盗まれやすくもなるのに」


 あれは拗ねた皮肉じゃなかった。

 もう現実にそうなっている人間の声だった。


 雪花には居場所を渡せた。被服部に連れていった。山田先輩が「好きなとこ座りな」と言ってくれた。笹子先輩が好きなものの話から入ってくれた。彼女は少しだけ、息ができる場所を得た。


 でも初狩が失いかけているのは、場所じゃない。

 自分の絵が、自分のものであるという当たり前の事実だ。それは「好きなとこ座りな」では解決しない。


 あの被服部の部室で、雪花が息をし直していたのと同じ時間に、初狩は同じ部屋で自分の絵の居場所を失い始めていた。


 俺はそれに、気づいていたのに。


**


 スマホを閉じた。部屋は暗い。


 今日のことを順に思い返す。

 雪花の机に残された文字。彼女が好きだった小説。被服部での会話。初狩の変わった絵。ねむに指摘された、自分の記憶のこと。


 思い返すまでもなく、全部が頭の中にある。今日見たもの、聞いた言葉、感じた空気の温度。消そうとしても消えない。


 オボロが、部屋の隅にぼんやりと浮かんでいた。白い毛並みが暗闇の中でかすかに光っている。


 こいつは今まで、俺に情報を「教えて」きた。上野原の電話番号も、パソコン甲子園の賞状の文面も、すれ違った生徒が笹子先輩の制服を持っていたことも全部、オボロが「見せた」——そう思っていた。


 でも。


 本当に、そうなのか。


 電話番号は、教室に無造作に置いてあった『部活動の連絡用の回覧板』が視界に入っていた。賞状の文面は、職員室前のガラス棚越しに一度だけ目に入った。すれ違った生徒が持っていた制服は、俺が視界に一度入れたものだ。


 全部、一度は見ている。

 オボロは、外から情報を持ってきたのではない。俺の記憶の底に沈んでいたものを、引きずり出していただけなのではないか。


 だとしたら——オボロは何者だ。

 妖狐の怪異。俺にしか見えない存在。俺にだけ情報を教えてくれる、便利な味方。


 ……便利すぎないか。


 オボロは何も言わなかった。

 部屋の隅で、じっとこちらを見ている。その沈黙が、今夜はいつもより重かった。


 雪花に居場所を渡した日の夜、俺は初めて、自分の中に居場所のない記憶があることを疑った。



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