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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第6章 【塵塚怪王】 ちりづかかいおう
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■第45話「いてもいい部屋」


 放課後の旧館は、新館に比べると空気がひんやりしている。コンクリートの壁が夏の熱を残しきれず、渡り廊下を抜けた瞬間に温度が一段下がる。


 俺の少し後ろを、雪花《ゆきはな》真白《ましろ》が歩いていた。


 歩幅が小さい。速度も遅い。俺が二歩進むと、雪花は一歩半。自然に距離が開きそうになるのを、こちらが速度を落として合わせる形になっていた。


 会話はほとんどない。


 昨日の白花神社で「被服部に来てもいい」と言った。今朝、教室で雪花に「放課後、行くか」と聞いた。彼女は少し迷ってから「……はい」とだけ答えた。それだけだ。


 1年3組のクラスメイトは、雪花が登校をしていることにさほど反応しなかった。初日のような歓迎の波は来なかった。それはたぶん、良くも悪くもない。もう「特別なこと」ではなくなったのだ。存在が処理された、と言い換えてもいい。


 旧館の階段を上がる。家庭科準備室——被服部の部室は、二階の廊下の突き当たりにある。


 ここに来るのは、俺にとっても日常になりつつある。一学期の笹子先輩の一件以来、事実上の活動メンバーみたいな扱いを受けている。カメラマン兼荷物持ち兼雑用係。被服の知識はゼロだが、山田先輩は「いていいよ」と言った。それだけで居続けている。


 部室の前で立ち止まる。雪花の足音が、後ろで止まった。


「……ここですか」

「ここ」


 扉を開ける。


 ミシンの上に広がった生地。トルソーに仮留めされた衣装の型紙。壁に貼られたデザイン画とファッション誌の切り抜き。窓から差し込む西日が、布と糸の上に金色の帯を落としている。


 空気が違う。

 教室とは、根本的に違う。

 ここには「なじめ」も「元気出して」もない。代わりにあるのは、布の匂いと、誰かが何かを作っている気配だけだ。


 部室の奥で、笹子先輩がアイロン台の前に立っていた。今日は女子制服。長い髪を一つに束ねて、接着芯を布に当てている。


 俺が入ってきたのに気づいて顔を上げた。その視線が、俺の後ろの雪花に移る。


「お、その子が才くんって言ってた新入り?」


 笹子先輩は雪花をじっと見たりしなかった。値踏みもしない。ただ、アイロンの手を止めずに軽い声で聞いた。


「才くんから聞いとるで。アイメイ好きなんやってな」


 雪花が少し体をこわばらせた。初対面の人間に、いきなり趣味を言い当てられたのだから、無理もない。


「推しキャラ、蝶子なんやろ?」


 「大丈夫?」とは聞かない。「無理しなくていいよ」とも言わない。

 好きなものの話から入る。それが笹子玲という人間の距離の詰め方だった。


 雪花は少し迷って、それから小さく答えた。


「……ええ」


 笹子先輩の顔がぱっと明るくなった。


「同担や。うちもやで。蝶子かわいいよなあ」


 雪花の肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。ほんの少しだけ。


 部室の隅で布を裁っていた山田先輩が、ちらりとこちらを見た。雪花を一瞬だけ確認して、それだけ。


「好きなとこ座りな。邪魔にならなきゃ何してもいいから」


 それだけ言って、山田先輩は布に目を戻した。


 歓迎ではない。

 受け入れでもない。

 ただ、「ここにいることを禁止しない」と言っただけだ。


 雪花は戸惑っていた。

 一昨日の教室では、善意の人たちが「なじませよう」としてきた。荷物を持とうとして、席まで案内して、「困ったことあったら言ってね」と押しつけてきた。


 被服部はその全部がない。

 あるのは、好きなキャラの名前を聞かれたことと、好きな場所に座れと言われたことだけだ。


 雪花は、窓際の空いた椅子に小さく座った。


**


 笹子先輩が蝶子の話を広げ始めると、雪花の反応が変わった。

「蝶子やったら、二章終盤の変身シーン見た? あの直前の台詞がほんまにええねんな」

「……見ました。変身前の、あの——『あなたに会えて後悔なんてしたくない』ですよね」

「そうそう。あの台詞から変身バンクに入るのがずるいのよ。泣くやん」


 雪花の声が、ほんの少し前に出た。さっきまでの「……です」「すみません」とは違う。抑えているのに抑えきれない、好きなものの話をするときの温度。


「変身後のドレス、ヴィクトリア朝のメイド服がベースなんですよね。エプロンのフリルの重ね方が……」

「え、そこ見てるん?」


 笹子先輩が身を乗り出した。


「うち、まさにそこの再現で苦労してんねん。コスプレ用に作ってるんやけど、エプロンの裾の広がり方がうまく出なくて」

「あれ、たぶんアンダースカートにボーンが一本入ってます。ヴィクトリア朝後期のスタイルだと腰から裾にかけて自然なAラインが出るんですけど、そのまま再現すると動きが死ぬので……公式映像だと歩くたびに裾が揺れているから、硬めの芯地を部分的に使い分けてるんじゃないかと」

「……ちょっと待って。それ、どこで調べたん」

「服飾史の本で……すみません、細かすぎましたか」

「細かくない。めちゃくちゃ助かる」


 笹子先輩は手元のアイロン台を指さした。


「これ、蝶子のエプロン部分の試作や。今の話、めっちゃ参考になるんやけど」


 雪花は、試作品をほんの少しだけ覗き込んだ。


「……ここのフリルの折り返し、もう少し深く取った方が、公式のシルエットに近くなると思います」

「うわ、それ。そこで悩んでてん」


 笹子先輩が嬉しそうに笑った。


「その視点、めっちゃええやん。うち一人やと煮詰まるところやった」


 気を遣われる子。かわいそうな子。退院したばかりの子。

 被服部では、そのどれでもない。

 ヴィクトリア朝の服飾を頭に入れていて、フリルの折り返しに意見を出せる一人の人間。雪花は初めて、「好きなものの側」から会話に入っていた。


 俺は部室の端で、その光景を見ていた。

 白花神社で見た雪花とは、少しだけ違う顔が出ている。ほんの少しだけ。でも確かに。


 ——よかった。


 その安堵が湧いた瞬間に、別の違和感が視界の端に引っかかった。


**


 初狩《はつかり》は、部室の反対側でスケッチブックを開いていた。


 最近はこちらでも作業することが増えている。アナログで描かないと感覚を忘れちゃう——と初狩は言っていた。それは事実だろう。でも、理由はそれだけなのか。


 初狩はもともと無口な方だ。部室でも、自分の作業に集中しているときは話しかけるまで黙っている。それは普通のことだ。


 でも今日は、それ以上に反応が遅かった。

 笹子先輩が蝶子の話をしているときも、会話に乗ってこない。蝶子推しは初狩も同じはずだ。普段なら何か一言——皮肉めいたものか、好みの違いを指摘するものか——が出てくるところだ。


 それが、ない。


 会話に参加していないというより、神経の一部がずっと別のところへ行っている感じだった。


 笹子先輩が軽い声で言った。


「時雨ちゃんも蝶子描いてたやんな。ちょっと見せてえや」


 初狩は少しだけ間を置いた。


「……描いてます」


 その返答の遅さが、引っかかった。

 初狩が絵の話題に乗り遅れることは、俺の知る限りない。


 笹子先輩がスケッチブックを覗き込む。雪花もつられて少し視線を向ける。俺も見た。


 蝶子の立ち絵だった。全身。衣装のディテールまできちんと描き込まれている。構図もしっかりしている。


 でも、何かが違う。


 線が少し荒い。いつもの初狩の線は、もっと柔らかかった。迷いなく引かれているのに、どこか穏やかで、見ている側の目を優しく誘導する線。今描かれているのは、それとは違う。技術的には上手い。でも、硬い。


 色も不自然だった。初狩の絵の特徴は透明感のある色遣いだ。光を含んだような、薄い層を重ねて奥行きを出す塗り方。それが、今の絵にはない。代わりに、加工されたような鮮やかさが表面に乗っている。鮮やかなのに、奥行きがない。


 構図も、今までの初狩なら選ばない角度だった。SNSで流行っているような、画面映えを意識した寄りの構図。初狩はいつも、もう少し引いた位置でキャラクターの全身のバランスを見せるタイプだ。


 下手になったのではない。

 むしろ器用に変えている。

 だからこそ、気持ちが悪い。


「……絵柄、変えたか」


 口をついて出ていた。言おうと思って言ったわけじゃない。


 部室の空気が少し止まった気がした。


 初狩は、すぐには答えない。スケッチブックをわずかに手前に傾けて——伏せるほどではないが、角度を変える動き——それから、静かに言った。


「ええ。少しだけ……」


 彼女は少し言いよどんで、言葉を続ける。


「同じことを続けてると、飽きられますし」


 表向きには、もっともらしい答えだった。クリエイターが画風を変えるのは珍しいことじゃない。挑戦。進化。新境地。そういう言葉で包めば、何もおかしくはない。


 でも俺には、言い訳に聞こえた。


「前の絵の方が、お前っぽかった」


 もう一歩、踏み込んだ。これも計算じゃない。ただそう思ったから言った。


 初狩が、俺を見た。

 いつもの毒舌でも、丁寧な皮肉でもない目だった。


「"わたしっぽい"って、便利な言葉ですね」


 声は静かだった。丁寧語のまま、いつもの調子のまま。でも、刃の入り方が違った。


「そのせいで、盗まれやすくもなるのに」


 空気が、一瞬だけ凍った。


 盗まれる。

 その言葉が、何を指しているのか。俺はまだ正確にはわかっていなかった。でも、初狩がこの二学期に入ってから見せていた小さな異変——事務的なメッセージ、散漫なペンの動き、スマホを隠す仕草——の全部が、今の一言に集約された気がした。


 沈黙が数秒続いた。


「まあ、変えるんも創作のうちやしな」


 笹子先輩が、軽い声で空気をずらした。


「でも蝶子の肩のライン、もうちょい丸い方がかわええで」


 話題が自然に設定の方へ戻った。


 場は壊れなかった。

 笹子先輩の「変えるんも創作のうちやしな」は、否定でも肯定でもない。ただ、この場で追及が始まるのを止めた。それだけだった。


 でも俺の中には、初狩の言葉がはっきり残った。


 ——盗まれやすくもなるのに。


 あれは、拗ねた皮肉じゃなかった。


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