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都市伝説は、忘れられた名前に届く  作者: オカノヒカル
第6章 【塵塚怪王】 ちりづかかいおう
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■第44話「観測者が見つけられた日」


 住宅地の細道が途切れて、短い坂が見えた。その先に、石段。褪せた朱色の鳥居。


 白花神社。


 石段を上がる。足の下で苔と砂利が擦れる。九月の夕方、木立の向こうから落ち葉の乾いた音が聞こえた。蝉はもういない。代わりに、どこかで秋の虫が鳴き始めている。


 境内は静かだった。

 拝殿と本殿。古い手水鉢。数本の木。規模は小さく、社務所もない。住宅地から少しだけ切り離された、忘れられかけた場所。


 その境内の端、石段の脇の縁石に、雪花真白が座っていた。


 制服姿のまま。鞄を膝の上に抱えている。泣いてはいない。怒ってもいない。ただ、境内の向こうに見える住宅の屋根と電線を、焦点の合わない目で眺めていた。


 空っぽに近かった。


 俺は石段の上で立ち止まった。


 境内に入るべきか、一瞬だけ迷った。夕方の神社で女子と二人きりという状況への気まずさが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。だがそんなものは、次の瞬間に消えた。代わりに来たのは、別の種類の緊張だった。


 今ここで言葉を間違えたら、この子はもっと遠くへ行く。


 安い励ましは駄目だ。「大丈夫だよ」も「そんなことないよ」も、昨日あの教室で散々投げつけられた善意と同じ構造になる。俺がここで正しい言葉を選べる自信は、正直、なかった。


 でも、一つだけわかっていることがある。


 俺は石段を下りて、雪花の前に立った。


「——きみのメッセージを受け取った」


 雪花の目が、ようやく焦点を結んだ。

 こちらを見上げる。驚きと、警戒と、それから——何か予想していなかったものに触れたような、かすかな戸惑い。


「……どなたですか?」

「同じクラスの高尾才だ。机の書き込みを読んだ」

「……読まれるとは、思ってなかったです」


 声は小さかった。でも、消え入りそうなほどではない。言葉が、ちゃんと形になっている。


 俺はそれ以上、急かさなかった。

 雪花の隣の縁石に、少し距離を空けて座った。石の冷たさが制服越しに伝わる。境内の向こうで、風が木立を揺らした。落ち葉が一枚、石段に舞い落ちる。


 しばらく沈黙が続いた。


 雪花が先に口を開いた。

 石段の先を見たまま、ぽつりと。


「ずっと、早く教室に行きたいと思ってました」


 声の温度が、少しだけ変わった。


「自分の机に教科書を置いて、授業を受けて……そういう普通のことがしたくて。別に、友達がすぐできるとか、楽しいことがあるとか、そういうのじゃなくて」


 間。


「ただ、自分の席に座りたかったんです」


 その言葉は、昨日の教室では誰にも言えなかったものだったのだろう。


「でも今日行ったら、もうそこは私の場所じゃないって、すぐわかりました」


 雪花は視線を少し落とした。


「知らない人が使った跡があって、知らない言葉がたくさんあって。悪意があったかどうかは、たぶん関係ないです。……私がいないあいだに、なくなってたんだと思います」


 断罪ではなかった。

 クラスメイトを責める言葉は一つもない。ただ、自分の居場所が消えていたという事実を、静かに認めている。怒りではなく、観察。——でもその観察の奥に、彼女がまっすぐ受けた痛みがある。


 俺は少し間を置いてから、口を開いた。


「……たしかにあの机の落書きは、きみに向けて書かれたものじゃなかった」


 雪花がこちらを見た。


「きみがそう感じたのは、たぶん間違ってない」


 それから、もう一つ。言うべきか迷って、言った。


「けど……俺も今日、きみを見てた。見てたのに、何も言えなかった」


 雪花は少し目を見開いた。

 それから視線を前に戻して、何も言わなかった。でも、さっきまでとは空気が少しだけ違った。彼女の肩の力が、ほんの少しだけ抜けた気がした。


 初めて——この場で、会話が成立する余地が生まれた。


**


 沈黙が、もう少し続いた。

 境内の端から夕日が差し込んで、石段の苔を金色に染めている。遠くで電車の音が、木立の向こうにかすかに混じった。


 雪花が、スマホを握り直した。何かを迷うように指先が動いて、止まって、また動く。


「入院してるあいだ、ずっと暇で」


 唐突だった。さっきまでの文脈から外れた声。でも、雪花の中では何かがつながったのだろう。


「最初は、時間を潰すために読んでただけでした。ネットの小説とか、適当に」


 俺は黙って聞いた。


「でも、ひとつだけ、ずっと続きを待ってた話があって」


 雪花の声が、わずかに変わった。さっきまでの痛みを語る声とは違う。好きなものの話をするときの、あの——抑えているのに少しだけ前に出てしまう感じ。


「その話、誰にも見つけてもらえないまま、ずっと取り残されてるみたいな人が出てきて。なのに、その人は、誰かを見つけようとしてて」


 呼吸を整えるように、少し間を置く。


「……変だと思ったんです。そんなの、苦しいだけなのに」


 俺の胸の奥で、何かが嫌な音を立てた。


「でも、読んでるうちに。そういう人がいるなら、少しだけ安心できる気がして。私だけじゃないのかもしれないって、思えたんです」


 雪花はスマホの画面をこちらに向けた。


 小説投稿サイトのページ。ブックマーク一覧。その中の一つが開かれている。


 ——俺の小説だった。


 視界が止まった。


 あのサイトに投稿しているのは知っている。自分で投稿したのだから当たり前だ。閲覧数は少ない。ブックマーク数は1。感想は一件もない。誰にも読まれていないと思っていた。


 それが、ここにあった。

 今この瞬間、消えかけていた子のスマホの中に。


 雪花は、目の前にいるのが作者本人だとは気づいていないはずだ。ただ、自分を支えたものを見せている。


「この話、好きでした」


 声は小さかったが、確かだった。


「……自分と重なったからかな。でも、それで勇気ももらえていたんですよ」


 俺は、すぐには何も返せなかった。


 見つけに来たのは俺の方だった。机の文字を読んで、縦読みを解いて、白花神社まで来た。雪花真白を「見つける」ために。


 でも、先に見つけられていたのは俺の方だった。

 あの小説を通して、こいつは俺を知っていた。会ったこともない、顔も見たことのない書き手を、入院のベッドの上でずっと読んでいた。


 自分が何となく書いていたものが、たった一人の人間の支えになっていた。

 しかもそれが、今ここで消えかけている子だった。

 その事実が、胸の奥で鈍く詰まって、うまく呼吸ができなかった。


 クラスをどうにかできるとは思わない。

 昨日の教室を、なかったことにもできない。

 でも、このまま雪花真白を「いなかった側」に戻すのだけは、駄目だ。


 せめて一つ。この子がいてもいい場所を、どこかに作らなければいけない。


 重くなりすぎた空気を切るみたいに、俺は少しぶっきらぼうに口を開いた。


「……他に、好きなものないのか」


 雪花はきょとんとした顔で俺を見た。話題が急に変わったことに戸惑っている。


「他に、って」

「入院中に読んでたもの以外で。ゲームとか、漫画とか、何でもいい」


 雪花は少し考えてから、控えめに答えた。


「入院中はスマホしか娯楽がなかったので……アイメイ、やってました」

「アイドルメイドか……」

「蝶子推しです」


 その名前を聞いた瞬間、頭の中でひとつつながった。


 被服部。笹子玲。同じゲームの、同じキャラが好きな先輩。あの部室には、歓迎も同情も押しつけず、ただいてもいい空気がある。「好きなとこ座りな。邪魔にならなきゃ何してもいいから」と言ってくれる山田先輩がいる。好きなものの話から入ってくれる笹子先輩がいる。


 今の雪花に必要なのは、たぶんああいう場所だ。


「被服部に、アイメイ好きの先輩がいる」


 雪花の目が、ほんの少し動いた。


「蝶子推しだ」

「……え」

「別に、何かしろって話じゃない。ただ、いてもいい場所ならある」


 雪花はすぐには答えなかった。予防線を張るみたいに、小さく言う。


「……私が行っても、迷惑じゃないですか」

「いいもクソもない」


 ほとんど反射で返していた。それから、少しだけ言い方を整える。


「来たいなら来ればいい。たぶん、あそこはそういう場所だ」


 雪花はその言葉を、慎重に確かめるように黙って聞いていた。

 教室で向けられた善意とは違う。「なじんでね」とも「元気出して」とも言われない。ただ、来てもいいと言われただけだ。


 それだけのことが、今の雪花には——たぶん、妙に遠くて、でも少しだけ信じてみたくなる言葉だったのだろう。


「……行って、みます」


 ほんの少しだけ、声が前を向いた。


 俺は頷いた。

 それ以上は何も言わなかった。ここで余計な言葉を足したら、台無しになる気がした。


**


 白花神社の石段を下りて、住宅地の道に出た。


 雪花とは境内で別れた。「家はこっちなので」と小さく言って、反対方向に歩いていった。その背中は、さっきまでの空っぽとは少し違って見えた。劇的に何かが変わったわけじゃない。でも、「どこにもいない人」の背中ではなかった。


 スマホの画面を見た。

 クエストの文面が、頭の中でよみがえる。


 ——声なき声を拾え。見えなかった「ひとり」を、元の場所へ戻せ。


 元の場所。

 それはもう、1年3組の教室ではないのかもしれない。あの教室の、あの席は、五ヶ月の間に「雪花真白の場所」ではなくなってしまった。戻そうとしても、戻る先がない。


 だとしても。

 居場所がないまま消えていくよりは、ずっといい。


 明日、雪花を被服部に連れていく。

 それが正解かどうかはわからない。でも、今の俺にできるのは、それくらいだ。


 住宅地の道を歩きながら、さっきの雪花のスマホの画面を思い出した。

 あの小説。俺が書いた、誰にも読まれていないと思っていたあの話。


 雪花真白は、あれを読んでいた。

 「好きでした」と言った。「勇気をもらえた」と。


 その言葉の重さに、まだ全然追いつけていない。

 追いつけていないことだけが、嫌というほどわかった。



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